第35話彼は欲しいと言った


 市役所を出た俺たちは、霧の花を目指して歩く。


 ふいに、リピは顔を上げる。


 そこには青い空が広がっていて、白い雲が浮いていた。いつもの空の光景が広がっていて、俺たちにとっては見慣れた光景だった。


 自由になったリピの目には、今までとは何か別のものが見えているのではないかと俺は静かに興奮した。運命的でドラマティックな何かを期待していたのである。


 だが、予想に反してリピは驚きも喜びもしなかった。微笑みさえも浮かべずに、淡々とした口調で呟く。


「空は青、雲は白。水はきらめいて、星の光は儚い。太陽の日差しは強くて、鳥は自由に飛んでいく。僕の身分が変わったところで、世界はいつもの美しいまま――」


 詩のような言葉を呟いて、リピは小さく微笑む。


 安堵したような微笑みだった。


 俺はリピと同じように空を見上げるが、リピのような詩的な表現は浮かんではこなかった。美しい宝飾品を作るリピの目には、世界はどのような美しさを見出しているのだろうか。


「ユーザリさん、アゼリさん。少しお話をしてもいいですか?」


 リピは足を止めて、俺とユーザリを見た。


 俺たちには、リピが何を言いたいのか分かっていた。分からない人間がいるはずがないのだ。俺たちは、リピにあまりにも難しい選択を強いていたのだから。


「御二人は、僕にとって大切な人です。僕がどんなに長く生きたとしても、御二人以上に『好き』と思える方々はいないでしょう」


 リピは、並んで立っていた俺たちの間に入る。


 そして、俺とユーザリの腕をぎゅっと掴んだ。それは、まるで縋りつくような掴み方であった。


「だから、お願いします。僕は……僕の罪深い願いをお聞きください。受け入れなくともいいのです。だから、聞くだけでかまいません」


 そうやって前置きをしたユーザリは、大きく深呼吸をした。


「僕は、御二人を同じように好きです。普通は愛する人は一人だけなのでしょうが、そのようなことが僕には出来ません。性奴隷なんていう浅ましいことをしていたせいなのかもしれませんが……どんなふうに考えても、いくら思い悩んでも、答えは出ないのです」


 だから、とリピは言葉を切った。


 リピは、俺とユーザリを見つめる。その瞳には、何かをあきらめているような感情があった。この世で自分自身が一番罪深いと考え、神に懺悔しているかのようであった。


「御二人を共に好きと言ってもいいですか。僕は、御二人から一人だけを選べません。これが異常なことであることは、僕にも分かっています。ですから、御二人の判断にゆだねます」


 リピは、無理をして笑っていた。


 どちらも選べないと言うリピは、どちらからも選ばれない可能性を知っていた。一度に二人を好きになることを異常だと言って、大切な人間が自分の前からいなくなるかもしれないということを理解していたのである。


 これこそが、リピの選択であった。


「それは、俺たちに遠慮しての答えではないんだな」


 ユーザリの質問に、リピは頷いた。


「それはありません。僕は、僕の不甲斐なさから御二人をお慕いしているのです」


 リピの手が震えている。


 怖いのだ。


 俺たち二人を失う可能性を考えて、怖くてたまらなくなって震えているのだ。俺は、リピと最初に出会ったときのことを思い出していた。


 どれだけ彼を美しいと思っても、隣のユーザリを気にして触れることが出来なかった。けれども、今は違う。


 隣にいるユーザリは心の傷を乗り越えていて、なにも遠慮するものはなかった。リピの手を取らなければならないと強く想ったのだ。


 俺は、時間が巻き戻ったとしても何度もリピをユーザリに譲るだろう。そうでなければ、ユーザリは立ち直ることは出来ないはずだ。


 けれども、今ならば許される。


 俺は、リピを抱きしめた。夜に何度も抱きしめたはずの身体なのに、初めて抱きしめたように感じられる。リピは驚いていたが、ユーザリの腕を掴むことを止めてはいなかった。


 それを見た俺は、リピが本当に俺たち二人を求めていることを強く実感した。


 それは、ユーザリだって分かっていただろう。だが、ユーザリはリピの手を振り払った。リピの手が虚しく空をかいたが、俺がユーザリの手を掴まえる。


「自分が去れば、全てが解決するって思っているだろ。俺だって、思っていたんだよ。そんな無駄なことを、な」


 主人であるユーザリとリピが結ばれたらハッピーエンドで、自分は邪魔なだけだと俺は考えた。何度も考えたが、リピの前から去ると言うことが出来なかったのだ。


 それぐらいに、リピの事が好きだった。


 俺以上にリピのことを考えて行動をしたユーザリだって、リピとは離れがたいであろう。


 それでも、リピと友人のことを考えてしまうのだ。


 それがユーザリという男で、俺と同類の友人だった。


「お前だって、リピが好きなんだろ。それでもって、俺のために去ろうとしているなら……いっそのことリピの手を取れよ!たしかに、一般的な関係ではなくなるかもしれない。それでも、欲しいのならば手を取れ。……そうしないと苦しむだけだ」


 ユーザリには、リピが必要だった。


 俺にも、リピが必要だった。


 リピには、俺たち二人が必要だった。


「なんで、俺を無視して二人で幸せにならないんだ。お前は馬鹿なんだろ!なんで、そこまでお人よしなんだよ!!」


 ユーザリは、泣きそうになっていた。俺にも覚えがある感情だった。自分さえいなくなれば、残りの二人は幸せになれる。そう考えて苦しんだ。


 俺の苦しみは昇華されず、いつまでも胸の中に残ったのだ。ユーザリだって、苦しみが残るはずだ。だから、俺はユーザリの手を掴むのだ。


 ユーザリは、とてもゆっくりリピを抱きしめる。


 それは、俺すらも包み込むようであった。


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