第32話平民になったら選択しなければならない


「丁度良い機会だ。今後とも取引していく相手に紹介できるからな」


 ユーザリの物言いに、リピは不思議そうに小首をかしげる。このタイミングで話すことなどあるだろうかと俺も不思議に思った。なにせ、奴隷の主はすでにリピの事など知っている。


「リピを奴隷ではなくて、近い内に平民の身分にする。そして、従業員として正式に俺の店に雇うことにした。雇うという部分にはリピが了承する必要があるから、これはあくまで過程の話でもあるけどな」


 ユーザリは、リピが平民になった際の話を進める。


 ユーザリの店で職人として働くことになるリピには、相応の給金と場合によってはボーナスを出すこと。


 今まで通りにユーザリの家に住まうことが可能だが、給料から部屋代を出すこと。


 家事労働については別途に給料を出すが今のようなリピ一人で全てやらずに、ユーザリも家事を分担すること。


 そして、これらのことは全てリピが最終判断を下し、気に入らない事があればユーザリと相談したり拒否する権利があるということだ。


 主の突然の提案は、リピを困惑させる。


 俺がリピを困らせた以上に、リピは突如として渡された選択という自由に戸惑っていた。


「奴隷を辞めさせる正式な手続きは後日だけど、今後はリピはうちの店の正式な従業員だと思って扱ってくれ」


 ユーザリの願いに、呆気に取られていた奴隷の主は「お……おう」という締まらない返事を返した。田舎では平民の身分になる奴隷は珍しい。その手続きには大金が必要となり、主人が金を用意することになるからだ。


 都会では、商売などを手伝うことによって奴隷が店にとって代えがたい人材になることがある。そうなると法律上の問題で行動が制限される奴隷の身分は邪魔になってしまう。そのような場合に、奴隷を平民にする場合があった。


 奴隷に手を出して子供を産ませた男が、我が子が可愛くなって平民の身分を買い与えたという話も聞いたこともある。さらに愛した奴隷の身分の女や男のために相手を平民にするという事もあり、都会では奴隷が平民になるというのは物凄く珍しいというわけではない。


「ご主人様……平民になるというのは、自由になるという事ですよね。僕には経験がないことです。自信がありません。自分で選択して、自分一人で生きていくだなんて……」


 未来を恐れるリピの手を握ったのは、ユーザリであった。


「自由って言うのは、一人で生きていくっていうことじゃない。自分の事に対して選択権があるってことだ。どこに行ったって良いし、何を食べても良い。……抱かれる相手だって選んでいい。いいや、抱かれないことも選んでいい」


 リピの頬を撫でるユーザリは、とても優しげな表情をしていた。


 その表情と言葉に、リピは安堵していた。やはり、ご主人様は俺ではない。リピに安念を与えられるのは、ユーザリしかいないのかもしれない。


「リピ……。自由になったら、いつか選んでくれ。俺とユーザリのどっちらが好きなのか。あるいは、どちらも選ばないのか」


 俺たち二人の事が好きだと言っていたリピは、ユーザリの言葉に目を見開いた。自由になるということは、主を失うということになる。


 主人だからという理由で、ユーザリは慕えない。


 ユーザリに命令されたからという理由で、俺と肌を合わせることも出来ない。


 全てはリピの選択にゆだねられる。


「無論、ユーザリを選んだところで俺はお前を追い出したりはしない。ここに住んで良いし、俺はお前を大事な職人として扱う。今と変わらない関係だから、純粋に好きな人間を選んでくれ」


 俺は、目を見開いた。


 ユーザリが今までリピを抱かなかったのは、リピに公平に選ばせるためでもあったのだ。自分を失うことで生活基盤の全てをなくすことを恐れさせず、いつもの関係を続けられる。ユーザリ本人の感情は関係なく、リピの生活を守られると証明するためだったのだ。


 こんなにも人を理性的に思いやれる人間などいるだろうか。


 普通の人間だったら、住む場所や働く場所を盾にして交際を迫ってもいいというのに。そのようなことをせずに、ユーザリはリピの心だけで選択できる場を整えたのである。


「ご主人様……その」


 リピは何か言いたそうだったが、言葉が出ないようだった。


 視線をさまよわせて、結局はユーザリのところに戻っていく。


「一番最後に、一番大切なことを言うぞ」


 ユーザリは、揺れるリピの瞳を見つめる。


 その言葉は、一番最後でなければならなかった。リピの主人であるからこそ、その呪いのような言葉でリピを縛ってはならなかった。だからこそ、ユーザリは最初にリピの生活を保障したのだ。


「俺は、リピのことを好きだ。職人としても好きで、尊敬もしている。そして、リピという一人の人間が好きなんだ」


 主人の真摯な告白は、これ以上ないほどにリピの心を揺らしていることであろう。仕方がない事である。俺は、ここまで相手のことしか考えていない告白など見たことがない。


 こんなにも思いやりに溢れた告白は、相手を必ず幸せにするという覚悟のようにも思えた。


「リピが俺のことを選ばなくとも、職人としてのリピへの尊敬は変わらない。それが一番大事なことだから、覚えておいてくれ」


 リピは、最初こそ戸惑っていた。


 やがて、決心を決めたかのようにユーザリと見合った。


「ご主人様、僕は恐れ多くもあなたが好きです。アゼリ様が好きです。御二人のことは、たとえ新たなご主人様の所に行こうとも忘れないと考えていました」


 その言葉は、俺にも言ったことである。


 忘れられない事や人のことが好きという感情だ。


 俺は、そのようにリピに教えた。


 それが、俺が教えられる限界であったのだ。


「この考えや感情は、ご主人様たちが言う『好き』という言葉には足りないのかもしれません。けれども、それでも許してくださるならば……僕は平民という身分になったときに最初の選択をしたいと思っています」 


 リピは、俺の限界を軽々と飛び越えた。


 自分の足りないことを自覚し、それでも今できることを探した。


 俺とユーザリは驚いて、互いに顔を見合わせる。


 リピが、こんなにも早く選択をする決心をするとは思わなかったのだ。俺としては一年や二年はかかると思っていたというのに。


「……今日は申し訳ありませんが、先に休ませていただきます」


 ぺこり、と俺たちにお辞儀をしてリピは消えていった。


 それからは、なんとなく話が盛り上がらなくなって奴隷の主は帰ることになった。田舎の奴隷たちは清々しい顔をしており、十分に楽しい時間を過ごせたようである。


「なぁ……お前って、リピのどこに惚れたんだ。俺は、一目惚れだったけど」


 奴隷の主を見送りながら、俺はぼそりと呟いた。


 酔っぱらった勢いでリピを買ったときは、ユーザリはリピに惚れているようには思えなかった。というよりは、リピを認識しているかどうかもあやしいものだった。


「最初は、魔石の加工の技術に惚れた。そして、段々と思うようになったんだ。俺はこいつとならば、店を切り盛りしていける。一緒のものを見られる。だから、一緒に生きていたいと思ったんだ」


 『好き』という感情が重かった。


 もはや、今すぐにプリポーズしたいと思っていそうな『好き』だ。ユーザリに捕まったら、三か月後ぐらいにはリピは結婚しているような気がする。ユーザリはリピのことを幸せにしてくれそうだから、別に心配はないが。


「お前……。人のことを結婚フェチかよ、とか考えているな」


 ユーザリは、そんなことを言い出す。残念ながら、そんなことは考えていない。手が早いというか色々な覚悟が早すぎるとは思ったけど。


「自分でも重すぎることは自覚しているんだ。でも、前の相手がファナだったからな。どうしても結婚という言葉がチラつくんだよ」


 元婚約者持ちは、俺とは考えていることが違った。


 俺は、すぐに結婚なんて出来そうにもない。休みの日に一緒に出掛けて色々なものを食べたり、知らないものを教えてあげたりする程度だ。一般的なデートをして、ゆっくり進展させていく事しか考えられない。


「平民になったら、すぐに選びたいか……。そんなことを言うことは、リピの心は決まっているって事なんだよな」


 だとしたら、もう勝敗は決まっているのだ。


 今更になってあがいてもしかたがない。


「アゼリ、リピのことを好きになってくれてありがとうな。おかげで、俺は安心してリピを自由にできる。味方が俺だけだったら、リピは俺を選ぶしかなかった。『ご主人様』なんて大層なものに並ぶぐらいリピを愛して好かれてくれたから、俺は安心してリピに選ばせることが出来るんだ」


 俺に向かって笑っていたユーザリを見て、こいつの元を離れたファナの気持ちが俺には分かった。ユーザリは、他人に対して思いやりがありすぎる。こんなふうに全力で愛されたら、自分の実力不足に巻き込めないと思うのは当然だろう。


「お前は、本当に……酒癖以外は良い奴だよ」



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