第8話元婚約者の後悔


 帰るために用意された馬車に乗ったファナは、親指の爪を噛んだ。


 昔からの悪癖で、大人になってからは矯正したはずの癖だ。だが、あまりの悔しさに無意識に爪が口に伸びていた。


「なんなのよ……あの子」


 初めて見る顔の人間が、ユーザリの店にいた。端正な顔をした少年とも青年とも言える曖昧な年齢で、自分より歳下であることに間違いはない。それほどまでに若い彼は、ファナの作品に父の手が入っていることを看破した。今までユーザリだけが見抜いていたが、口にはしなかった秘密だ。


 ファナが、ユーザリとの別れを決めた理由の一つでもあった。


 彼が何者かは不明だが、目の越えた金持ちの子息だとは思えないので業界の関係者であろう。ユーザリと同等と思しき審美眼を持つ彼は、リピと呼ばれていた。


 聞き覚えのない名前だった。


 広いようで狭い業界だ。コンテストに出場するような職人や街にある店の経営者の名はファナだって知っていたが、誰にも当てはまらない。


「まさか、あの子が店の職人になるとか言わないわよね……」


 あれだけの審美眼を持っているならば、どこかの職人の弟子だったのかもしれない。一番弟子ならともかく二番弟子や三番弟子ならば、ファナだって名前を知らない可能性はあった。


「まったく、あのユーザリという男に関わると碌な目に合わない」


 向いに座ったテオルデが、腕を組みながら不機嫌そうにしていた。テオルデは貴族を意識し、他人の目があるところでは紳士的に振る舞う。


 ただし、それはテオルデが考える理想の紳士像でもある。平民を見下し、自分は特別な存在であると思い込んでいるのだ。それを味わうことで、テオルデは優越感を覚える。


 ファナから見ても、良い趣味をしている男だとはいえない。彼の元にやってきたのは、資金が欲しかったからだ。質の良い魔石があれば、父にも負けない職人になれると信じたかった。それと同時に、ユーザリの人生を転落させないためでもあった。


 ファナの心には、今でもユーザリがいる。彼ほど誠実な男は現れないと知っているし、ユーザリと一緒になれば女としては幸せな人生が送れていたであろう。それに気がついたテオルデは、ユーザリに嫉妬して嫌がらせを始めてしまった。


 ユーザリの店の権利についてだって、本来ならばもっと早く決着がついてきた。店がユーザリのものであるのは誰が見ても明らかで、訴えを起こしたところで当日に却下されるはずだった。


 それをテオルデは、自分の人脈を駆使してまで長引かせた。単なる嫌がらせのためにだ。余りにも子供っぽい行動であるが、ここまでテオルデがユーザリを敵視した理由はもう一つある。


 彼は、元より商人が嫌いなのだ。


 家が貴族だったからというのが、大きな理由なのだろう。貴族というのは土地を持っていて、そこからの税収で暮らしている。商売などの労働は、貴族は卑しいと考えているのだ。そして、庶民に施すことはあっても直接触れ合うことはない。


 実家が没落したことで身分と土地を失ったテオルデにとっては、商売など負け犬の仕事なのだ。しかし、今のテオルデは負け犬に徹することしか出来ない。だからこそ、商人として仕事を楽しんでいるユーザリの姿が癇に障ったのであろう。


 つまりは、八つ当たりだ。


 男としても大人としても器の小さな男である。


「さて、ファナ。工房に着く前に、一つ仕事を頼みがある」


 テオルデの言葉に、ファナは顔を上げる。


 さすがの資金力で、テオルデはファナに魔石を加工するための工房をすぐに用意してくれた。最新の加工に使う機械や良質な魔石もだ。


 他の魔石宝飾職人ならば、羨ましいと思うような最高の環境だろう。この待遇はファナが望んだことで、テオルデがパトロンになるときの条件だった。


「婚約者と職場を捨てるのだから、これぐらいはしてもらわないと困る」


 そのようにテオルデに行ったときには、無理だろうと思っていた。しかし、テオルデは実に簡単にファナの要望を叶えてくれた。


 その時に、ファナは金持ちの力というものを改めて実感した。こんなことは、ユーザリは出来なかっただろう。


「最悪な気分を少しでも変えたくてね」


 テオルデの言葉に、ファナは小さく息を吐く。そこには、あきらめの感情も込められていた。


 男が女のパトロンになるときに、大抵の場合は愛人になることも求められる。だから、男はパトロンになる女には才能と容姿を求めた。


 ファナは、可愛らしい顔立ちをしていた。大人の色気は感じられないが、少女を思わせる童顔である。成人してしばらく経つが、今でも未成年に間違われることがよくあった。


 テオルデには、パトロンになっている女性がファナの他に何人かいた。


 テオルデは、彼女ら全員と愛人関係を結んでいるのだろう。ファナは、そう睨んでいた。彼女らとファナの雰囲気は、どこか似かよっている。テオルデの好みが、幼気な顔立ちなのだろう。


 ファナは、テオルデとの関係を割り切っている。


 良質な魔石を買うにも金がかかる。工房を用意する初期投資だけでも大金がかかっているのだ。肉体を明け渡せと言われても仕方がないと思った。


 肉欲はあるが、そこには愛はない。


 愛を囁かれたことすらなかった。テオルデ自身が、あくまでファナは囲っている愛人に過ぎないと考えているのだろう。


 テオルデが本当に求めているのは、地位のある女性だ。容姿やスタイルなどは関係ないし、知性だって求めてはいないだろう。無知の方がなにかと都合がいいとしら考えているのかもしれない。


 そんな妻を迎えるために、テオルデは詐欺まがいの金儲けに勤しんでいる。金さえ持っていれば、困窮した貴族が金目的でテオルデとの縁を望むかもしれないからだ。


 商才がある人材を求める貴族だってなかにはいるかもしれない。存続税というものが導入されてから、貴族たちは目に見えて財産を失っていた。新たな資金源を用意しようとしても貴族たちは、商売のノウハウを持っていない。


 だからこそ、優れた商人を身内に引き入れたいと願ってもおかしくはなかった。商売に失敗した貴族たちは、現に山ほどいる。彼らの二の舞にならないようにするためならば、下賤な平民の血だって仕方なく受け入れるかもしれない。


 その野望が叶う前に、娼館通いで悪い噂が立ってはいけない。貴族は何よりも面子を大事にするものだとテオルデは知っていた。


 だからこそ、テオルデは女性のパトロンになる。芸術家のパトロンになるということは、その分野に興味関心が強い文化人であるという見方も出来る。娼館遊びよりも印象が良いのだ。


 女性を我慢すれば良い話なのだが、そんなことでは解決しない問題がある。テオルデは性欲が強いのだ。普通の男ならば、馬車のなかで女性を求めるような行いはしないだろう。場所にかまわず相手を求めるだなんて、許されるのは下級の娼婦相手ぐらいだ。


 女性に経緯を示し、大切にしているならば二人以外は立ち入れない個室で事に及ぶのが普通であった。自分の欲望だけを発散させようとしているから、テオルデは女性の扱いが粗雑なのである。

 

 テオルデの手は、ファナの胸に伸びて無遠慮な動きを見せていた。


 ユーザリならば、こんなことはしないはずだ。


 彼は、自分に対して誠実だった。ファナに女性として恥をかかせるようなことは絶対にしなかった。


 そこまで考えて、ファナは意図的に心を殺した。自分から捨てた男を懐かしむだなんて、いくらなんでも都合が良すぎる。あれだけ傍若無人に振る舞ったら、ユーザリだって自分に未練などなくなるだろう。


 父を超えられなかったファナは、ユーザリの元では高みには登れない。ユーザリと共に沈没する未来しかなかったはずだ。


 ファナにとって、ユーザリの愛は鎖のようなものだった。



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