第2話 推しのアイドルとの日常

 

「じゃあ、行ってらっしゃい!ゆうくん!」

「お、おう……行ってくるな」

「ちょっと!!行って来ますのキスは!?」

「き、キス!?な、なにを言って……」

「そりゃあ新婚なんだから、当たり前でしょ!ほら!」

「いやいや、俺遅刻しちゃうから!じゃあ!行ってくるね!」

「ちょ!逃げんなー!ばか〜〜!!」



 こうして、俺は逃げるように家を出た。



 推しのアイドルの、結城音葉が引退して……そして俺が彼女と結婚して1ヶ月が経った。

 今でも、現実であることを疑うが、ほっぺたを抓ってもしっかり痛いので、夢では無いのだろう。

 今日も帰ったら、推しが家にいるのだと思うと、毎日が幸せで堪らない。


 こうして、俺は非現実的な幸せを噛み締めながら会社へと向かった。




 *****




 会社に着いて、自分のデスクに座ると、隣の席で同期の石田がこっちに身を乗り出して言った。


「おい、白川……結婚して幸せそうだよな……」

 石田は、新婚の気分に浮かれている俺を見て、羨ましそうな顔でこちらを見ている。


「そんな石田は、最近どうなんだ?」

「いやぁ……音葉ちゃんが引退してから、新しい推しも見つからなくて、もう大変だよ……」


 石田は、数少ない俺のドルオタ仲間だ。

 同じ推しを応援する仲間として、普段からオタク談義をしている。

 しかし、石田は結城音葉の引退発表からずっと元気が無く、虚な目をしていることが増えた気がする。


 もちろん、俺の結婚相手がその結城音葉である事は伝えていない。

 伝えたらどうなるのか分からないからな。

 少なくとも、無事では済まないだろう。



「はぁ……まさかお前が結婚するなんてな……音葉ちゃんのことばっかりで、付き合ってる雰囲気なんて一切しなかったのにな……」


 実際、交際0日婚なので、付き合ってる雰囲気なんて無くって当然だ。


「石田も良い人探して元気出せよ」

「はぁ……音葉ちゃん以上の女の子なんていないよ……」

 そう言って、石田は机に突っ伏した。





 *****





 家に帰ると、なんだか美味しそうな匂いが部屋中に立ち込めていた。


「ただいま」

 と声をかけると、「おかえり〜!!」と音葉がキッチンから顔を出して行った。


「今、蟹のクリームパスタ作ってるからちょっと座って待っててね〜」


 そう言って、音葉はキッチンに戻り、料理に戻った。


 俺は音葉のエプロンをつけて、高めの位置でポニーテールにした姿にドキドキして、何だか緊張してしまう。

 アイドル衣装も可愛いが、自分しか見れない家庭的な格好というのが……なんだかとても良い……。


 机の上には、途轍もなく豪華な晩御飯が並べられてあった。

 サーモンにアボガドのクリームが添えられた美味しそうな前菜や、帆立とアスパラガスのバターソテーに、コーンポタージュまで作ってある。

 机の端には、恐らく高いであろうワインが置いてあった。



「は〜い!蟹のクリームパスタで〜す!」

 音葉の姿に見惚れていると、音葉がパスタを持って、食卓に運んできた。


「いただきます」

 そう言って、俺は早速パスタを口に運ぶ。

 その瞬間、まろやかなクリームソースが、蟹の風味と絶妙に結びついて口の中で踊るように広がる。

 俺は、思わず目を閉じてしまった。


「ふふっ、お味はいかがですか?」

「すっげぇ美味しいよ……お店開けるんじゃないかってレベルだよ」

「ほんと〜!?嬉しい!ゆうくんのためを思って頑張って良かった〜!」

 音葉の顔には、笑顔が広がり、嬉しそうに揺れている。


 俺は、目の前に座る音葉の可愛さに、ドキドキしながら晩御飯を食べ進めた。





 *****





 2人が食べ終えると、俺は食べ終えた食器をシンクに運んで、皿洗いをする。

 シンクはとても綺麗になっており、常日頃から音葉が掃除してくれているのだろうと思う。


「ゆうくん〜お仕事で疲れてるのに、ありがとね〜」

「いやいや、このぐらいはやらしてよ」

「じゃあお言葉に甘えちゃお〜っと」


 そう言って、音葉はグラスにワインに注いで、1人で楽しんでいた。



「皿洗い終わったよ……って!?……結城さん!?もう酔ってる!?」

「ん〜?別に酔ってないよ〜……ってか、その結城さんって言い方何よ!私もう白川なんですけど!?」

「ほら、やっぱり酔ってる!」

「話を逸らすな〜〜!!ねぇ〜昔みたいに、おとはちゃんって呼んでよ〜!」

「うっ……今更それは流石に恥ずかしいというか、何というか……」


 俺は、結婚してからずっと結城さんと呼んできたので、何だか気恥ずかしくなってしまう。


「なに?そんなに恥ずかしいの〜?ゆうくん〜?」

 音葉は、悪戯っ子のような顔でこちらを見てくる。


「い、いや、そんな……恥ずかしいってことじゃ……」

「だったら、昔みたいに呼んでよ〜ほら!おとはちゃんって!」

 俺が皿洗いをしている間に相当飲んでいたのか、もう完全に出来上がっている。


「分かったよ……ほら……おとは…………ちゃ……ん……」

 そう言って、俺は音葉の方に視線を向けると、音葉は頬を真っ赤に染めていた。


「あ、う……その……はい……なんでしょう……」

 音葉は真っ赤に染まった頬に、手を当てて、そっぽを向いた。

 こうして狼狽える音葉の姿が、とっても可愛くて、ドキドキがさらに加速してしまう。





「あぁ!もう……ゆうくんのことなんて知らない!!!」





 結局、呼び名は『音葉さん』で落ち着いた。

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