第15話

        18.金曜日午前10時


 服部幸弘から電話がかかってきたのは、九時五二分だった。それまで落ち着かず、ぶらぶらとさまよい歩いていた長山が、ようやく自分の席にもどったときだった。

 携帯の番号を伝えていたのだが、彼がかけてきたのはコールセンターの電話だった。

 長山さんを──と告げたようで、すぐ長山につながった。

「あと十分ぐらいでつきます」

 彼はそう言った。表に出て待っています、と長山は応じて通話を切った。

 早歩きになりながら、玄関口に向かった。外にはマスコミが数人いた。顔見知りもいれば、おそらくそうだろうと想像しているだけの者もいる。三鷹の事件と上野通り魔事件を解決した話題性は、まだ廃れきっていない。それでも二日前よりは、だいぶ減っている。

 長山の面は当然のこと割れているから、ここで服部幸弘を待つわけにはいかない。少なくなっているとはいえ、記者たちに目撃されたら、彼が重要な証言者であるということが悟られてしまう。何気ない足取りで歩き、財団本部からは遠ざかった。

 本部の前には、東西を走る幹線道路がある。東西の両方とも最寄り駅には行き着くが、東に進んだほうが近い。山を張って、東へ向かった。一応、西へも振り返って注意はしておいた。

 前方から一人の男性が近づいてきた。

 本能的に、長山はそれを服部幸弘だと思った。

「服部さんですか?」

 長山のほうから声をかけた。男性が立ち止まった。声をかけるまえから彼のほうでも、長山のことを電話の相手だと感じていたようだ。

「長山さんですか?」

「そうです」

 年齢は三十代前半ぐらいで、犯罪とは無縁そうな、穏やかな顔つきをしている。しかし、どこか無機質な印象がある。キレたらなにをするかわからない──と教えられれば、そうかもしれないと思えてしまう。

 卒業アルバムの写真には似ていない。が、これもそうだと言われれば、似ているようにも見えてしまう。不思議なものだ。

「表から入るのは、やめたほうがいいでしょう。裏口に案内します」

 服部幸弘は、黙ってついてきた。建物の裏にまわり、そこからなかへ入った。職員・関係者しかつかえない出入口だ。三階にある応接室──急場でこしらえた──につれていった。

 部屋では、中西が立って待っていた。彼が座るのを見届けると、中西は出ていった。すぐにお茶を運んできた。テーブルに湯飲みを四つ置くと、また出ていった。入れ代わるように、久我が入室してきた。久我のぶん、長山のぶん、服部幸弘のぶん、もう一つは彼女のぶんだろうか。

「失礼します!」

 扉が、大げさに音をたてた。

 竹宮翔子だった。中西の気配りは的中したようだ。長山、翔子、二人と向かい合うように服部幸弘、久我は両サイドを統べるように上座へ腰を下ろした。

「単刀直入にお聞きします。あなたは、本当に服部幸弘さんですか?」

「……」

「身分を証明できるようなものは?」

 長山の読みでは、彼は服部幸弘ではない。だが、服部幸弘のことは知っているはずだ。

「証明できるものは、ありません……」

 力なく、彼は言った。

「でも、ぼくが犯人です」

 その自供は、信じるに値するものなのか?

「ぼくは、当時未成年でした……少年法は適用されますよね?」

「されます」

「それでも、お金はもらえるんですか?」

「あなたが逮捕されれば」

「逮捕? でも罪にはならないんですよね?」

「そんなことはありません。未成年でも、ちゃんと法律で裁かれますよ」

 それを聞くと、彼の眼が見開かれた。

「ぼくは、十五歳だったんですよ!?」

 どうやら少年法を勘違いしているようだ。

「たしかにかつては、十五歳ならば刑事責任はありませんでした。ですが、2000年に少年法は改正されて、十四歳以上であれば刑事責任を問えるようになりました。練馬の事件が発生したのは、2005年です」

「そんな……」

 もしかしたら旧少年法を計算していたのかもしれないが、勉強不足だ。

「ただし現在の少年法でも、十五歳ならば死刑判決は出ません」

 一応、そのことは伝えておいた。

「そう……ですか……」

「あなたは、服部幸弘ではありませんね?」

「……」

「もし、いまが1999年だったとしても、犯人だと名乗り出た人間のことを警察は調べますよ。本人証明をうやむやにするわけがない」

 彼には、子供染みたところがあるようだ。社会の仕組みを知らない。もしかしたら、ひきこもりのような生活を送っているのかもしれない。

「あなたの本当の名前は?」

 強く、長山は問いただした。こういう人間は、押しに弱い。

「名前は!?」

「園田……」

「園田?」

「……園田、和人」

「服部幸弘というのは?」

「……」

「園田さん!?」

「……後輩……」

 ボソッと口にした。

 すると、彼は服部幸弘よりは年上ということだ。

「あなたは当時、十六歳以上だったんですね?」

 彼は──園田和人は、観念したようにうなずいた。

「犯人はどちらなんですか? あなたですか? 本当の服部幸弘さんなんですか?」

 年齢を偽ることで刑事罰から逃れようなどと、浅知恵もいいところだ。本気で通用するとでも思っていたのだろうか。

 園田和人は、押し黙ってしまった。

「園田さん?」

「……」

 それとも、犯人は服部幸弘のほうだろうか? 彼は犯人を知っていて、その犯人になりすまそうとした。

 では、なぜそんなことをするのか?

 犯人にしか金額が支払われないと勘違いしているのだろうか……彼の未熟性を考慮すれば、充分にあり得ることだ。

「犯人は、服部幸弘さんなんですか? あなたは、そのことを知ってるんですか?」

 コクッと、首が上下に動いた。長山は、ため息をついた。

「あのね、べつに犯人じゃなくてもいいんですよ」

 言い聞かせるように、翔子が割って入った。たまらずに声をあげてしまったようだ。翔子のほうがずっと年下のはずだが、まるで弟を諭しているかのようだった。

「犯人を知っているのなら、懸賞金は支払われます。それとも、あなたも共犯者なんですか?」

 翔子の指摘も当然だ。共犯者だから、少年法の──しかも刑事責任のない年齢だった(と思い込んでいた)服部幸弘になりかわろうとした。

 園田は、今度は首を横に振った。

「服部幸弘さんが、犯人なんですか? あなたは、その事実を知っているんですか?」

 翔子にかわって、長山が続けた。

「……そうです」

「それを証明できますか?」

「……本人から聞きました」

「いま服部幸弘は、どこにいますか?」

「……」

 また、首を横に振る。しかし、わからない──という意味でないことが予想できた。

「どこですか?」

「いません……どこにも……」

 それは、なにを意味するのか?

「もうこの世にはいない、ということですか?」

 そう口にしたのは、久我だった。

「……はい」

 彼の返事が、虚しく響いた。

 服部幸弘は、もう死んでいる?

 だから、彼は服部幸弘になろうとした?

「犯人が死んでいるから? もう逮捕できないから、あなたは犯人になろうとしたんですか?」

 長山は、久我を見た。この場合のルールは想定されていなかったはずだ。

「そうですね、逮捕できなくても、犯人であると断定さえできれば、それでかまいませんよ」

 被疑者死亡のまま書類送検というやつだ。

「いま、代表の久我さんが言ったとおりですよ、園田さん。生きて逮捕できなくてもいいそうです。無理に犯人を演じなくてもいいんですよ」

 それを耳にしても、彼の顔色は冴えない。

「どうしましたか?」

 そこで長山は気づいた。この男は、少年法によって逮捕はされないと思い込んでいたのだ。だとすれば、その推測には矛盾がある。

「……証拠はないんです」

「どうしてあなたは、服部幸弘が犯人だと知ったのですか?」

「聞いたんです。本人から」

「いつですか?」

「事件が起こってから、二ヵ月後ぐらいかな……」

「その話を聞いたのは、あなただけですか? ほかに聞いていた人は?」

 彼の首は、三たび横に振られた。

 長山は少し考え込んだ。本人の自白はあるようだが、それを聞いたのが彼だけであり、しかも当人はもういないから、追求のしようがない。

「服部幸弘さんは、どうして亡くなったんですか?」

「自殺です」

「どれくらいまえに?」

「事件の一年後ぐらい……」

 では警察は、これまでの長い期間、すでにいない犯人を追いかけていたのだ。

「あなたは、亡くなっているのを眼にしましたか?」

 長山は、訊かずにはいられなかった。

 服部幸弘の死亡届は出ていない。また、当時いっしょに暮らしていた母親の所在も不明となっている。親子は、ある日、忽然と消えた。アパートの大家から話を聞けたが、家賃も支払われず、連絡もとれなくなったので、強制退去というかたちをとった。家財道具などは、すべて大家が業者を使って処分したという。

「見てはいません……でも、死ぬって言ってました」

「話を聞いただけなんですか?」

「……はい」

 自信なさげに、彼は答えた。自殺したというのも確証に欠ける。

 つまりは、こういうことなのだ。

 服部幸弘が犯人であることを知ってはいても、その証拠は本人の告白だけであり、物的証拠があるわけでもない。しかも本人はすでにこの世にはおらず、確認のしようがない……だから、服部幸弘になりかわって犯人になろうとした。

 当時、未成年──しかも十五歳であるならば、刑事罰を受けないと計算して。

 その浅はかな考えを指摘すると、園田和人は無念そうに認めた。

「あなたねぇ!」

 翔子が憤りを吐き出した。

 久我は、いつものように余裕の笑みを浮かべているだけだ。まるで、この状況を楽しんでいるように。

「あ、あの……お金は……」

 この期におよんで、気にするのは金のことだった。

 いまにも翔子が殴りかかりそうだったので、長山は彼女の肩に手を置いて、それを鎮めた。

「服部幸弘さんが犯人だと特定された段階で、お支払いしますよ」

 久我が言った。彼の奸計など、どうでもいいようだ。

「長山さん、お願いできますか?」

「わかりました」

 返事をしたものの、すでに死んでいる犯人の罪を暴くことは難しい。いや、それだけでなく、もう一つハッキリさせなければならないことがある。

 服部幸弘が、本当に自殺しているのかどうか……。

「どこで自殺するとか……そういうのは、なにも聞いてないんですか?」

「名所で……そんなこと言ってました」

「名所?」

「自殺の」

 納得した。自殺の名所、という意味だ。

「どこか知らないかって、聞かれました……」

「どういうふうに答えたんですか?」

「嘘だと思ってたから、知らない、って適当に答えたと思います。よく覚えていません」

 雲をつかむような話だ……長山の脳裏に、そんなセリフが浮かんだ。

 練馬一家殺害事件──。

 ここからが、正念場だ。



 園田和人には帰宅してもらった。犯人でないのなら、警察に身柄をあずける必要もない。

 犯人を知っていながら、これまで黙っていたのは犯人隠秘にあたるが、そのときは冗談だと思った──と、いくらでも釈明できる。懸賞金の受け取りが完了したとしても、捜査一課が園田を逮捕することはないだろう。

 久我と翔子とも別れた。これから長山は、しばらく服部幸弘の調査で、ここには立ち寄る暇はないかもしれない。

 そういえば去り際、翔子に声をかけられたのだった。

「長山さんは、足立区の警察署だったんですよね?」

 そう問われた。

「鹿浜署です。それが?」

「足立区行方不明事件なんですけど、知ってますよね?」

「ええ。でも、よくはわかりません。行方不明になったのは署ができるずっとまえだし、事件かどうかも確定的じゃないみたいで……現在は西新井署から、うちの未解決係に引き継がれてるようです。ですが、とくに捜査もされていないし、家族からの捜索願いを受理しているというだけで」

 すでに古巣だが、「うち」と表現してしまった。

 どうやら翔子は、第四の事件に頭が向いているようだ。

「その事件を調べるのなら、井上という男を紹介します。たずねてみてください」

「ありがとうございます」

 しかし彼女は、まだなにかを言いたいようだった。

「……その行方不明になった男性なんですけど」

「?」

「詐欺の話って、知ってます?」

「詐欺?」

 おたがいが、ヘンなやりとりになってしまった。

「それは、どういうことですか?」

「いえ……知らないならいいです」

 翔子は、そう言うと背を向けてしまった。

「竹宮さん?」

 まるで、逃げるように彼女は行ってしまった。

 詐欺とは、どういうことだろう?

 行方不明男性が、詐欺の被害者だったということか……。

 それとも、その逆か──。

 いずれにしろ、そんな話は知らない。事件としてのあつかいでもないから、捜査資料というものは存在しない。が、捜索願いや家族からの聴取、近所への聞き込みの結果が書面として残っていた。そのどれにも、そんな単語は記されていなかった。

 彼女は、なにかをつかんだのだ。ジャーナリストとしての本能が、そのなにかに食らいつこうとしている。娘のような女性の、べつの顔を見たような気がした。

 そのとき、携帯が鳴った。知らない番号からだった。

「もしもし?」

『あ、わたしです』

 だれだかわからなかった。

『刑事さんですよね? このあいだの手紙のことなんですけど』

 それでわかった。服部幸弘が、かつて住んでいたアパートの住人だ。

『あれ、みつかりました』

 頼んでいたことも忘れていた。まったく期待していなかったのだが……。

『えーと、絵葉書でした。富士山の写真です。住所は、山梨県の鳴沢村というところからですね。差出人は、大野さんという方です』

「なにが書いてありますか?」

『文字は……ひと言だけですね。元気でやってますか──』

「そうですか。お手数おかけしました」

『役に立ったかしら?』

「はい。とても助かりました」

 社交辞令ではなかった。行き詰まったと思ったものが、急に突破口が開けたのだ。

 山梨の鳴沢村。富士の樹海があるところだ。自殺の名所をさがしていた服部幸弘が、そこに立ち寄った可能性は高い。

 死んでいるにしろ、生きているにしろ、そこに足を運ばなければならないようだ。

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