第8話

        9.金曜日午後3時


 犯人かもしれない男の家は、しばらく歩いた場所にあるボロアパートだった。いったい築何年になるか見当もつかないほどに古ぼけている。もし巨大地震でもおこれば、真っ先に倒壊しそうなたたずまいだった。

 駅をめざしていたようだから、電車に乗るのかと予想していたが、その考えは見事に裏切られた。尾行を警戒してのことだったのかもしれない。

 男の部屋は、狭いながらもガランとしていて、食べ終わったカップラーメンの容器がそのままになっていることを除けば、それほど散らかってはいなかった。というより、最低限の物しか所有していない。生活には困窮しているようだ。

 男を部屋につれてくると、畳の上に寝かせた。イメージとはちがい、万年床ではない。布団を敷こうとも思ったが、さすがに他人の家の押し入れを開けることはためらわれた。

「大丈夫ですか?」

 男は荒く息をしているだけで、返事をしなかった。ここまで来るあいだに、悪化してしまったようだ。

「やっぱり、救急車を呼びましょう!」

 携帯電話を取り出そうとする翔子の腕を、男がつかんだ。

 その眼が、やめろ、と脅していた。

「どうして、病院をイヤがるんですか!?」

「む、むだ……なんだ……」

 絶え絶えに、男は言った。それからすぐに瞼が落ちて、男はなにも言わなくなった。一瞬、最悪の事態を覚悟したが、眠りについただけのようだ。

 このまま出ていく気にもなれず、翔子はしばらく居つづけた。犯人かもしれない男の部屋にいることへの恐怖はなかった。もし過去にそういう罪を犯していたとしても、いまは、ただの老人だ。

 十五分ほどで、男は眼を覚ました。

「まだいたのか……」

 普通にしゃべれるまでには回復したようだ。

「ほってはおけません」

「……どうせ、野垂れ死にさ。もう助からん……」

「病気なんですか?」

「病名は忘れた。あと、二、三ヵ月しか生きられない……」

「治療はしてないんですか?」

「どうせ死ぬなら……必要ない。次に病院へ行ったら、出てこれないだろうしな……」

 人生の最期は病院ではなく、自宅で……そう考えることは不自然でない。だが男の生活ぶりからは、そうまでして日常を守る必要性は感じなかった。

 幸福には思えない。

 もちろんそれは、翔子の主観でしかないのだが……。

「ご家族は?」

 男は答えなかった。いるのだと直感した。

「そのご家族に……お金を残したいんですか?」

 翔子は切り込んだ。いまの彼には、自分に危害を加える力も、その気もないだろうという判断だった。

「やっぱり、刑事か……」

「ちがいます。刑事には見えないって言ったじゃないですか」

「だが、久我とかいうやつの仲間だろ?」

 仲間じゃないです──そう否定しようとしたが、この男には通じない。仲間でなくとも、知り合いというだけで同じことなのだ。

「安心してください。あなたが犯人だとしても、必ず懸賞金は支払われます」

「俺はな……クズだ。人間のクズだ」

 それまで溜めていたものを吐き出すように、男は言った。

「……あなたが、やったんですか?」

 勇気をもって、たずねた。

「やった」

 驚くほどあっさりと、男は認めた。

「金が欲しかったんだ……罪悪感なんてなかった。知り合った男といっしょに、やった。殺すつもりは……どうだったかな、最初からあったのかもしれん」

 普通は、「なかった」と答えるところも、男は正直に告白している。死期が近づき、隠す必要もなくなっているのだ。

 彼が逮捕され、死刑を宣告されたとしても、執行のまえに命は尽きている。いや、二、三ヵ月という余命が本当だとしたら、裁判がはじまるまえに亡くなっている。

 この男にとって、減刑は意味をなさない。捕まるか、捕まらないか──そのどちらかでしかないのだ。

「いまになって、後悔してる……ちがう、あのことから、ずっと後悔してるんだ。俺の人生は、最低だった……」

 許されない罪を犯した人間が、不幸な人生をたどる。遺族がそれを知れば、自業自得だと罵声を浴びせるかもしれない。が、翔子には、とても憐れに感じられた。

「都合がよすぎることはわかってる……だが、これまでなにもしてやれなかった娘に、残してやりたいんだ」

「全部話してください。わたしが、代表の久我さんに伝えます」

 堰をきったように、男は話しはじめた。翔子のことを信用したというより、話すことで安心を得ているようだった。

 男の名は、片桐茂男。年齢は見た目よりも若く、五九歳ということだった。別れた妻とのあいだに、娘が一人いる。別れた妻はすでに故人となっていて、娘は今年で三十歳になるという。結婚し、子供もさずかっていると。

 片桐は、これまでに窃盗と強盗で、二度刑務所に入っている。三鷹の事件で奪った金は、共犯の男と折半したそうだ。三百万の半分だから、百五十万ほどになる。その金も、すぐに使い果たしてしまった。二百万にも満たない金額のために三人の命を奪ったなんて……翔子は、心のなかで大きく嘆いた。被害者が気の毒で、犯人がとても愚かだ。

 その後も同様の犯罪を仲間と計画したようだが、実行にはいたらなかった。死刑が怖かったのだ。下手に犯行を繰り返して、証拠をつかまれるわけにはいかない。これまでおとなしくしていた甲斐あって、捜査の手はおよんでいない。

 いつしか仲間だった男とは会わなくなり、片桐自身も犯罪行為からは遠のいていった。このアパートは、知り合いになった大家から、ただで借りているものだ。仕事は、たまに日雇い労働をしている。住むところさえあれば、わずかな収入でもどうにかなる、と彼は語った。ただし、病気がわかってからは仕事をしていないという。だからこそ、娘に懸賞金を残すことと交換に、逮捕されることを望んでいるのかもしれない。

 おそらくいまの彼には、捕まることの恐怖も、死刑に対する畏怖もない。金さえ娘に残せれば……。

「お金が支払われるためには、事件の犯人だという確実な証拠がいると思います」

 ひと通り聞きおわってから、翔子は核心に入った。自分の役目を逸脱している──それはわかっていたが、胸中を抑えることができなかった。

「証拠って……どんな?」

「たとえば──」

 警察官でもない人間がすぐに思いつくようなことではなかった。指紋や毛髪は検出されていないはずだから、犯人しか知り得ない情報を教えてもらうしかない。

 脳裏に、あるワードが浮かんだ。

「凶器! 拳銃は、どうしたんですか!?」

「仲間がもってる。もともと、やつが用意したものだったんだ」

「撃ったのは、どっちなんですか?」

 一縷の望みをもって、そうたずねた。

「俺だ。三人を撃った」

 儚くも、断たれた。もし殺害したのが仲間のほうだったとしたら、彼の罪が軽くなったかもしれない。せめて、死刑は回避できたかもしれない……。

 ダメだ。翔子は自覚していた。この男に感情移入している。相手は、凶悪犯だ。いまはその片鱗がなくなっているとしても、強盗殺人犯なのだ。

「仲間は、いまどこにいるんですか?」

「わからない」

「かばってるんですか?」

「ちがう。本当に知らないんだ……」

 嘘を言っているようには思えなかった。

「その人の名前は?」

「樺島、といった。下のほうは知らん」

「樺島ですね?」

 翔子は、メモ帳に記入した。

「おい、俺は金さえ娘にいけば、捕まってもいいが……樺島はどうなるんだ?」

「心配ですか? わたしは警察官ではないので、ハッキリとは言えませんが……たぶん、その人は普通に逮捕されると思います。もちろん懸賞金がその人にいくことはありません」

 自分で口にしていて、あたりまえのことだと実感していた。懸賞金は、犯人だからもらえるのではない。有力な情報を提供してくれた人間にいくのだ。

「いや……心配などしてない。俺が言っても説得力がないかもしれんが、罪を犯せば、その報いをうけるべきなんだ」

 それはつまり、樺島という共犯者が逮捕され、死刑になったとしても、仕方がないと考えているということだ。

「だが……やつからは、恨まれるだろうな」


        * * *


 なんとか、竹宮翔子とは連絡がついた。

 驚くことだが、いままであの犯人かもしれない男といっしょにいたというのだ。

 いまから財団本部へ電車で帰るということだったので、長山はさきに車でもどった。久我に、これまでのことをかい摘んで報告した。翔子が犯人かもしれない男と接触したことも、久我の動揺にはつながらなかった。長山自身は、一般人である彼女を危険にさらしたことに責任を感じている。電話では詳しいことまで聞けなかったが、はたしてあの男は再び接触してくるだろうか?

 しばらくして、翔子がもどってきた。

 彼女から事の顛末を耳にして、長山は空いた口がふさがらなかった。驚きを通り越して、呆れていた。翔子は、男からの自白を引き出していたのだ。ベテランの刑事といえど、簡単にできることではない。さすがの久我も、驚きに表情が固まっていた。

 すぐ笑いに変わった。

「ははは、お見事」

 男の名前は、片桐茂男。五九歳。

 共犯者の名は、樺島。

「どうですか? 調査できますか?」

「樺島という共犯者が、凶器である拳銃をもっているんですね?」

「そう言ってました」

 樺島という男が特定できたとしても、拳銃を現在でも所持しているのかは疑問だ。が、片桐には前科があるそうだから、その線から樺島にはたどりつくだろう。

 片桐は逮捕できなくとも、共犯者の樺島には、このルールは適用されない。

 なんとしても、未解決事件の一つを解き明かすのだ。




        10.金曜日午後9時


 樺島という仲間の素性は、すぐに割れた。片桐茂男の二度目の服役で、同じ房にいた男だった。樺島哲也。現在、五七歳。所在は不明だが、もともと関東近郊を縄張りにした窃盗の常習犯だった。おそらくいまでも東京周辺に潜伏しているものと思われる。だが三鷹の事件が懸賞金の対象になったことで危険を感じ、遠くへ逃げていることも考えられた。

 以上の情報は、特命捜査対策室経由で捜査一課に伝わっている。情報提供者である片桐茂男の逮捕には動けないが、その共犯者である樺島の身柄確保に関しては、なんら問題はない。長山は、捜査一課からの吉報を待っていた。

 夕刻、竹宮翔子の報告をうけてから、財団への出向を早めに切り上げていた。警視庁本庁舎に到着してからすでに四時間ほどになるが、こんなに長く本庁に詰めるのは久しぶりのことだった。練馬一家殺害の犯人かもしれない情報提供者・服部幸弘から電話があるかもしれないが、いまは樺島のほうが気にかかる。それに、もし電話があれば、すぐに財団から連絡があるはずだ。

 特命捜査対策室のオフィスに、室長がもどってきた。

「いま聞いた。捜一が引っ張ったそうだ」

「樺島を、ですか?」

「そうだ」

「逮捕ですか? 参考人ですか?」

「パクったということだろう」

「罪状は?」

「そこまではわからないが、窃盗の常習犯だから、もしかしたら三課がマークしてたのかもしれん」

 長山は、ちがうとふんだ。樺島も片桐茂男と同じで、三鷹の事件以降に逮捕されていない。つまり、樺島もおとなしくしていたのだ。

 あまり褒められた手ではないが、公務執行妨害などで別件逮捕したのだろう。もしくは窃盗は窃盗でも、万引きの容疑かもしれない。いかに我慢していたとしても、手グセのある人間ならば、やっている可能性のほうが高い。いずれにしろ、別件だ。だが、それでもいいと思った。あの凶悪事件が解決するのなら、多少のルール違反も許されていいはずだ。

「本格的な取り調べは、明日からになるだろう」

「身柄は、どこかの所轄ですか? ここですか?」

「ここだ。もうじき、つくだろう。どうする?」

「一目、確認しておきたいですね」



 それから一時間ほどで、樺島哲也が連行されてきた。留置施設に移されるまえに、長山は廊下で樺島の姿を視界に入れた。

 片桐茂男は、どこか脱け殻のような印象だったが、樺島はいまだ「現役」だった。

 眼が、邪悪のままだった。これまで犯罪行為を控えていたのは、やはり改心したのではなく、ただのだったようだ。とはいえ、二十年近く辛抱したのは評価できることなのかもしれない。もちろん、まったくの聖人君子の生活ではなかっただろう。発覚はしなくとも、軽犯罪はやっているにちがいない。それでも、凶悪事件を起こした人間がここまで息を潜めていたのは、なんとしても捕まりたくない、その一心だったはずだ。もっといえば、極刑を免れるため。

 明日からの取り調べでも、絶対に自供はしないだろう。はたして、それをどうやって引き出していくのか……。

 樺島がもっているという凶器。

 拳銃を、いまでも樺島が隠し持っていれば、それで事件は解決できる。処分されていれば、それは夢と消える。片桐の犯罪立証も難しくなり、懸賞金の支払いもなくなる。

 もし懸賞金のことがなければ、片桐の自供はそれだけで有効だ。だが十八億がかかっていることを考慮すると、途端に信憑性はなくなる。金のために嘘の供述をしている可能性を視野に入れなければならないのだ。懸賞金が犯人を呼び寄せたのは事実だが、同時にそのことが自供の信用度を曇らせる結果となってしまう。皮肉なものだ。

 立証するためには、なんとしても樺島を落とすか、凶器を発見するしかない。これ以上なにもできないことに、長山はもどかしさを感じていた。


        * * *


 土曜日──。片桐茂男と遭遇した翌日、翔子は朝からある場所に向かっていた。

 千葉県の松戸市。住宅街のはずれに、一軒の花屋があった。

 開店の準備をしている女性がそうだろう。年齢は、今年で三十歳になる。片桐茂男の娘である、持田香澄。

 昨日、片桐茂男から、娘の様子を見てきてほしいと頼まれていたのだ。自らの素性や犯行を翔子に告白したのも、そのことへの交換条件だったかもしれない。

 以前は隠れて様子を見に来ていたそうだが、病気がわかってからは来ていないという。ここに花屋を出したのは、六年前だそうだ。夫婦で営んでいる。

 娘の母親──片桐茂男の別れた妻は、すでに他界している。残った父親が、自分たちの花屋に興味を抱いていることなど、彼女たちは夢にも思っていないはずだ。片桐の話によると、子供のころを最後に、ちゃんと会ったことはないそうだ。

 駅前など立地条件の良い店であるならば、それなりの収入も見込めるだろうが、町の小さな花屋では、それも難しいのではないか。もちろん、翔子には花屋の経営状況などわからない。想像でしかないが、細々とやっている。きっと片桐茂男も、そう感じていたにちがいない。

 だから、金を残したいのだ。

 だが、はたして彼女たちは、その金を受け取るだろうか? 自分なら、どうするだろう……翔子は、ふとそんなことを考えた。

 金を受け取るということは、そのときには父親が犯人であるということが世間にも発覚しているということだ。懸賞金がだれに渡ったかわからないシステムになっていようとも、受け取ったのが肉親だとすれば、いずれは発覚することになるだろう。そうなったら、この近所では暮らしていけなくなるかもしれない。

 十八億。

 一生、遊んで暮らせるだけの金額だ。だれも知らない土地に渡って、第二の人生を歩んでいくという方法もある。

 もし、彼女たちが受け取りを拒否したとしたら、どうなるのだろう?

 財団側は、片桐茂男本人に懸賞金を払う。その片桐が死刑、もしくはそのまえに病死すれば、十八億の相続権が娘に発生する。が、懸賞金を受け取らないのなら、相続も放棄するはずだ。結局は金が宙に浮く。片桐茂男が遺言書を残してどこかへ譲渡しないかぎり、いずれは国庫へ行き着くことになる。

「……」

 翔子は、考えることをやめた。それは、当事者たちが考えればいいことだ……。

 いつのまにか、開店時間をむかえていたようだ。翔子は、花屋に近づいた。普段から植物との接点はまるでない。店頭に置いてある花々が、なんという品種なのか見当もつかなかった。大学時代、それで彼氏に愛想をつかされたことがある。

「いらっしゃい」

 控えめな声がかかった。

 近くで見ると、清楚で真面目そうな女性だった。店の奥では、旦那さんと思われる男性が作業をしている。

「贈り物ですか?」

「……そうです。わからないので、お薦めはありますか?」

「花束にしますか?」

「あ、いえ、鉢植えがいいです」

「じゃあ、これなんかはどうですか?」

 小さな鉢植えだった。黄色い花が咲いている。

「それでいいです」

「ありがとうございます」

 お金を支払い、商品を受け取った。

「あの……」

「はい?」

「あ、なんでもないです。すみません」

 なにかを言おうとしたが、なにも言えずに店を出た。

 お父さまが心配していました──そんな言葉を口にできるわけもない。でもせめて、父親に死期が迫っていることだけは、伝えてあげたかった。

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