第5話

        5.水曜日午後1時


 昨日の会見のあと、すぐにでも話を聞きたかったのだが、ようやくいまになって独占取材ができることになった。他社とくらべれば、それでも非常に恵まれている。

 午後の日差しが、最上階の広大な部屋を埋めていた。翔子は、内なる興奮を抑えられなかった。時の人と、こうして同じ空間を共有している──それだけでも感動ものだ。

「すごい反響ですね」

「そのようですね」

 久我は、穏やかな口調で応じてくれた。

「いつごろから、このようなことを考えていらしたんですか?」

「懸賞金のことですか?」

「そうです」

 一拍間をおくと、久我は流れるように続けた。

「大金を手にしたときから、どういうふうに使おうか、考えるようになったんですよ。最初の宝くじのときからです」

 五億……しかし五億だけでは、さすがに今回のようなことまでは無理だったはずだ。

「もちろん、そのときはこんな使い道じゃありませんよ」

 翔子の疑問は、すぐに解消された。

「では最初は、どういうことを考えていたんですか?」

「そうですね、もっと私利私欲にまみれていたかな」

 そこで彼は、笑みを浮かべた。魅力的だと素直に感じた。

「でもね……金が増えていく過程で、つまらない欲望が消えていくんですよ。不思議ですね」

「……」

 あえて言葉を挟むことはせず、次の声を待った。

「車が欲しい、家が欲しい、そんなことに興味が無くなっていく。買った物も、いっぱいありますよ。一応、金持ちなんですから」

 その言い回しには、少し照れが混じっていたような。

「でも、そんなものがゴールではなくなっていくんですよ。ただ金を使っているだけでいいのか……なにかのために使わなければならないのではないか……」

 物欲の行き着く先──。

 翔子には一生、達観することのない境地だ。久我にとって、その答えが、懸賞金。

「ほかのことは、考えなかったのでしょうか?」

「考えましたよ」

「たとえば?」

「ボランティア団体を設立するとか。孤児院の運営とかも考えたことがあります」

「そのなかから、どうして懸賞金だったんですか? こう言ってはなんですが、そのほうが……ストレートというか……」

 なんと言い表せば的確なのか、瞬時には出てこなかった。失礼があってもいけないし、ジャーナリストとして突っ込んだ話も聞きたいし……。

 久我は気にした様子もなく、話を続けてくれた。

「でしょうね。でも、寄付したり、自分でボランティア団体をつくったとしたら、まわりはこう思うでしょう? 成り金が世間体のためにそんな使い道を選んだんだな、と。それだったら、いっそ私利私欲にはしったほうが好感はもたれるでしょうね」

 翔子には、その意味が理解できた。金持ちが困った人に差し伸べる手は、どうしても上から目線を感じてしまう。

 心の底から案じてのことだとしても、そこにはつねに「哀れみ」が存在している。どんなに金持ちがそれを否定しても、絶対にそれがあると、多くの人は考えているのではないだろうか。

「で、この使い方が、一番いい落としどころかな……と」

 とても正直に答えてくれた、という感想のほかに、どうしても裏を読んでしまう自分もいた。たとえ、そういう心境があったのだとしても、やはり金の使い道など、ほかにいくらでもあるのではないか──翔子は思った。

「納得していないようですね?」

 見透かされた。

「い、いえ……」

「凶悪犯が捕まりもせずに自由を得ているというのは、我慢ならないでしょう?」

 それはそうだ。そうなのだが……。

「なのに、多額の金を渡すようなことをして──そうお考えなのですね?」

「は、はあ……」

 なんと応答すればいいのか、判断に困った。

「その矛盾については、以前にも言ったことにつきますね」

「え?」

「金は、悪辣な者に流れる」

 翔子は戸惑った。彼の倫理観がわからなくなっている。正義のために懸賞金をかけているのだと最初は単純に考えた。だが、ちがう。いや、もしそうだとしても、その正義感は歪んでいる。もしくは、金を手にするということが、むしろ罰になるとでも……。

 そんなはずはない。翔子は、すぐにその考えを打ち消した。大金持ちになることが、罰になることなどあるはずがない。

 それとも、それは自分が庶民だからだろうか?

 金持ちの心理など、理解できるはずもないのだから。


        * * *


 服部幸弘、という名前は捜査対象者にはいなかった。

 しかし長山は、ある場所にあたりをつけていた。中学校だ。練馬区の事件現場近くにある中学校──。

 事件の概要は、こうだ。

 2005年の一月。正月休みの最中に、惨劇は起こった。夜から未明にかけて矢島宅に何者かが侵入し、家主・正(四七歳)、妻・静子(四四歳)、長男・秀一(十七歳)、長女・早紀(十五歳)、次男・智之(十歳)を殺害。次男の智之以外は、刃物で刺殺。次男だけは、絞殺だった。

 矢島正は会社役員で、一般家庭よりは裕福だった。元音楽教師の静子は、自宅でピアノ教室をひらき、長男の秀一も有名私立高校へ進学していた。だれもがうらやむ家庭が、一晩のうちに崩壊した。金品が奪われていたので強盗目的での犯行と思われるが、それにしては小学生の男児まで殺害している残忍性から、猟奇犯、もしくは怨恨の線も考えられた。現場からは犯人のものとみられる指紋も検出されていたので、事件は早期解決するものと見込まれていたが、現在に至っても容疑者はあがっていない。

 外国人の犯行で、すでに国外へ逃亡しているのではないか。はたまた、未成年者の犯行のために、捜査が行き詰まっているのではないか──。

 いろいろな憶測が噂されていた。

 未解決事件と耳にして、まず日本人が思い出すのは、この事件になるだろう。

 どの事件でもそうなのかもしれないが……とくにこの事件の解決は、日本人の総意ということになる。なにがなんでも犯人を捕まえたい。刑事でなくとも、日本人ならそう思っているはずだ。当の犯人でないかぎり──。

「いますね。この年の卒業生です」

 そう言って、ベテランの男性教師は名簿を見せてくれた。年齢は六十歳に近いであろう。定年まで、それほど時間は残されていないはずだ。

 2004年度の卒業生名簿に、服部幸弘という名前があった。年度なので、卒業は2005年の三月ということになる。事件当時は、十五歳。

(……)

 年齢は合致している。被害者の一人である長女・早紀と同年齢ということにもなるが、早紀の通っていた学校はべつの私立校なので、二人に接点があったわけではなさそうだ。

「これが、卒業アルバムです」

 教師は棚をガサゴソと物色すると、その一冊を持ってきてくれた。

「お手数かけます」

 服部幸弘の姿をさがしていく。

 あった。容姿に特徴はなく、この時代の、どこにでもいた少年、といったふうだった。

「この生徒について、知っている先生はいますか?」

 教師は、首を横に振った。

「いいえ、残念ながらいません。私もまだここには来てませんし、この時期いた先生はだれもいません」

 公立の中学では、そうなるだろう。一つの学校にずっと勤務していることはできないシステムになっているはずだ。

「あの……」

 ためらいがちに、教師が声をかけてきた。

「どういった事件なんですか?」

「あ、いえ。事件というほどのものではないんですよ」

 長山は、言葉を濁した。正式な捜査ではない。そうだったとしても、世紀の大事件の犯人かもしれないとは、口が裂けても言えなかった。教師のほうも、それを察してくれたようだ。しつこく問いかけてくるようなことはなかった。アルバムを貸してほしいという願いも、こころよく了承してくれた。最近は個人情報保護の観点から、警察だからといって簡単には提出してくれない。

 大変参考になりました──と、教師には礼を述べて、長山は中学校をあとにした。



 名簿に書かれていた住所──中学校からすぐ近くの場所に、服部幸弘の住む、もしくは住んでいたアパートがあった。古びているから、当時から改築などはしていないようだ。二階の奥の部屋がそうだ。階段のわきに集合住宅用の郵便受けがあった。部屋番号は表示してあるが、どのボックスにも名前はなかった。ちゃんと名札をはめられるようになっているのだが、だれも入れていない。二階に上がって、奥の部屋へ。

 表札を見た。べつの名字だった。二十年近く経っているのだから、そのほうが自然なのかもしれない。

 念のため、ノックしてみた。四十代と思われる女性が顔を出した。

「はい?」

「あ、以前ここに住んでいた服部さんという方をご存じですか?」

 さあ?──と女性は首をかしげた。話を聞くだけ無駄だと判断した。すみませんでした、と謝罪して財団本部へもどることにした。

 歩きかけたところで、一度は閉まったはずのドアが再び開いていた。

「あー、服部って言いました?」

 女性は、なにかを思い出したようだった。

「そうです」

「半年ぐらい前に、手紙が来てましたよ。服部宛でした」

「え? 差出人は?」

「いえ、そこまでは……」

「その手紙は、どうされましたか?」

 さきほどと同じように、首をかしげていた。本来なら、まちがっていると郵便局へ届け出るべきだが、さすがにそれを咎めることはできない。配達員にしても住所はあっているのだから、そのことを責めるわけにもいかない。

「まだ部屋にあるかもしれないですけど……」

 チラッと女性は、眼を室内に向けた。

「もし出てきたらでかまいませんので」

 一縷の望みを託して、お願いしてみた。

「は、はあ……」

 長山は、女性に名刺を渡した。

「みつかったら、ここに連絡を」

「え? 刑事さんですか!?」

 まだ女性には、手帳を見せていなかった。

「お願いします」

「わ、わかりました」

 女性の反応からは、さがしてくれる確率は五分五分だ。

 なにもしてくれなかったとしても、正式な捜査でない以上、催促などはできない。

 待つしかなかった。

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