Chapter 11
迷路のなかでⅠ
甘い花粉の香りが鼻につく。けれど、色鮮やかに大輪を咲かせた春の花々は目を引くだけあって、地味な僕の姿を隠すにはうってつけであった。
ちょうどよい道端に、花屋の露店が出ていたものだ。店番をしているのがまた耳の遠そうな老婆であったことも、大変都合がよろしかった。
露店の物影に隠れて、僕はこっそり遠くをうかがう。馬車も行きかう広い通りの向こう側、服屋と書店のわずかな合間にある路地の入口を注視した。
路地の入口で、二人の人物が立ち話をしている。
そのうちの一人は、新聞記者のアラン・クレスだ。
ニールと別れたのち、僕はこのアランという男を尾行してきた。だいぶ、長い距離を歩かされた。現在の位置はウォルタの西側、商店が多く建ち並ぶ賑やかな地区までやってきてしまった。
尾行されているとも知らずに、アランはその相手と会話を続けている。さすがに距離が離れているのと、周囲の雑音のせいで会話の内容までは聞き取れなかった。
けれど、アランが軽食屋で言っていた
(……ん? 会話はこれで終わりなのか)
長く移動したわりに、場に
アランは相手に片手を振ったのち、そのまま通りを沿って雑踏のなかにまぎれていった。そっちのほうはいい、もう関係ないのだから。一方で、場に残っていた相手はひっそり身をひるがえして、路地の奥へと消えていった。
すかさず、僕は露店の陰から飛び出した。手前の馬車に
「うわ、かなり狭いなぁ……」
思わず小声でぼやく。入った路地は本当に建物と建物の合間という表現が相応しく、人の通る道ではなかった。体の横幅は通ることは通るがギリギリで、多少身をすくめないとシャツの肩口が汚れてしまいそうだ。
おまけに路地は、そのまま住宅の密集地帯に通じているようで、先は複雑に入り組んでいた。正面から見据えただけでも、遠くにいくつか折れ角が目に入る。幸い、一番手前の角を曲がる人影を捉えることができたが……うかうかしていると、すぐに見失ってしまうことだろう。
とかく、僕は慌てて追いかけた。
そいつに話があった。人目がつかない路地裏というのは逆にチャンスでもあった。どうにかして捕まえて、話をつけて、自分が置かれているどうにもならない状況に進展を与えなければ。
一番目の角を右に曲がり、書店の裏道を通り抜ける。またすぐに道が左に折れ、空き瓶のゴミを避けて今度は右に折れた。ジグザクに進んだのちに小さな広場に出て、四つ分かれたうちの北東向きの道を選んで、それで――。
頭のなかで描いた地図は、すぐにぐちゃぐちゃになる。自分がいま、街のどの辺りにいるのか、方向感覚は次第に狂っていった。
「ハァハァ……これじゃ、まるで迷路だよ」
出口の見えない石造りの迷宮。
皮肉なことに、それはいま自身が置かれている状況と見事に重なった。いったいどうして、こんなことになってしまったんだろうか……自問自答が頭に湧いて、数秒間、集中が途切れた。
(ああ、まずい……)
余計なことを考えたせいで、すっかり人影を見失ってしまった。わずかな形跡を拾おうと耳を澄ますも、レンガに反響するのは自分の息づかいの音だけ。気持ちが焦れば焦るほどに、心臓音も邪魔をするのであった。
僕は足を止めた。途方に暮れて、目の前の景色にただ、まばたきをくり返す。路地の道は複数に分かれている。昼寝を邪魔された猫が不服そうな鳴き声を上げていたが、構ってやる余裕はなかった。
(いや、あきらめたら駄目だろう)
眼鏡を取って、顔の汗を乱暴にシャツの袖で拭った。
とにかく手当たり次第探すしかない。そう自分に活を入れ直して、僕は再び路地のなかをさまよ――。
「バアっ!」
「うああッ!」
心臓が破けるかと思った。
突然の大声とともに、見えない角の陰から人影が飛び出してきた。完全に不意をつかれた僕の体がバネのように跳ね上がり、頭はしばし放心状態が続いた。
しばらくして、ククッとこらえるような笑い声が聞こえた。
悪ぶれない、無邪気な笑い声が。
「ふっ、くく……びっくりしました? ハロウさん」
「ロイ……くん……」
ひとまわり小さな子どもが、そこにいた。
僕はその焦げ茶色の髪を見下ろす。おなじ色をしたあどけない瞳を持った少年――ヘリオス探偵事務所の見習い探偵の一人、ロイ・ブラウニーが角から半身を出していた。
* * *
「そんなに怒らないでくださいよ。驚かせたことは謝りますから」
そのわりには、じつにあっけらかんとした口調である。
くどくど説教をする自分の姿が頭によぎった。が、なんとか想像のうちだけに留めておく。代わりにため息一つ吐いて、僕は黙ってこの少年の背中についていった。
複雑に入り組んだ路地のなかを、ロイ、僕の順に一列になって進む。僕はすっかり道順を覚えるのをあきらめてしまったが、対してロイのほうはいっさい悩むそぶりも見せず、ひょいひょいと曲がる道を選んでいった。
普段から近道としてよく使っているのだと、彼は言う。いったいどこにたどり着くのやら……わからないままに、僕は少年に後に続くしかほかなかった。
「だいぶ憂鬱そうですね、ハロウさん」
「…………」
先程のため息に反応したか、前を進むロイが再び口を開いた。無言でいると、「それも仕方ないか。なんてったって、ハロウさんはいま、凶悪な殺人犯として街中を逃げまわっている身ですものね」と、彼は
「みんな、あなたが殺したんだって決めつけてますよ」
「…………」
「ギルさんのことも、メイラさんのことも」
その二人の名前が挙がって、僕はおもむろに空を仰いだ。路地のなかから見上げる空は狭く、息苦しさを助長している。一本の筋のような青色に、僕はまばたきをした。
「事務所の人たちも、守衛さんたちも、新聞記者の人だって……いやぁ、あっちもこっちも敵だらけで同情しちゃいますよ、ボクは」
「……いや、もうこの際、僕のことなんてどうだっていいんだよ」
路地を進む歩みは止めない。けれど、ふと気配で、ロイが頭を少しばかり振り向かせたことに気づいた。僕が空から顔を下ろせば、横目を向けてくる少年の瞳の色が目に入る。
けげんに、奇妙なものを見るようなその眼差しに、今度は逆に僕がに苦笑ってやった――それこそ、おどけるように。
その後、ゆるくかぶりを振って、僕は再び真面目な顔つきに戻した。
「人が二人も亡くなっているんだ。ギルとメイラの不幸を思えば、僕に降りかかった災難なんて微々たるものだよ」
「意外と……ポジティブ思考なんですね」
「前向きとはちがうだろう。まぁ、後には引けないっていう意味での『前向き』であることは確かだけれど」
新聞記者のアラン・クレスを尾行した末に、僕はようやく探偵事務所の人間と再開することが叶った。
しかし、よりにもよってなんの縁か、出会えたのはこのロイ・ブラウニー少年だった。彼とは見習い探偵同士、よろしくやってきた仲ではあるが、できれば話の通じそうな大人のほうがよかった。
(それでもまぁ、当たりなほうかもしれない)
悪ふざけで驚かしてきた後、ロイはとんでもない事実を僕に打ち明けたのだから。
考えごとをしていると、次第に狭い道を抜けて、少しばかり
空間の半分が高低差で分かれていた。道を抜けた先で、僕の背丈ほどの段差の壁とぶつかる。その壁に沿って左手側には階段が伸びており、ロイは迷うことなくそちらの道を選んでリズミカルに上っていった。
「ねぇ、さっき言ってくれたことは本当かい?」
僕はいったん足を止めて、ロイに訊ねた。
彼はちょうど階段を上りきったところで、段差の上から身を振り返らせる。そのまま段差の手すりに手をついて、ゆったりと僕の立ち位置まで移動した。石で出来たその手すりに上半身を乗っけて、段下の僕を見下ろすような形で向かい合う。
「さっきって?」
「出会い頭に、君は僕にこう話してくれただろう? 『安心してください、ボクはハロウさんの味方です』って。それと、もう一つ――」
負けじと僕は視線を強めて、少年を見上げる。焦茶色の頭の向こうには広がる空と太陽の
「君が収容馬車の鍵を開けて、守衛たちの手からこの僕を逃がしてくれたって話も」
上半身のゆれに乗って、ロイは頭を縦に振るう。「うん、そうですよ」と軽い口ぶりで少年は肯定した。
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