一方、その頃Ⅲ

 建物と建物の隙間、入り組んだ小路をこそこそ縫って歩いていった。守衛の手引きもあって、ボクとシトラスは無事に野次馬たちからの目を逃れ、事務所の裏手にある勝手口までたどり着くことができた。


「二階には行かないようにしましょうね」


 カチャンと、勝手口の扉を閉めたシトラスがボクに言った。


 勝手口は台所に通じている。ほとんど使うことのない細長くて狭い空間だ。あるのは流しの水場と、お茶やパンなどがしまってある食料品の戸棚が並んでいる。

 その先は廊下へと繋がっていて、いま見える廊下の壁の向こうがちょうど談話室に当たった。


「事件現場の検証はもう済んでいると守衛のかたはおっしゃってたけれど、きっと片づいてないままでしょうから」


「へぇ。じゃあ二階の空き部屋には、まだギルさんの血の跡がたっぷり残っているんですね? おおっ、怖い怖い……」


「…………」


 身をすくめて、両肩をぎゅっと抱きしめるボク。そんなボクのおどけた冗談を、真面目なシトラスは白い目で見つめていた。なにも返さず、ボクの脇を通り過ぎて、彼女の足は廊下へと向かった。


「でも、いつかはちゃんときれいにしないと。じゃないと、事務所に相談をしにきたお客さんがびっくりしちゃいますよね」


 ここでもシトラスは黙ったままだったが、廊下に出しかけた足をふいに止めた。そんな彼女の動きを尻目に、ボクは食料品棚をあさりはじめる。

 重苦しいため息の音が聞こえる。視界の端っこで、シトラスがこちらへ身をひるがえし、ボクに向かってしゃべりはじめた。


「ロイくんも、表の様子を見たでしょう?」


「うん、見ましたとも。通りをゆく人たちも、みんな一様にこの建物を指さしていましたねぇ。ちょっとした観光地になれそうですよ、ここ」


「こんなことを言うのはなんだけれど……きっともう、探偵のお仕事は再開できそうにないわ」


 ボクは「ええっ、もったいないなぁ」と、声を張り上げた。驚くふりをする一方で、体は戸棚へ向いたまま、小麦の袋や漬物の瓶など次々品を取って眺めていく。


「せっかく依頼のお手紙もたくさん来るようになって、これからが大切な時なのに」


「無理よ。事件で信頼はガタ落ち、あげく名探偵のギルさんもいないんですもの。もっとも――」


 言いかけた言葉を、シトラスは止めた。

 ボクが気になって「もっとも?」と復唱して続きを促す。最初はくすりと申し訳なさそうに苦笑うだけであったが、しばらくしてシトラスは続きを口にした。


「ほかの人には、わたしがこんなことを言ったのは内緒にしておいてね。そう、もっとも――わたしはそもそも探偵のお仕事自体に、いい印象はいだいていなかったのよ」


 しんみりと、シトラスは言った。

 それはうすうす勘づいていたことだから、ボクはいまさら驚きはしなかった。


 彼女は秘書として申し分のない働きをしていた。根がとても真面目で、器用な性分ゆえにだろう。けれど時々、見習いのボクを含めた七人の探偵たちを見る目に、憂いの影がおびていた。

 もっとまともな職に就けばいいのに……と、それは若者たちの将来を不安視する哀れみの目であった。


「ふーん、そうなんですかぁ」


 憂鬱を嫌うボクは、適当に返事をしてにごしておいた。


「ごめんなさいね。わたしったら急に変なことを言い出して……」


「別に。ボクはぜんぜん気にしてませんよ」


諸々もろもろのことは、事件が終わってから考えま――」


「ああーッ!」


 話の途中で、ボクが突然大声を上げたものだから、シトラスは細い肩をびくりと跳ねさせた。戸棚から少し離れ、ボクは彼女のほうへと振り向いた。

 

「大変ですよ、シトラスさん! これを見てください! ジャムがもうこれっぽっちしか残ってませんッ!」


 赤いジャムがわずかに底に沈んでいるだけのほぼ空き瓶を片手に持って、ボクはそれをシトラスに見せつけた。

 驚いて身を引いていた彼女であったが、空き瓶とボクの大真面目な顔を交互に見つめたのち……ふぅと、大きな息をついた。それから上げていた肩を落とし、「そんなことで驚かせないでちょうだい……」とぼやいた。


「いいえ、ゆゆしきことです! これから、いつ終わるかもわからない籠城ろうじょう生活が待っているというのに……こんな微々たる食糧じゃ早々に力尽きて、ボクたちおしまいですよ!」


「それはちょっと大げさじゃないかしら。……でもおかしいわね。一昨日の夜に談話室に集まったみなさんへサンドイッチを作った時には、まだジャムは半分以上は残っていたはずなのに……」


「きっと、守衛さんの誰かがつまみ食いしちゃったんですよ。よし、こうなったらボクが外に出て食糧を調達してきます」


 強引な流れの末の提案であったためだろうか。シトラスは当然、ボクの外出に了承などしてくれなかった。


 でも、ボクはくじけない。

 ここぞとばかりに目をうるませて、上目づかいで彼女を見つめて訴えた。


「甘い物は頭の働きをうんとよくするって、聞くじゃないですか? そして要らぬ不安をやわらげてくれる素晴らしい効果もあります」


 ボクの体はすでに勝手口まで移動していた。ドアノブにふれたところで、シトラスが慌てて止めようとしてくる。

 ボクは首を振り向かせ「大丈夫ですよ」と、とびきり無邪気な顔で笑ってみせた。


「ボクのことなら心配しないでください。その辺の大人たちよりもずっとうまくやれるって自信がありますから」


「その自信が危ないの。お願いだから、わたしと一緒にここにいましょう。所長にもそうお願いされていたわよね?」


「たしかにボディガード役を頼まれましたけれど、事務所の外まわりには守衛さんもいるし、ボクのお役目は終了です。それよりも、いまは要り用な物をそろえなければ、です」


 なんでも買ってきますよ。

 と、片目をつむってボクは言った。


「ジャムはもちろん、シトラスさんの心が安らぐようなものを買ってきましょう。ビスケットがいいですか? それともケーキ? リンゴやイチジクのような果物もいいですよね」


「…………」


「すぐ帰ってきますよ。ちょっとした子どものおつかいです」


 さぁ、なんでも好きな物をおっしゃってください。

 と、ボクは彼女に優しく言った。


 シトラスはなお、お堅い表情のままであった。しかし、ボクとの攻防に疲れたのだろうか、視線を斜め上に向けて「そうねぇ、だったら……」とつぶやく。


 彼女はひと品、ボクに買ってきてほしいと頼んだ。


 それがまた奇妙な注文であった。だから、ボクは目を丸くして、頭のなかでその言葉を反芻はんすうする。まぶたをしばたたかせて……ぽつり、彼女が口にした品の名をくり返した。


「黄イチゴのジャム、ですか?」


「ええ、もしお店の棚に置いていたら……お願いできる?」


「…………」


「もう少し夏場に近づかないと、売ってないかもしれないわね。……でも、わたしの一番好きな味なの、とっても思い出深い大切な味――」


 ボクをよそに、彼女はつらつらしゃべり出す。


「懐かしいわ……まだ幼い頃、季節が巡るたびに友達と一緒に近くの林まで歩いてみにいったのよ。どっちが多く取れるかって、競争したりなんかしてね。

 わたしは洋服を汚したら叱られるから、いつもその子のほうが多く摘んでたわ。明るくて優しい子……いつもわたしに黄イチゴを分けてくれた……」


 昔話に夢見ているすきに、ボクは勝手口のドアをそっと開ける。わずかな隙間に身を滑らせて、静かに出ていこうとした。


「あったらでいいわ。黄イチゴのジャムをお願いね」


 そんな調子よくはいかず、ドアノブの音に反応した彼女がこちらを見て言った。でも、もう引き留める気はないようだ。ボクは「うん、わかりました」とだけ答えて――扉を閉めた。


(黄イチゴのジャム、ね)


 小路の隙間から覗いた狭い空を、ボクは見上げる。不意に吹いた通り風が、ボクの鼻先をなでて、ついでに焦茶色の前髪をさらっていった。

 ひやりとした鼻先を、スンとすすった。


「ボクは断然、普通のイチゴジャムがいいな」


 そう、真っ赤で甘いイチゴのジャム。

 それが一番いいに決まっているのだ。

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