情報集めは捜査の基本Ⅰ
自分の手のひらを、僕はじっと見つめた。
左手ではない、右手をだ。今朝、卵の殻を握りつぶして、手のひらに細かな切り傷をつけてしまったのだ。一応、薬は塗ってもらったが、まだヒリヒリと痛んでいる。
時と場所が変わって、僕はいま一軒の軽食屋のテラス席に座っている。そう、街なかにいるのだ。客入りの少ない目立たない店だからと、紹介してくれた当人はあっけらかんと言っていたが、店の前の通りはそこそこ幅が広く、いまも人が雑多に行きかいしていた。
追われる身としては、まったく気が落ち着かなかった。
「おう、待たせたな」
その人の流れに乗っかって、通りの向こうから僕の待ち人はやっと帰ってきた。言わずもがな、新聞記者のニール・ブリッジである。
ハンチング帽で伸びっぱなしの黒髪を押さえ込み、裾の長いコートを身につけ――まぁ幾分はこぎれいになったが、最初に出会った時とおなじ格好で、彼はのんきに手を振りながら僕のいるテーブル席へと近づいた。
丸いテーブルの上には、僕が注文したお茶入りの木のコップと、新聞が一部置いてある。お茶はこの場所で彼といったん別れた直後に給仕が運んできたため、もう白い湯気は立ちのぼっていなかった。
テーブルを挟んだ向かいの空き椅子に、ニールがどかりと腰を下ろす。振動で、コップのなかのお茶が跳ねた。慌ててコップを支え、僕が苦い視線を彼に向ければ「悪い悪い」と軽い口調が返ってきた。
「行ってきたぜ、探偵事務所のほうへ。それでな、ハロ――」
ついうっかりか、ニールが僕の名を口にしかけた。
僕は素早く「しっ」と立てた人さし指を自分の口元に当てて、彼を制する。サイズの合わない長袖のせいで、指先しか出なかったが。
ブリッジ家で朝食を取った後、僕らはすぐに家を出て行動に移った。
その前に僕はニールから助言を受けて、外に出るに当たってちょっとした変装をすることになった。彼の家から大柄のコートと、ぶかぶかの帽子を借りて、容姿を丸ごと覆い隠してみたのだ。
こんな大ざっぱな変装で本当に身を偽れるか、最初のうちは僕も不安であった。けれど、なにもないよりかは断然マシだ、まず安心感からちがう。
それにじっさい、人が行きかう通りで何度か守衛ともすれ違う機会があったが、いまのところ誰も僕がお探しのハロウ・オーリン本人だと気づく者は現れなかった。
「で、どうだった? 事務所の様子は」
僕は改めて、席に着いたニールに尋ねた。
僕らは最初、ヘリオス探偵事務所の現在の様子から探ることに決めたのだ。さすがに名探偵殺しの犯人だと疑われている僕が、現場周辺をうろつくのはまずい。だから、代わりにニールに見にいってもらったのである。
「所長はなかにいた? 僕が君に託した手紙は、うまいことあの人の手に渡せたかい?」
「いんや、そいつは無理だったよ」
首を左右に振り、ニールは自身の懐から一通の封筒を出して、それをテーブルに置いた。僕がデュバン所長に宛てた手紙である。
「やっぱり殺人事件の現場とあって、事務所まわりは守衛ががっちり見張っていやがる。俺みたいな記者を含め、けっこうな数の野次馬も集まってるぜ。おまえは当分、あそこへ近寄らないほうがいいかもな」
腕を組んでうなずくニールに、僕はげんなりした顔を見せた。 ひとまず、テーブルの上につっ返された手紙は、ベストの内ポケットにしまっておこう。手紙を手に取ったところで、ニールがまた話の続きを口にした。
「遠目から窓を見たかぎりじゃ、なかに誰がいるのかもわかりゃしねぇ。とにかく、俺が観察してた間は玄関から人の出入りはなかったぞ」
「そうか。もしかしたら所長は……いや、ほかのみんなも、どこか別の場所に集まっているのかもな」
「あと、頼まれていた二階の窓の件だけどよ。表の通りからじゃ、ちょっとな……よく見えなかった。事務所と隣接する建物の間にある狭い小路もよ、守衛に見張られて通り抜けられなくなってたから、例の窓が壊れてたかどうかなんて確かめようがなかったぜ」
ある程度は予想していたが、事務所の周辺を見まわっただけではめぼしい収穫は得られなかった。
僕はテーブルの上に両肘をついた。前のめりに体重をかけ、組み合わせた両手を口元に当てて長い息を吐く。
嫌な想像が頭をよぎる。僕のホームともいえる探偵事務所を無関係な人間たちが囲い込んで、無責任な罵声を投げているという情景だ。すぐにかぶりを振って妄想を打ち消すも、じっとりした暗い気分が跡に残った。
(新聞であれだけ大々的に事件のことを宣伝されたんだ。いつかの広場の件といい、どうもこのウォルタの街の住民は血の気が多くて嫌になる)
運河に携わる労働者や商人が多いゆえなのだろうか。固くなった喉元を、冷めたお茶をあおってなんとかごまかしていると、ニールもこんなことを言う。
「まわりの熱気にまじってよ、俺もそれとなーく守衛につっかかるよう聞いてみたんだぜ?」
「……ふぅん、なんて?」
「おら責任者を出せーとか、街の平和はどうなってやがるんだーとか」
「…………」
でも、向こうは終始だんまりだったな。
と淡々と答えたニールに、僕は「そうか」とだけ返しておいた。視線だけ横にそらしておいたが。
お茶のコップをテーブルに置き、ついでに脇に放っておいた新聞をおもむろに広げてみる。ニールの帰りを待つ間、近くを通った売り子から購入したものだ。
スパロウ新聞社による朝刊の表を飾ったのは、引き続き、名探偵ギル・フォックス殺人事件の記事だった。ただし、そこには僕が守衛の手から逃げ出したことは書かれていない。
「さすがに守衛所のほうから、ストップがかかったんだろうな」
首を伸ばし、逆さまの新聞をざっと見たニールがつぶやく。なにがおかしいのか、彼は皮肉げに鼻で笑っていた。
「ざまぁないぜ、あのヤロー……まっ、守衛側も殺人犯をおめおめ逃がしたと世間に知られりゃ、メンツに大きな傷がつくからなぁ」
「それ以上にウォルタの街の住民がパニックになる、だろ? この僕が言うのもおかしいけれどさ」
「おかげでどの守衛も口が固くなっちまったよ。こっちが札をちらつかせても、ぜんぜんなびかねぇでやんの。俺と裏情報をやり取りしてたやつだって、今日は姿を見かけねぇし……内部でかなりしぼられたのかもな」
ニールがおもむろに片手を上げて、店の給仕を呼んだ。
いきなりだったので、僕はそそくさ広げていた新聞を立てて引き寄せ、顔を隠した。見えない紙の向こうで、悠長に注文をしている彼のことを睨んでやった。
その後で、ぼくはもう一度新聞の内容に目を通した。
給仕がテーブルを離れてから、僕は新聞から顔を離した。また紙面に目をやりながら、ニールにあることを尋ねてみる。
「ねぇ、今朝殺された……メイラのことなんだけれど」
「メイラ・リトル。女探偵のことか?」
「彼女の件、守衛たちはどう考えているかわかるかい? 単なる強盗事件の一つとして数えているのかな?」
新聞にメイラのことが取り上げられてないのは、単に事件が今朝起きたばかりだからだ。まだ印刷も記事を組むにも至ってないのだと、少し前にニールが説明してくれた。
「表向きはそうだが、じっさいはちがうだろう」
ニールは首を振って、きっぱり言ってくれた。
「ギル・フォックスに続いて、その近くにいた人間が殺されたんだ。しかも、おなじ事務所の探偵仲間だという。どう転んだって、逃げたおまえの仕業だと紐づけるだろうさ──守衛も、もちろん新聞社もな」
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