朝にて

 二階の階段を下りる手前で、僕ことハロウ・オーリンは静かに階下の音に耳を澄ましていた。


 時刻は朝である。いまから少し前に、窓辺のカーテンから透けた日差しに当てられ、僕は目覚めた。


 見知らぬ部屋と、床に丸まって寝ている部屋の主の塊を見て、事の経緯を思い出した。そして、深くため息をついた。現実という世にも恐ろしい悪夢は、まだ続いているらしい。

 

 追われている身だということを忘れて、僕はつい不用心にカーテンを大きく開けてしまった。その時、僕は見たのだ。窓の外で、制服を着た一人の守衛がこの家に入っていくのを。


 そんなわけで突然の守衛の来訪に、僕は慌ててニールの部屋を飛び出し、階段の前で身を固くしているのであった。


(僕のことを探しにきたんだろうか……)


 階下でなにか、もそもそと話し声が聞こえる。

 守衛と話しているのは、この家に住むニールの母親だ。大きな声を立てるわけでもなく、会話は淡々と続いている。


 もう少し会話の内容を聞き分けようと、僕が一段下りかけようとした、その時だ。突然、ぐいっと後ろから肩を引っぱられた。


「うわっ」

「バカッ、静かにしろ」


 振り向けば、そこには新聞記者のニール・ブリッジがいた。黒髪をボサボサと跳ねさせ、寝起きの半目で彼は僕を睨みつける。

 ニールは小声で「おまえはここにいろ」と言った。こくこくとうなずく僕のかたわらをすり抜け、彼は階段を下りていった。


 しばらく経ってから、玄関の扉が閉まる音が聞こえた。

 僕はニールの部屋に戻り、こっそり窓を覗いてみた。窓から見える住宅地の狭い道には、去りゆく守衛の後ろ姿があった。


 同時に、なぜか大急ぎで走っているニールの姿も見えた。


(なにかあったのかな?)


 不思議に思いながら、僕は一階へ下りた。居間に着くと、そこにはニールの母親が忙しそうに朝の家事をはじめていた。


「おはようございます」

「……ああ、おはようさん」


 ちらっと僕のほうをいちべつしたのち、シャル・ブリッジは憂鬱ゆううつそうな息を吐いた。僕が口を開く前に「ニールなら、さっき飛び出していっちまったよ」と、彼女は言った。


「さっき守衛さんがうちに来てね。近くで事件が起こったから、なにか妙なものを見聞きしてないかって尋ねにきたんだよ」


「はぁ、事件ですか」


「なんでも他所の家に、強盗が入ったらしいわ。おおっ、恐ろしいこと! 昔はそんなこと起こらなかったのに、この平和な運河の街もだいぶ物騒になっちまったわねぇ……」


 それでニールは守衛から事件の話を聞くやいなや、飛び出していってしまったらしい。

 記者のさがというやつだろう。僕が適当に「彼らしいですね」と返すと、ニールの母親はフンとふてくされるように鼻を鳴らした。


「仕事仕事って騒いでいるけれど、いったいなにをしているのやら。新聞社なんて、ご近所でもいい噂を聞きゃあしないよ」


 せめて朝のお祈りだけは、しっかりしていってほしかったんだけれどね。と、台所に立つ彼女は野菜の下処理をする手を止めて、向こうにある家庭用祭壇へ顔を向けた。


 ここで僕は一つ、ニールへのささやかな恩返しを思いついた。


「それなら、僕が彼の代わりに祈りましょう」


 かくまってくれたことと、ベッドを貸してくれた礼だ。

 シャル・ブリッジは「あんたが?」と、いぶかしげに眉を吊り上げる。僕は気にせず、そそくさと祭壇の前まで移動した。

 一言だけ「蝋燭の火は、朝だから省略しますね」とつけ加えて。


(サルビアの赤い花は、いつも夢に出てくる……)


 祭壇の壁に掛けられた『罪を浄化する神の目』の飾りを見つめる。僕の精神にぺったりと張りついている、遠い過去の記憶――いま一度この身に宿して、祈りの口上を唇でたどった。


 一切の詰まりなしに、すらすらと祈りの言葉が口から出てきた。これには僕自身も驚き、そしてあきれた。孤児院から旅立ってからは、まったく祈りなどしなかったくせに……幼少期から身についた習慣というものは、末恐ろしいものである。


 頭のなかには、懐かしい顔が浮かんでいた。その像を振り払うことはけして叶わず、僕は最後の言葉を唱えた。


「神の目の、前に――が罪を浄化したまえ……」


 目を閉じて、ゆるく握った片手を額に当てる。あえてここは、左手を選んでおいた。


「まぁまぁ……いまどきの若い人にしては、きちんとされているのねぇ」


 ニールの母親の感嘆に引きずられて、僕は目を開けた。くるっと彼女のほうへ振り向いて、僕は気恥ずかしげに笑ってみせた。


「うちのニールも見習ってほしいわ。さぞ親御さんの教育がしっかりしていたんだねぇ」


「あ、いえ。僕、孤児院出身なんです」


「あら、それは悪いことを言っちまったね……」


「気にしないでください。教会が管理している孤児院で、お付きの司祭さまが――」


 いったん、僕の声がかすれて途切れる。咳払いをして、もう一度言い直した。


「――司祭さまが、ですね。孤児院の子どもたちみんなに、祈りの作法を教えてくださったんですよ」


 それだけ言うと、僕は祭壇から離れた。強引にごまかすように、ニールの母親の元へ近寄って「僕も、朝食の準備を手伝いますよ」と、明るい調子で言った。


 気を許したニールの母親は、僕にいくつか仕事を用意してくれた。せかせか頼まれた家事に従事して、ブリッジ家の朝の時間は穏やかに過ぎていった。


 遠い過去の香りは、次第に薄まっていった。


 裏手にある鶏小屋から卵を回収し、それを居間のテーブルで割っていた最中だった。玄関の扉が開き、息子のニール・ブリッジが帰ってきた。


「やぁ、お帰り」

「…………」


 ニールの顔はひどかった。

 寝起きのまま飛び出していったことも、もちろん理由に入る。しかしそれ以上に、黒髪はより乱れ、呼吸も荒く、顔色から血の気が失せて白っぽくなっていた。


 挙動もおかしい。へ帰ってきたというのに、玄関に突っ立ったままだ。彼はじっと僕の顔を見たのち、視線を落として床を見つめる。なにかしゃべろうとするも言葉が見つからない、そんな様子であった。


「どうしたんだい? そんなに血相を変えて、いったいなにが――」


「おふくろは、いまどこにいる?」


「二階だよ。君の部屋の布団を干すからって、片づけにいったところ」


 ニールは小さく「そうか……」とつぶやいた。

 僕は手に持っていた卵を、陶器のボウルの縁に当てる。きれいな丸い黄身を落としてから、改めてニールに尋ねた。


「なにがあったのさ? あっ、そうだ。さっきこの家に来た守衛だけど……なんでも、近くで強盗事件があったんだって? なにか目撃情報がないか聞き取りにまわっているって、君のお母さんが教えてくれて――」


 籠からもう一つ、卵を手に取ったところだった。


「メイラ・リトル」


 ニールの口から、聞き慣れた名がつむがれる。卵を握った僕の手が、ボウルの縁にぶつける寸前で止まった。


 僕はニールの顔を見た。

 ニールはまだ下を向いていたが、やがて意を決したように僕と視線をぶつける。


 そして、はっきりした口調で言った。


「襲われて殺されたのは、メイラ・リトルだ。おまえんとこの事務所の……探偵の一人だよ」


 ぐしゃり。

 握った卵が手のなかで潰れた。

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