Chapter 9【三日目】
メイラ・リトルⅠ
はじめて人の死にふれたのは、八歳の頃だった。
よりにもよって、じつの両親の死であった。貧しさのなかで体を弱らせて、流行りの病であっけなく
遠い記憶のなかで、強く印象に残っている光景がある。それは、死んだ両親が仲良く一つの
棺桶は、大穴のなかに下ろされた。その上から、大人たちが黙々とシャベルで土をかけていく。連日天気が悪かったせいか、終始、湿った土の臭いが辺りに漂っていた。
一連の作業を、黙って見ている小さなアタシがいる。
見ていることしかできなかった。ほかにできることといえば、年下の妹の手をぎゅっと握りしめることくらいだ。
親が二人も死んだというのに、妹はのんきだった。のんきに体をゆすって、お祈りの鼻歌を歌っていた姿はよく覚えている。
そしてそんな妹を見て、小さなアタシが決意を固めたこともはっきり覚えている。
この子だけは、アタシが守っていかなくちゃならないと。
(……どうして、いまになってそんな古い記憶を思い出しているのかしら?)
ふと湧いた疑問とともに、記憶の景色が切り替わった。
廊下が見える――床には、赤黒い血が流れていた。
病気の親が咳き込むたびに、口に当てていた粗末な布巾を思い出す。あれと変わらぬ赤色と、生ぐさい臭いが広がっていた。
血がしたたる廊下を前に、アタシはがくっと腰を抜かした。その間も血はじわじわ流れて、床を浸食する。いまにもこちらへ襲いかかってきそうであった。
アタシは叫んでいた。
羞恥心も気丈なプライドも投げ捨てて、叫んでいた。
瞬間、またもぐるんと景色が変わる。
『死んでいます』
目の前にドアがある。
そのドア一枚を隔てた向こうで、少年の声が聞こえた。
『部屋のなかで……ギ、ギルさんが……』
くぐもった声は震えていた。告げられた男の名に、アタシはようやく足元の血の意味を理解する。
それを皮切りに、複数の声が入り乱れた。
『嘘だろ? こ、殺されているぜ、こいつ!』
『信じられない。ああっ、なぜこんな不幸が!』
『お、落ち着きましょう。とにかく、部屋を荒らさないように……!』
『守衛を呼ぼう。この部屋は……殺人現場だ』
ドアが開いた。
部屋のなかは、血にまみれていた。
ドア元にたまる血の源泉を前に、廊下に伝っていった赤色はたかが少量であったことを思い知る。なんて生々しくて、嫌な鉄の臭いだろう。生理的なおぞましさから体を前に折って、激しくむせ込んでしまった。
……と、前屈みになったことで、アタシの視界にソレが映り込んだ。
ドア元、室内のすぐ右手の壁際に、死体があった。
壁に寄りかかって座り込むさまは、単にくたびれて眠っているかのようにも見える。銀色の髪先がゆれているのも空気のせいではなく、まだ生気があるのかと錯覚してしまった。
唐突に死体がぐらりと横向きに傾いて、目の前に倒れた。
血だまりが、容赦なく跳ねる。倒れた拍子に死体は仰向けになって……ドア元で立ち尽くしていたアタシに、その顔を見せた。
(――!)
目がない。
虚ろな窪みのある、死に顔――それ以上は直視できなかった。
『よかったわね、姉さん』
辺りが暗闇に包まれた。
闇のなかに響いた聞き慣れた声に、アタシは我に返る。顔を上げてみれば、死体のあった場所に妹が立っていた。
表情はニコニコ。あの子がいつも他人に見せているような、きれいな愛想笑いであった。
『ギルさえいなければって、いつも言ってたじゃない? これで邪魔をする者はいなくなったわ。さぁ、晴れて姉さんが舞台のスポットライトを浴びる時が来たのよ』
でも、もうワタシはつき合わないから。
と、妹は冷めた口調で言った。
『これ以上、危ない橋を渡るのはこりごりなの。いくら有名になって、輝かしい将来の保証を手に入れても……探偵の末路があれじゃあねぇ?』
暗闇のなかで、妹の姿は徐々に遠のいていく。
アタシは慌てて走った。けれども、体が鉛のように重い。体中が恐怖に支配されているのか、うまく走れなかった。
一方で、妹は笑みを崩さない。後ろ向きに小さくなりながら、こちらに向かって、にこやかに手を振っていた。
『探偵になっても、ろくなことにならないわよ。悲惨な運命を迎えたくなかったら、いますぐに椅子から下りることね』
さよなら、さよなら……メイラ姉さん。
* * *
「行かないで、マリーナッ!」
叫びとともに、夢から覚めた。
虚空に伸ばした手の、その指先がなにか硬いものに触れる。正確には引っかけるというか……とたん、足元で甲高い音がして、意識が鮮明になった。
「あ……」
テーブルの上で、アタシは眠りこけていたらしい。
室内には、薄暗い闇が漂っていた。どうやら夜中にうとうと舟を漕いでいたら、そのまま深く眠り込んでしまったようだ。いまの時刻は夜に間違いないが……おそらく、夜明け前といったところだろう。
向かいの椅子は、からのままだった。その席の前、テーブルの上には布巾をかけたサンドイッチの皿もある。
たしかテーブルには一輪挿しの
アタシは、深くため息をついた。
とりあえず、落とした瓶を片づけよう。そう思って、座っている椅子から立ち上がろうとする。だが体が妙に重たくって、とてもじゃないがそんなことに気をまわす活力が湧いてこなかった。
(なんだか、夢を見ていたようだけれど……)
ひどく嫌な夢を見た。
そんな感触だけが残っていて、詳しい内容は思い出せない。なんとか頭をひねって
ただ一つ、妹のマリーナが夢に出てきたような気がする。
「マリーナ……」
アタシはもう一度、テーブルを挟んだ向かいの席を見つめる。
ここはアタシたち姉妹が、共同で借りている小さな住まいだ。一昨日の事件のあった夜から、妹はこの家に帰ってきていない……。
「まったく……こんな大事な時に、あの子ったらどこをほっつき歩いて遊んでいるのかしら」
空白の椅子に向かって、いまいましく吐き捨てた。
「いつだってそうよ、苦労はアタシばかりが買っている。あの子は、アタシの後ろをのらりくらりとついてくるだけ。一人じゃなんにもできない、グズな妹だもの……」
両親が死んで、残った幼い姉妹は二人だけで生きていかなければならなかった。
近くの農場に養子として引き取られたが、そこでの生活は最悪だった。汚い家畜の世話なんてうんざりだ。泥と糞に汚れながら、子どもだったアタシは何度も誓いを立てたものだ。
いつか、この場所を抜け出す。そして自分の未来は、自分の手でつかんでやるのだと。
「あんたは、アタシに感謝するべきなのよ」
不敵に、フンと鼻を鳴らす。
誰もいない部屋では、ひとりせせら笑う声がいやに反響した。
「ここまでのし上がってくることができたのは、みーんなアタシのおかげ。ようやく、つかんだチャンスなのよ? 簡単に手放すわけないじゃない……そう、探偵としての――」
途中で言葉が切れた。
『探偵』という言葉に引き寄せられて、頭のなかでフラッシュバックが起きる。
あの血に汚れた惨状を。
幸福の絶頂にいたであろう、
嫉妬して、憎んで、恨んで、消えてほしいとまで願っていた男に訪れた――死を。
「――ッ!」
とっさに、口元を手で覆った。気だるさを
えずくのは、これで何度目だろうか。
胃のなかのものをすべて吐き出さんと
ふと、虚ろな目が脇の
蓋は開きっぱなしだった。その
乱れた髪の、弱々しい女の顔がそこにあった。
「ちがう……ちがう! こんなの……アタシじゃない!」
もっと不敵に笑いなさい。
常に気強そうに振る舞うのよ。
そう言って、アタシは水のなかの自分へ命令する。
「し、死体がなによ! 別にはじめて見たってわけじゃないわ、……なにも、ショックを受けることなんてないのに!」
ただの死体ではない。
ナイフで腹部を刺され、おまけに目までくり抜かれていたのだ。
じつに
「ハンッ! それよりも喜ぶべきだわ。だって……あ、あのギルが死んだのよ!」
新聞の表紙を飾り、貴族の後ろ盾も得て、依頼人の手紙には決まって指名の名が記される――あの、名探偵ギル・フォックスが死んだ。
アタシはいまさらながら、自分が寝間着姿のままでいることに気づいた。どおりで、肌寒いわけである。
「あいつ……死ぬ前に言っていたわ。いずれはこのウォルタの街だけじゃなくって……もっと多くの凶悪事件を解決して、国中に名を広めてやるって!」
なんて無謀で、愚かな野心家。
でも、成り上がろうとする精神だけは共感できた。
そんなあいつは、もうこの世にいない。
だから、その計画はアタシ――このメイラ・リトルという探偵が横取り、もとい引き継いであげましょう。
「フフッ、これから忙しくなるわね……」
ずるりと、体を抱きしめたまま床にへたり込んだ。
吐いた息は、肺のなかから凍えていた。身を寄せながら、アタシは最後に小さくつぶやく。
「アタシたちの未来は明るいわよ。そうでしょ? マリーナ……」
水場から、部屋全体を見渡した。
そこに妹の姿はない。当然、優美な問いかけへの答えも返ってはこなかった。
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