今夜はおやすみ

 それからしばらくして、再び部屋のドアが叩かれる。

 部屋の主の返事を待たぬまま、開かれたドアの向こうに現れたのは、やはりまたしてもニールの母親であった。今度はその腕に、敷き布団と肌掛けを抱えている。


 ニールはわざとらしく嫌な顔をした。そんな息子のことなど気に留めるそぶりも見せず、母親は「布団をね、持ってきてやったんだよ」と返した。


 シャル・ブリッジは室内に入ると、床にばらけた本や紙類を隅に寄せて、適当なスペースをつくりはじめる。そして彼女はそこへ、持ってきた布団を敷き出した。


「まだ夜は少し肌寒いからねぇ。いくら体が頑丈なアンタでも、さすがに剥き出しの床板の上で寝るのはこたえるだろう?」


 せっせと床に布団を敷く母親に、ニールは「はぁ?」とすっとんきょうな声を上げた。


「いや、たしかに四六時中しろくじちゅう、特ダネを追い続ける記者たるもの……道端みちばただろうが、橋の下だろうが、どこでも仮眠を取れるよう鍛えてはいるけれどよぉ。いまは自分んにいるんだ。今晩はちゃんとベッドで寝るつもりで――」


「なに言ってんだい。お客を床に寝させるつもりかい? アンタって子は」


 その一言に、ニールの目は点になった。

 どうやら客というのは、僕のことらしい。床に布団を敷く母の意図をようやく察した息子は、すかさず僕に向かって指をさしながら抗議した。


「ち、ちょっと待て! こいつは客でもなんでもねーよ! なんで俺が、俺の部屋で、床になんぞ寝なくちゃなんねぇんだ!」


 おっかしいだろう、ババア!

 と、ニールは吠えた。


 だが、母親はツンと終始澄ました顔を貫いた。ちゃっちゃと布団を敷き終わると、彼女は夜食のお盆を回収してそのまま出ていってしまった。


 有無を言わせない一連の流れに、ニールは深くため息を吐いた。母親の言うことをないがしろにすると後が怖い……うなだれた彼の頭がそう物語っていた。


 乾ききっていない黒髪の隙間から、いちべつが投げられる。その恨めしい感情を前に、ベッドに座ったままの僕はにこりと笑みを返してやった。 

 かくして、普段の行いのよさが功を成したのか、僕はありがたく彼のベッドを借りることになった。


「……とりあえず、おまえには借りもある。今夜だけは泊めてやるよ」


「いやー、悪いね。すっごく硬い寝台だけど、ありがたく使わせてもらうよ」


「…………」


 無言のまま、ニールが室内のランプを消した。

 部屋のなかの色彩が失せ、すべて青黒い闇色に変わる。床板のきしむ音と、布のこすれる音の合間に「図々しいやつ」と小さな悪態が響いた。


 固いベッドの上で、僕は仰向けになっていた。衣服はそのままに、肌掛けだけを肩までかぶる。眼鏡は外して脇に置いているから、視界はぼやけていた。見えるのは天井と、かたわらでほのかにゆれるカーテンだけだ。

 

 今宵は月が明るいこともあって、窓を覆うカーテンも薄く光っている。目をつむっても眠れる気がしなかった僕は、しばし、ただぼんやりと暗い宙を眺めていた。


「で、どうすんだ。おまえ」


 一段低い位置から、ニールの声が聞こえる。僕は天井を向いたまま、彼の問いに答えた。


「明日、なんとかして所長に会いにいくよ」

「なんとかって……」

「仕方がないよ。いまの僕には、それ以外に有効な手立てがないからね。君のほうはどうするの?」

「…………」


 返事はすぐに戻ってこなかった。ガシガシと頭をかく音が聞こえて、何度かのため息の後でようやくニールが口を開く。


大博打おおばくちを打つにゃ、まるきり心許こころもとないんだけどな。それも含めて、明日の朝にでも考えっか……」


 無計画なのは、向こうもおなじらしい。

 頭のなかであれこれ先立てて考えてみても、これ以上は無意味な気がした。むしろ不安ばかりがつのって、余計に眠れなくなってしまう。


 ひとまずは気力と体力の回復を優先しよう。僕はニールの言うことに同意して、無理にでも眠りにつくことにした。

 見えない彼に一言「おやすみ」と口にして、肩の位置にあった肌掛けを頭から引っかぶった。


(ギルは死んだのか……)


 閉じたまぶたの裏で、僕はひとりごちる。

 新聞にも書かれていたし、それがきっかけで僕は守衛に追われているのだ。彼の死は絶対で、間違いないのだろう。


 だが何度心に言い聞かせても、響かない。元より彼は器用で、したたかで、悪知恵が働く男だ。もしかしたら死んだふりをして……どこかの物影から、事態に翻弄ほんろうされている僕をヘラヘラ笑って見ているのかもしれない。


(そんな可能性も捨てきれない……)


 とにかく、所長に会いにいこう。

 所長が無理なら、事務所のほかの誰かに。大丈夫だ、みんな勘違いしているだけなのだ。ギルの悪趣味な劇のせいで……。


 目を閉じても、考えごとがぐるぐる巡って、なかなか眠りにつけなかった。それでも僕はひたすら目を閉じるしか、ほかない。大きく深呼吸して、早く意識が落ちるのを願った。


(きっとよくなるさ……)


 しんとした静けさのなか、「そういえばよ……」とまたニールの声が聞こえた。僕が小さく「ん……?」と返すと、彼はこう言った。


「一つ、伝え忘れていたことがあったんだが……マリーナ・リトルって女の子、知っているか?」


 知っているもなにも、事務所の探偵の一人だ。


「その子な、昨日から行方がわからなくなっているそうなんだ」

「マリーナが……?」


 住まいは知らないが、たしか姉のメイラと一緒に部屋を借りて住んでいるとは聞いたことがある。どうやら、その姉の元にも帰っていないらしい。


「ギルの死体を発見する前に、姉と派手にケンカしたそうなんだ。そのことも重なって……昨日から事務所へ姿を現してないんだとか。見つけたら教えろって、守衛に言われたんだよ」


「そう……」


 姉妹ゲンカか。

 茶番劇でのピリピリした空気が原因なのだろうか。なんだかんだで揉め事を避けるタイプのマリーナが、あの苛烈な姉とぶつかり合うだなんて……彼女の心情によほどくるものがあったのだろう。


 それきりニールとの会話は途切れた。あとのしばらくは彼のひどいいびきに悩まされたが、いつの間にか僕の意識は闇夜に溶けて、夢のなかに落ちていた。


 あの、赤いサルビアの花が咲く夢のなかへ――。

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