ブリッジ家へようこそ

「つぅ……ひっどい臭いだこと」


 開いた玄関の扉を片手で押さえながら、そのふくよかな体型の女性は鼻をつまんで言った。


「新聞記者ってのは、ドブさらいの仕事もするのかい、ええ? まさかアンタ、そんななりで街なかをうろうろしたんじゃあないだろうね……ハァ、冗談じゃないよ」


 黄色みがかった家の明かりを背に、女性はうめいた。結わいた黒髪には所々に白糸しらいとが光っている。しかめ面に深く走る肌の皺が長年の苦労を物語っているようで、僕はつられて目を細めた。

 

 この五十代ほどの女性の名は、シャル・ブリッジ。僕のとなりで面倒くさそうにボサボサの髪をかいている男――新聞記者ニール・ブリッジの母親だ。

 そして僕はいま、彼の実家の前にいる。


「くそっ……だから、家に帰んのは面倒なんだよ」


 母親に向かって、ニールは舌打ちする。わかりやすい不良息子の姿に、僕はとなりから彼をじっとり半目で睨んでやった。


 僕の視線に気づいたニールが「あ? なんだよ、その目は。言いたいことがあんなら、直接言えよな」と悪態をつく。正面は玄関を塞ぐ母親、となりからは僕と、双方から無言の圧を受けて……ようやく、彼は折れた。


「わあったよ! 俺が悪かった! おふくろ、このとおりだ……頼むから俺を家に上げてくれっ!」


 素直に頭を下げるニールに、母親はいまいましさと憂いをまぜた息をつく。そして彼女は、きびすを返して家のなかへ戻っていった。


 玄関の扉は開かれたままだから、『入ってもよし』ということなのだろう。僕は念を入れて、周囲の通りを見まわした。暗闇のなかに守衛の姿がないことを確認すると、しょぼくれたニールの背にくっついて、彼の家におじゃました。


 ブリッジ家はおよそ二、三人の家族が暮らせるほどの、小さな住まいであった。外観はほかの近隣住民と同様、狭い路地を形づくる壁の一部と化している。大きな街のなかにぎゅっと詰め込まれるようにして存在する、ごく一般的で平凡な家庭なのだ。


 玄関のスペースは、ほとんどないに等しい。僕が扉をくぐると、すぐに居間へ通じていた。

 縦に長い空間に、手前はダイニングテーブルが大きく占めている。奥の左手には台所が見え、右手側には上り階段と裏口の戸に繋がるとても短い廊下が続いていた。


 質素倹約しっそけんやく。室内を見渡して、その言葉が僕の頭によぎった。


 おそらく母親のしょうなのだろう。けして広くない空間に、必要最低限な生活道具や家具が収められている。室内に装飾っ気や派手な色使いもない。その分、どこも清潔に、物がきれいに整頓されていた。


 僕が玄関で立ち止まったまま、しげしげと室内を眺めていると――ふとテーブルの向こう、居間の右手側に目が留まった。


 低めのチェストの上に、イーリス教会の家庭用祭壇がある。祭壇と言っても、しごく簡略化されたもので、黒を基調とした敷き布の上に、蝋燭台が二本、間隔を開けて並べられている。その蝋燭の間の壁に、これまた素朴な木材の飾りが掛けられていた。


 例の、神の目を模した飾りである。


「先にお湯を浴びてきなさい、お湯を。そんな汚らしい格好で家のなかを歩かれちゃあ、たまったもんじゃないからね」


 言葉づかいは荒っぽいが、かいがいしく息子から汚れた衣服を脱がそうとする姿は、じつに母親らしい。

 背中から外套を引っぱられ、ニールが慌てたように叫んでいる。「だぁ! それくらい自分でできるって!」と、彼はわずらわしげに身をひねるのであった。


「ちょいと、顔のとこが赤くなっているよ。まぁ、いやだ……切れて血が出てるし、こっちの頬はあおたんになっているじゃないの!」


「んあ、別に平気だよ。歩いてたら、街の若いガキんちょに絡まれちまってな。無謀にもケンカなんぞ売ってきやがったからよ……フン、大人の作法ってのを教えてやったのさ」


 鼻を鳴らして、ニールは得意気に言った。三人がかりでボコボコにされていたことは、彼の名誉を重んじて黙っていよう。


「ケンカ……ハァ、いい年した大人のすることじゃないよ。あたしゃアンタを、まともな人間として育ててきたつもりだったけれどねぇ。父親の仕事は継がないわ、特ダネを追うとかでしょっちゅう家を空けるわ……少しは親の苦労ってもんを考えておくれよ……」


 ぶつぶつと言いながら、シャル・ブリッジは戸棚から救急箱を取り出す。そこではたと、彼女は振り向いて、玄関で突っ立ったままの僕と目が合った。

 僕は「こんばんは」と愛想よく笑ったつもりだったが、向こうはけげんに眉を寄せる。


「ところで、ニール。あっちの人は誰なんだい?」

「ああ、そいつは……ただの仕事仲間だよ」


 ニールは少し考えてから、言葉をにごした。とりあえず、僕も彼の話に合わせておこう。

 僕はもう一度にっこりほほ笑んでみせた。けれど、シャル・ブリッジはうさん臭そうに目を細めるだけで、彼女にあんまり歓迎されていないのがよくわかった。


 ニールが、室内奥にある階段を親指でさす。「おまえは先に、二階の俺の部屋に行っていろ」と、彼は僕に指示した。


 僕は「おじゃまします」とひと声口にしてから、家のなかへ上がった。そのまま、まっすぐ……居間と、小言を言い合う親子を横切っていく。


 階段を上がろうとした手前で「あ、そうだ。ニール、お祈りを忘れているよ」と汚れた服を持った母親が、薄着姿のニールに言った。両手が塞がっているためか、彼女は視線を祭壇へ向けて息子に促している。


「帰ってきたら、必ずお祈りをすること。イーリス教の神さまと、お父さんと……それからご先祖さまに」


 ニールはあからさまに嫌そうな顔をしていた。「さぁ、早く!」と語気を強める母親に、彼はうめき声を上げる。これも昨今、よく見かける光景だ――年配者ほど宗教に熱心で、若者ほど現実的で冷めている。

 

 しぶしぶ、ニールが祭壇へ向かう。彼は雑に手を合わせると「はいはーい。今日もありがとうございやしたー……」などと、気の抜けた声でとんでもなく雑な祈りを神へささげた。


 僕は階段を上っていった。案の定、背後でまたブリッジ親子のケンカする声が飛びかったが……もう、気にしないことにした。



 * * *


 

 階段を上った先には、部屋が二室あった。どちらのドアとも色や形がおなじであるが、片方のドアには木のツタで編まれた小さなリースの飾りが掛かっている。

 ということは、ニールの部屋は飾りのないほうだろう。と、僕はもう一方のドアノブに手をかけた。


 僕の読みは当たっていた。内開きのドアを押した瞬間、風圧のせいか、無数の紙が宙へ舞い散った。


「うわぁ……」

 

 紙、紙、紙……足の踏み場もないとは、このことか。

 曲がりにも新聞記者を名乗るだけのことはある。ニール・ブリッジの私室は、紙類にあふれていた。


 書きかけの記事なのか、それとも単にメモなのか、どの紙にもインクの文字が埋め尽くされている。それが部屋のあっちで束になって積み上げられていると思えば、こっちでは雪崩を起こして斜面をつくっている。


 そのほかにも行き場のない書物も適当に散乱しているし、ベッド、仕事の机、椅子と家具はあるものの、どれも紙に埋もれていた。


「……なるほど。部屋の主らしい、いかにも雑っぽい部屋だ」


 ひとりつぶやき、僕は勝手に納得した。

 とかく、ドアを開けた拍子に紙を散らしてしまったことについては、悪いことをした。僕は室内に入って今度はそっとドアを閉めると、散らばったと思わしき紙やメモを適当に拾い集めた。せめて足場だけは確保しておこう。


 ひととおり、紙の束ができ上がったところで、それを机の上にまとめて置こうとした。その手前で、僕は机の上に目が留まった。


 というのも、新聞が一部置いてあったからだ。

 記者だからなにも不自然なことではないのだが……その紙面に、ギル・フォックスの名を見つけた。


「ギル……」


 かき集めた紙束を置く代わりに、僕はその新聞を手に取る。

 日付は、今日。記事の内容はもちろん、名探偵の身に起こった悲劇――ヘリオス探偵事務所での殺人事件について書かれていた。


 ドアの外から階段を上る足音は聞こえず、ニールがまだ戻ってくる様子はない。僕はベッドに腰掛けさせてもらって、その新聞をこと細やかに読んでいった。


 ……どれくらい経っただろうか。

 読み終わり、記事の内容が完全に頭に入ったころ合いに、タイミングよく部屋のドアが開いた。

 

「待たせたな、殺人犯」

「…………」


 ゆるいイブニングシャツに、ごわごわしたタオルを引っかぶって、新聞記者のニール・ブリッジが現れた。


 彼の濡れた黒髪が、僕にカラスの水浴びを連想させる。ニールはタオルで頭をガシガシ拭きながらドアを閉めた。水しぶきがあまたの紙の上に飛び散り、まだらの染みをつくるが……ここは彼の部屋テリトリーだ、あえてなにも言うまい。

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