Chapter 08
これまでの僕
――これまでの僕。
『僕はやってません! 誓って、殺人事件とはなんの関わりもありませんってば!』
鉄格子の内側から、何度も訴えた。それこそ声がかすれて、乾いた舌がひび切れても……何度も何度も訴えかける。
けれど、守衛は誰一人として、取り合ってくれなかった。
はじまりは、激しい雨の降る真夜中だった。疲れから眠りこけていた僕ことハロウ・オーリンの元に――突如、街の守衛たちが玄関を破って押し入ってきたのだ。
そのなかには、あのオルソー・ブラックの姿もあった。守衛長を務める彼は、僕の顔を見るなり、じつに淡々とした口調でこう告げた。
『ハロウ・オーリン。ギル・フォックスの殺害の件で、貴様を捕縛する』と。
そして、まわりの部下たちに命令して、僕を守衛所まで引っ張っていった。抵抗どころか、混乱した頭では状況を理解することすら追いつかない。気がついたら……拘留用の牢屋のなか、冷たい床の上に僕は倒れていた。
窓のない地下であった。だから、時間の経過もわからない。
ぽかんとする僕の頭に入ってきた情報といえば、まず、あのギルが死んだということ。ヘリオス探偵事務所のなかで殺されたこと。その犯行を起こした殺人犯として、僕が疑われているということ……。
いや、疑われているのとはちがう。
犯人は僕だと、はっきり断言された。
だから厳しい取り調べや、痛い尋問はまるでなかった。その代わりに怖いくらいさくさくと、書類手続きが進められる。僕が牢屋から解放されて、ようやく外の空気を吸えた頃には――すっかり太陽が空高く上っていた後であった。
『まともに外の空気を吸えるのは、これで最後だ。これからおまえは殺人の罪で、地方判事の元で裁きが下される』
黒塗りの収容馬車に乗る前、顔を出したオルソー・ブラックから言われた。形式だけの裁判にかけられ、判事の宣告によっては最悪死罪になるとか。
言葉を失う僕に、さらにオルソーは追い打ちをかける。雨上がりの晴れた空と、彼の不健康そうな青白い顔の対比は、記憶のなかに印象強く残っている。
『おまえを殺人犯と告発したのは――探偵事務所の人間たちだ』
全員が口をそろえて、言っていたぞ。
薄ら笑うオルソーに、僕は「そんな馬鹿な」と突っかかる。手錠をかけられているのを忘れて、勢いまかせに迫ったものだから、すぐに近くの守衛に取り押さえられた。
『嘘だ! あの人たちがそんな適当なことを言うはずない! 仮にも探偵なんだ……なにか誤解があったか、それとも……』
『哀れだな。おい、さっさと連れていけ』
『絶対に信じないぞ! お願いだ、一度みんなと話をさせてください! だって、僕は――!』
言葉の途中で、僕は収容された。暗いだけの空間に見張りの守衛とともに詰め込まれ、重い扉が閉まる。外から
続きの言葉を叫ぼうにも、馬車は動きはじめて――膝の重心がぐらつき、無様に転んでしまった。
僕は、探偵事務所の天敵であるオルソー・ブラックの言葉なぞ信じなかった。
ギルが死んだことだって、信じなかった。
なにか……悪い夢でも見ているのだと、本気で思っていた。
ロイ、シトラス、メイラ、マリーナ、シルバー、ゴート、それからデュバン所長。彼ら全員が、いまどういう状況に置かれているのか……ただそれだけを知りたかった。
『…………』
暗闇の端っこで、僕は腰を下ろしてうなだれていた。逃げ出したくっても、こちらは丸腰だ。サーベルを携帯し、ガタイのいい見張りの守衛なぞに敵うわけない。
ガタゴト、ガタゴト……まわる車輪の音と、馬車のゆれに身を任せる。もちろん、このままではいけない。なにか手を打たねばと、しきりに頭を巡らせていた。
そうやって考えごとをしていると、また不意打ちを食らう。大きくゆれた荷台に、反応が遅れた僕は壁に肩を打ってしまった。
『おい! なんなんだ、いまのゆれは!』
異常事態だったらしい。見張りの守衛が叫ぶと、外から別の守衛が応える。
『すまない、馬車の車輪が外れてしまったんだ。これはしばらく修理に足止めを食らいそうだぞ』
見張りの守衛が舌打ちをする。そいつは僕を一人暗闇のなかに残して、外へ出ていってしまった。きっと馬車の修理の手伝いをするつもりなんだろう。
見張りがいなくなったことに、しめたと希望を抱いた僕だったが……再び、外から閂が下りる音に落胆してしまった。それでも、なんとかこのチャンスを生かせないものかと、暗闇のなかで僕はうなり続けた。
僕は考える。いまこの馬車は、どの辺りに停車しているのだろう。もしや、もうとっくにウォルタの街から遠ざかってしまった後なのかもしれない。
だとしたら、詰みだ。助けを呼ぶことすら叶わない……もっとも、いまの僕を助けてくれる
不意に、キィと音が鳴った。
見張りが帰ってきたのか。そう思って僕が顔を上げると――目に入ったのは、暗闇のなかを斜めに走る白い線であった。その線が、外から差し込んだ光の筋だと気づく前に……今度はなにかが投げ込まれる。
『……?』
小さな鉄の――それが鍵だとわかった瞬間、心臓が跳ね上がった。
僕の行動は速かった。足、靴、膝、口、歯、床、壁、とにかく使えるものをすべて利用して、僕は鍵を拾うと手錠の鍵穴のなかへ差し込んでまわした。ここら辺はよく覚えていないが、
そっと、外の様子をうかがってから、僕は思い切って飛び出した。停まっている馬車の前のほうから、守衛たちの声が聞こえる。緊張のあまり、僕の喉はいまにも叫び出しそうであった。
これまたちょうどよく、馬車はさる納屋の前に停まっていた。納屋の脇には売り物か、飼っている馬に与えるのか……干し草の束が積まれていたのだ。僕は滑り込むように、干し草のなかへ身を隠した。
まるで、子どものかくれんぼのようだった。
こんなのすぐに見つかってしまう。息を潜めながら僕はそう思ったのだけれど、しばらくの間はなにも起こらなかった。守衛のぼやきと、カンカンと修理に勤しむ物音、そよ風のささやきと、鳥のさえずり……じつに、のどかなひと時であった。
だからこそ、もうしばらく経って――天地を割るような怒鳴り声が落ちた時には、僕は死を覚悟した。
収容の馬車は、まだウォルタの街なかにいた。守衛たちはすぐさま仲間を呼んで、死に物狂いで僕を探し出すだろう。ということは僕は逆に、干し草のなかで身動きが取れなくなってしまったのだ。
こんなことになるなら、隙のあった時点でもっと遠くに逃げておけばよかった。守衛だけじゃない、街の住人に見つかる可能性だってあるのだ。後悔先に立たず……干し草のなかで、僕は見つからないようひたすら祈り続けた。
(……もう、どうとにもなれ)
そんな絶望に沈む僕の心を静めたのは、日によく干された草の匂いだったりする。徹夜明けからの、守衛による襲撃も重なって、僕はひどく寝不足であったのだ。
心身ともに疲れ果てていた。次第に、体を包む干し草のやわらかい心地よさに引きずられていって……僕の意識は途切れてしまった。
* * *
目が覚めた頃には、周囲はすっかり暗くなっていた。
干し草から這い出てみれば、月明かりが街に影を落としていた。とかく、僕はその場から逃げ出した。面積の少ない闇夜のなかを、こそこそと渡り歩きながら――どこへ行こうかと途方に暮れていた。
それから、いったいなんの運命か。僕は以前、街の広間で醜い攻防をかわした新聞記者の男と再会した。
名を、ニール・ブリッジというらしい。
人通りの少ない路地を選んで歩いていたら、偶然目に入った暴力現場。なんとなく放っておけなかったので、僕は自身が追われている身にも関わらず、気まぐれに……彼へ手を差し伸べたのだ。
そして、いまに至る――。
「ニール! このバカ息子、なんだいその
「あー……うっせぇぞ、ババァ! いいから家に上げやがれ、こっちは急を要してんだよ!」
「おだまり! ここ二、三日帰ってこないから心配していりゃ……母親に向かって、なんて口を! アンタみたいのを、ろくでなしの親不孝者って言うんだよ!」
運河に近い、南寄りの地区。
密集する住宅地の隙間に、罵声が反響する。温かな明かりの灯った、一件の家の前で――老いた母とでかい息子が仲良くケンカをしていた。
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