月夜の出会いⅢ

 それじゃ。

 と、短い言葉を残して、やつの靴がくるりと反転する。文字通りきびすを返して、やつは――ハロウ・オーリンはその場から去ろうとした。


 二歩目の足が地面から浮いた瞬間だ。俺もとっさに身をひねって、後ろ足で石畳を蹴り上げていた。


「っだぁーッ!」

「!」


 わけのわからない叫び声を上げて、俺は跳んだ。中途半端な膝立ちからの、前方へ滑り込むような跳び――例えるならカエルのような、地面すれっすれの低い跳びであった。


 勢いが足りないぶんは、手足や胴体を伸ばして距離を詰めるしかない。受け身をまるで無視したおかげで、肘と胸を地面に打ってしまった。特に肘は、骨のでっぱりが見事強打の域に達し、指の先までビリビリと嫌なしびれが走った。


 痛みに、額から冷や汗が垂れる。それでも俺はなんとか……この手で、やつの足首をつかむことに成功した。


「っ……ハハハハハッ!」


 テンションの高い笑い声が、喉から出てきた。夜中の袋小路に、それは耳うるさく反響する。


「やった……やったッ! やっと捕まえたぞ、この野郎が!」


 捕まえたというか、相手の足にすがりついている形に近い。じっさい、腕をぎりぎりまでめいっぱいに伸ばし、かろうじて両手で足首を包み込んでいるといった程度だ。


 たやすくほどかれるのがオチだ。それでも俺は、たとえ頭を踏みつけられようとも、つかんだ両手をけして離さない自信だけはあった。


 盛大に笑ったぶん、口のなかに砂ぼこりが入る。それをペッとツバと一緒に吐いてから、また俺は心から笑ってやった。目の前の眼鏡をかけた青年――恐ろしき犯罪者、ハロウ・オーリンに向かって。


「この、殺人犯め。へへっ、とうとうやってやったぞ。この俺が……新聞記者のニール・ブリッジが!」


「…………」


「どーだ、アラン! これで俺の勝ちだ……明日の新聞の一面は、宣告どおり俺がもらってやったぞ。『あっぱれお手柄の新聞記者。殺人犯を捕まえる!』……名探偵ギル・フォックスを殺した、あの恐ろしい犯罪者……を……」


 街じゅうを歩きまわって、ヤケ酒をがぶ飲みして、チンピラたちにボコされて……正直、俺の疲労はここらでピークに達していた。


 視界がふらついている。荒い呼吸をくり返しながら、俺の口は忙しなく言葉を吐き続けた。助けられたことを省みる余裕もなく……とにかく、いまの俺はやつの足首にしがみつくのでやっとであった。


 ハロウ・オーリンは、また身を反転させた。そして、頭を傾げて俺のことを見下ろす。俺もボロボロのまま顔を上げて、やつの視線を不敵に受け止めようとした。


 いつかの真昼と、構図が重なる。


 しかし、目の前の男はゆっくりと……その場で器用に片膝を折った。


「……?」


 月明かりの逆光が、その顔を暗く染める。

 しかし、すべてが影に潰されることはなかった。細やかな表情の輪郭を、俺の目がたどる。俺は見た――なんとも言えない苦痛をたたえた、その悲しげな表情を。


「……教えてくれないか?」


 眉を寄せ、目を細め、詰まり声が歪んだ口からこぼれる。ぽかんとまばたきする俺に、やつは問うた。


「ギルは……本当に死んだのか?」


 問いの意味が、一瞬よくわからなかった。目を点にして、俺はただまじまじとやつを見つめた。レンズの向こうの赤みがかった瞳は、ひどく虚ろで陰りに沈んでいる。


「……おまえが殺したんだろう」


 真っ先に思いついた言葉だけをぶつけた。するとやつは、紅茶色の前髪をゆらしながら静かに否定する。


「ちがう、僕じゃない」


 そう言うと思ったぜ。わかり切っていた返事に、俺はまぶたを細める。ただ想像とだいぶちがっていたのは、ずっと重くて、痛々しい響きがしたくらいだ。


「お願いだ、なにか知っていることがあるなら僕に教えてくれ。僕は……ほとんどなにも聞かされていないんだ。ただ、短く伝えられたのは、あいつが……ギルが、死んだということ」


 そして、その殺人を僕が犯したということだけ。

 と言って、ハロウ・オーリンは俺の両肩をつかんだ。気弱そうな振りをして、その力は、俺が顔をしかめるほどかなり強かった。


「なぁ、お願いだよ。このとおりだ……」


「お、おい……」


「僕には信じられないんだよ。ギルが死んだなんて……あのいけすかないクソ男が、もう……この世にいないなんて……」


 ぎりぎりと、さらに強く肩をつかまれる。俺はたまらず「落ち着け!」と叫んで、やつの足首から手を離すと、振り払うようにして身を起こした。

 互いに地面に膝をついて、俺はこの殺人犯と向かい合う。

 

「…………」


 先に、俺が立ち上がる。今度は俺がやつを見下ろす形になってしまった。すっかり構図が逆転してしまったようで、そのまま俺は無言で紅茶色の頭を睨めつけた。


 やつは、力なく膝を地につけたままだ。なんとなく、糸がぷつんと切れてしまった人形を連想させた。頭を下へ傾けたまま、なにも動こうとしない。


「…………」


 目を背けたくて、俺は空を見上げる。

 月はピカピカだ。きれいな形で夜空を陣取って、まばゆい明るさを振りまいている。吹いた夜風も心地よくて……あくまでも素知らぬふりをし続けるこの世界に、苛立ちを覚えたのは今夜が初めてだった。


「ふぅ……」


 俺は冷めた息を吐く。

 こんなやつを守衛所まで連れていくのは容易な仕事だ。なんなら、いまこの場で大声で叫んだっていいのだ――逃げ出した殺人犯はここにいるぞ、と。


(それで、すべて片がつく)


 俺の勝負も、この街の平和も、なにもかも……。


「はぁ……」


 切れた口も、殴られた肉も、打った骨も痛い。全身がもう痛い……いまとなって、フツフツと怒りの熱が込み上げてくる。


 狭い路地を抜けた強い風になでられるまま、自身の髪をかき上げた。明るい空に沈んだ見えない星に……ふと、見られているような気がした。


「……ああっ、くそ!」


 気の抜けたお人好しなんて、大嫌いだ。

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