月夜の出会いⅡ

「いい風は吹いていたんだけどな」


 背もたれに寄りかかり、夜風を浴びる。ヤケ酒にゆだった体を、風は優しく冷ましてくれる。心地よさを感じつつも、もっと酔わせてくれよと恨めしく思った。


「新聞社を出た時まではよかったんだ。うん、よかった……でも探せど探せど、も! あんの眼鏡やろうはどこにも見当たらねぇときた……」


 気だるく、ろれつのまわらない重い舌で、俺はぼやいた。


「っかしいなぁ。この街は俺にとっちゃ庭みてーなもんなんだよ。だから、だから……人一人見つけるくらい、朝飯前だと思ったんだがなぁ……」


 湧いた疑問に、深く考えをめぐらせる必要もない。単純にして明快、至極簡単なことだ……とっくのとうに、やつはこの街から逃げてしまったにちがいない。


(ハァ、つまんねーの)


 ついたオチにも、自信満々で街じゅうを練り歩いた自分自身にも。


 酩酊めいていした頭を後ろ向きに沈ませて、夜空をあおぎ見る。椅子ごとひっくり返らないように、背もたれにかける体重を加減するくらいの正気はまだ保っていた。でも別に俺は、このまま地面へ倒れてしまってもかまわなかった。


 椅子の前足を浮かせて、ゆらゆら……そして、いらいらとテーブルに酒が戻ってくるのを静かに待った。

 今夜は月がまぶしい分、空を見上げたって星は見えづらい。またたきをあきらめた小さな粒のほとんどが、闇のなかに溶け込んでしまっていた。


「……ん?」


 先程も述べたが、今夜は外歩きにランタンが要らないほど月が明るい晩であった。

 だからいま、俺の頭上――もとい、酒場に面した通りを歩いていった一人の男の、その髪色でさえもはっきりこの目で捉えることができた。

 逆さまの裏路地に浮かんだ、赤みがかった髪色を。


(もしやッ!)


 とんだ奇跡を前に、全身が硬直した。だから、背もたれにかける体重の加減を忘れていたのだ。俺は椅子ごと盛大に、背中向きに倒れた。


 痛々しい音が、酒場一帯に響いた。「キャッ」と、耳をかすめた女の悲鳴は、おそらく酒を持ってきた給仕のものだろう。

 衝撃に「いっでぇ……」と、俺はうめく。後頭部を打たなかったのは運がよかった。冷たい石畳は俺をやわらかく受け止めてはくれなかったが、この際、許してやることにしよう。


 ひっくり返った俺の視界に、まだやつの姿は残っていた。驚いているのか、通りで足を止めている様子が見える。

 まったく、のんきな犯罪者だよ。俺は酔いと痛みにふらつきながらも、体勢を直して立ち上がる。そして、前のめりに勢いをつけて駆けながら、そいつにつかみかかったのだ。


「見つけたぜ、殺人犯さんよ」


 シャツをつかんだ瞬間、俺の勝ちは決まった。苦労と努力が報われたのだ。ニヘリと笑いながら、俺は顔を上げる。


「あ? なんだ、このおっさん」


 柄の悪い低音が耳を通った。

 顔を上げた俺は、いまはっきりやつの人相を捉える。たしかに……人を殺していそうな恐ろしい面構えをした男である。だがしかし、赤い髪はずっと短く刈り上げられ、露出した耳の上部には銀色のカフが光っていた。


 元見習い探偵というよりも、街のチンピラといった風貌だ。

 そして一番重要な点だが……俺が胸ぐらをつかんでしまった相手は、眼鏡をかけていなかった。



 * * *



(いい風は吹いて……いたんだけどな)


 固い靴裏に胸を蹴飛ばされた。俺の体は大きく吹っ飛んで、袋小路の壁に叩きつけられる。積まれていた木箱が崩れるなか、俺も一緒に冷たい地面の上に倒れた。


 人違いで、うっかりチンピラにつかみかかってしまった俺こと、新聞記者のニール・ブリッジ。きれいな月夜の下で、ボコスカと手酷く痛めつけられていた。


 相手が一人だけなら、酒がまわっている体でもまだ太刀打ちできただろう。しかし、チンピラは後ろにお供を二人ばかしくっつけていた。よって俺は、人けのない暗い路地裏の一角へ引っ張られて、三人がかりでお仕置きされているってわけだ。


「おい。立てよ、おっさん。へばってんじゃねーぞ」

「…………」


 おっさんじゃねーよ、と言いたかった。けれど、喉は弱々しく咳き込むくらいしかできないし、口端は切れてヒリヒリしている。


(虫の息とは、このことだ……)


 呼吸も満足に整えられない状態のなか、コツコツと迫る足音が地面を伝って響いてくる。なんとか、うつ伏せの体だけは起こしたかったが、腕にまったく力が入らない。

 痛い、つらい……胃に詰め込んだ酒が逆流しそうだ。長くこの街に住んではいるが、石畳とキスするのはこれがはじめてであった。


「けっ、人の胸ぐらつかんどいて……その上、犯罪者呼ばわりたぁ、いい度胸じゃねえか」


 ドスを効かせた声に、ケラケラと嘲笑う声がまざる。

 チンピラといっても、見たところ年はまだ十代終わりの青臭いガキたちのようだ。ただ、力加減できないやつが一番やっかいでもある。付近に人の気もない、完全な路地の奥地である以上……俺は、最悪のケースを考えなければならなかった。


 ぬぅっと、辺りが急に暗くなった。いよいよチンピラどもが最後の一撃を加えるため、倒れた俺を見下ろす位置まで迫ってきたのか。

 俺は身を固めた……が、そうではなく、単に空に浮かんでいたお月様が雲の裏に隠れてしまったらしい。


 なんにせよ事態は変わらない。月の陰りに、俺は人生の終わりを悟った。図らずとも、明日の新聞の一面には俺のことが書かれるかもしれない──新聞記者の哀れな末路という内容で。


(小さな小さな……たぶん数十行くらいの小さな記事で、紙面の一番端っこに書かれるんだろうな)


 瀬戸際に、ひそかに喉を鳴らす。

 それから俺は少し身じろぎした。蹴られようが踏まれようが、最後の一撃くらいは真正面から受けようと思って……地面から顔を上げた。


 その時、俺の視線が止まった。三、四歩ほど空けた位置からボキボキ指を鳴らすチンピラどもの――足の向こうだ。交差する向こうの通りから、誰かがこっちの路地をのぞいている。

 地べたを這う俺の視界からでは、足と靴しか見えない。それでも、その人物はたしかに靴先を俺のいる方向へ向けて、立ち止まっていた。


「…………ぁ」


 口から出た声はかぼそかった。助けてくれと叫ぶ間もなく、やはりその誰かさんは靴先を変えて、通りの向こうへと消えてしまった。


(……だよなぁ。わざわざキナ臭いことに首を突っ込もうとするお人好しなんか、いないか)


 納得して、俺は再び顔を地面に伏せる。

 目を閉じると、体がグルグルと回転しはじめる。あきらめと痛みを抱いて、俺はまわる心地よさに身を任せた。


「……あの」


 遠い声が耳に入る。閉じたまぶたの世界に「んだ、てめぇ」とチンピラの荒ぶる声がよく響いた。


「暴力はよくないよ」

「るせぇ! 外野が口出しすんじゃねーよ」


 バシッと、物音がして俺ははっと目を開ける。うめきながら顔を上げれば、おなじタイミングでなにかが地面へ落ちてきた。

 ソレは一度地面を跳ねると、軽い音を鳴らして石畳の上をすべる。ちょうど俺の、顔の脇の位置で止まった。


「その人がなにか迷惑をかけたっていうなら、僕が代わりに謝るよ。……これで足りるかな」


 暗がりに一、二、三……四人いる。チンピラたちに囲まれながら、その人物は懐からなにかを差し出した。かさついた音から、紙幣だというのは容易に推測できた。


 チンピラは舌打ちした後、残りの二人にあごをしゃくり……駆け足で、向こうの通りへ行ってしまった。


「…………」


 かくして、俺は救われた。

 少ししてから、俺は身を反転させて仰向けになる。ボコボコにされたダメージが残っていて、もうしばらくは起き上がれそうにない。石畳の枕じゃ後頭部が痛むが、肺を圧迫する息苦しさよりかはましだった。


 暗い路地の隙間から、空をまっすぐ見つめる。明るかった月には、まだ雲が引っかかっていた……。


「世も末だ」

「どうして?」

 

 ぼそっとつぶやいた言葉に、律儀に声が返ってくる。救いの手を差し伸べてくれた奇妙な恩人さんは、まだ俺の近くにいるらしい。


「この街はな、周辺からちょっと人が集まるってだけで、ほかにはなーんにも華なんかねぇ平凡なとこなんだよ。だのに、ずいぶん柄が悪くなっちまったもんだ。特に若い連中がアレじゃ、先が思いやられるよ」


 加えて、付近で殺人事件の犯人が逃げまわっているときた。陰鬱な気持ちをため息に変えて、俺は空へ向けて吐き出した。


「立てるかい?」


「んにゃ、このまま眠りたい気分だ」


「それは駄目だよ。風邪を引くし、ご近所さんにも迷惑だ」


「うるせぇ、俺のことはもうほっといてくれ」


 そいつは、寝転がる俺の頭へ近寄ってくる。膝を折って、ぬっと人の顔をのぞき込んできた。

 顔を合わせたくない俺は、頭の向きを横へ変える。それから「どうして俺を助けたんだよ」とぶっきらぼうに尋ねてみた。


「一回、見て見ぬ振りをして、通りの向こうへ消えようとしていただろ、あんた。……それでよかったのに。あいつらにいくら握らせたか知らねぇがよ、下手したらもっと面倒くさいことになったかもしれないんだぜ?」


「うん……そう思ったんだけどね」


 なんだか、他人事に思えなくてさ。

 と言って、そいつは苦笑した。


「僕もいま、だいぶ気が滅入っているんだ。ちょっとくらい人にいいことをしてさ、気分よくなりたかっただけなんだ」


「貸しにはしないぞ」


「ああ、別にどうだっていいよ。……あ、そうそう」


 なにか思い出したかのように、そいつはポンっと手を叩いた。


「それに、知った顔だったから」

「知った顔?」


 妙な発言に、俺は眉を寄せて聞き返す。


「あんた、俺のこと知ってんのか?」


「名前は知らない。でも、僕たち会ったことあるよ」


「気の抜けたお人好しなんて、俺は知らないね。でも……へへっ、まいったな。そうか、俺ってば案外有名人だったりすんのかな?」


 痛む体を無視して、俺はひとり、おもしろがって笑う。


(まだ、その偉業を達成させちゃいないんだがな)

 

 と、渾身の洒落と自虐は心に秘めておいた。脳裏をかすめた、あの――殺人犯を捕まえた自分をほめたたえる新聞記事の妄想は、墓まで持っていくことにしよう。


 不意に、そいつが地面に向かって片手を伸ばした。なにかと思って視線を動かすと、暗がりのなかに……なにか物が落ちていた。


(そういえば……チンピラとのケンカの際に、こいつ、なにか落としていたな)


 俺はゆらりと起き上がった。そして、かたわらに落ちていたソレを代わりに拾ってやった。


「ほら、おまえのだろ?」


 手にした時、ソレの名前がぱっと思いつかなかった。丸いガラスのレンズが二つ、細い金属のフレームを通して並んでいる。俺は気にも留めず、後ろ向きに体をひねってソレを渡してやった。


 そいつは「ありがとう」と礼を述べて――ソレを顔にかけた。


 その時である。じつにタイミングよく、空の雲が晴れた。

 まばゆい月明かりが落ちて、辺りの視界が一瞬のうちにクリアに変わる。そいつの顔にかかったレンズがきらりと反射して、俺はまぶたを細めた。


 そして次の瞬間には、俺は目をめいっぱいに大きく見開くことになる。


 透けたレンズの向こうに、赤みがかった瞳が見えた。やつは、ゆっくり立ち上がる。その全身の姿は、先日の昼間に俺を見下ろしていた相手の像とぴったり重なった。


 目の前に現れた男――それは今度こそ、まごうことなきハロウ・オーリン本人であった。

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