月夜の出会いⅠ
誰もがまじまじと、後輩記者くんの顔を見つめた。次第にざわめきが大きくなり、なかにはガセネタをつかまされたのだと苦笑する者もいた。
だが、本人がきっぱりそれを否定する。
「自分、守衛所を張っていたんですが、やたら外に出ていく人が多くて……それとなんか慌ただしい様子だったから、ちょっと変に感じたんです。で、たまたま付近で立ち話をしていた守衛の会話に、耳をそばだててみると――」
そしたら『犯人が逃げた』と。
「やだ……それじゃ、人殺しの恐ろしいケダモノが街なかをうろついているってこと?」
震える声で問うたアランに、後輩記者くんはこくこくと頭を縦に振って返した。
犯人が捕まったと聞いた時には、あんなにも残念がっていたのに……さすがのアランも顔を青くして動揺を隠せないようであった。
――と、思ったら。
「トップニュースだわッ!」
叫ぶなり、一瞬でやつの目がキラーンと輝き出す。
「すぐに新しい記事を組みましょう。編集長、ぼーっとしている場合じゃありませんわ。さぁ、みんな
歓喜のハスキーボイスにゆさぶられ、編集長も我に返る。「あ、ああ、わかっているとも……!」と、多少おたおたしながらも、ドアの外に集まっている記者たちに指示を出していった。
「動ける者は、ただちに裏づけに走ってくれ。外へ出る時は、必ず複数人で行動するように……犯人らしき男の姿を見かけても接触はせず、すみやかに近くの守衛へ連絡を――えーっと、犯人の特徴は……」
俺は急ぎ、自分の手帳を開こうとした。だが、そいつを役立てる前に、アランがつらつらと殺人犯の情報を口頭で羅列していく。
「年齢は二十歳。背丈は特別長身というわけではなく平均的で、体型はやや痩せぎみの男。見た目の印象は『どこにでもいる気弱で大人しい若者』だとか。そのほかの特徴としましては、紅茶色の髪に、赤みがかった瞳……顔に眼鏡をかけています」
「そうか。で、そいつの名前はなんと言ったか?」
「はい。犯人の名は――ハロウ・オーリンと言います」
ハロウ・オーリン。
それが、恐るべき殺人犯の名前だ。
自分を事務所から追放させた名探偵ギル・フォックスに激しい恨みを抱き、殺したあげくに氏が宣伝文句としていた『真実を映す両眼』をえぐっていった男……。
(どこにでもいる気弱で大人しい……紅茶色の髪に、赤みがかった瞳……顔に眼鏡をかけ……眼鏡を……)
はたと、俺は考える。なにか、頭のなかで引っかかるのだ。至極最近の出来事でなにか……思い当たる節がある。
脳裏に、街の広場の光景が浮かぶ。俺は地面に這いつくばって、必死にしがみついていた……相手の足に。逃げないようまわした腕をがっちり固めて、抵抗していたのだ。
相手はゴミを見るような目つきで、俺のことを見下ろしていた。歯を食いしばった俺が顔を上げると、視線の先にガラスのレンズが光った――。
「そうだ、眼鏡だッ!」
思い出した。
ビリッと、体中に電流が走ったような衝撃であった。弾けるように叫んだ俺に、近くにいたアランや編集長が驚いて跳ね上がる。
「ち、ちょっとなによ! 突然、大声なんか上げたりして」
「編集長!」
アランを押しのけ、俺は編集長に詰め寄った。
あれだけ情報を熱心にかき集めていたのに、どうしていままで気づかなかったのだろう。きっとこの俺だけが手にしているであろう、唯一無二のネタというものを。
「俺、やつの顔を見ています!」
「なんだって! そいつは本当か、ニール!」
新聞というのは、基本文字ばかりが掲載されるものだ。時々、絵や図の版も載ることはあるが、人相を鮮明に伝えるにはどうしても言葉に頼るしかほかない。
だからこそ、俺のこの目に焼きついた殺人犯の顔や姿は、貴重な情報源となりうるのだ。
「殺人事件が起きる前のことです。昨日の昼間に、街の広場でちょっとした騒動がありました。探偵事務所の何人かが、守衛相手にケンカを売るっていう騒動がね。その時、俺、ちょうど現場にいたんですよ」
世の注目を浴びる探偵事務所が起こすスキャンダル。アランの記事に対抗するには、これとないネタと俺は考えた。
居合わせた運命に感謝しつつ、俺はいつものように仕事道具の手帳を広げて、ペンを動かす。生々しい様子を一挙一動見逃さないよう、鮮明に書き込んでいって――。
「ところが、あの眼鏡……いや、例のハロウ・オーリンなる男に襲われましてね」
あろうことか眼鏡の男は、俺の大事な仕事道具である手帳を奪い取っていったのだ。当然、俺はやつと戦った。記者の命であるネタ帳をなんとしてでも取り返さんと、勇敢な姿を見せたその様子を……俺は編集長に熱く語る。
「あいつの足にへばりついて、必死に抵抗しましたよ。そこでたっぷりと、やつの顔を見たんです。ええ、そう……いかにも人を殺してますっていう、凶悪な面構えを!」
「コラッ、適当なことを言わないでちょうだい」
ハンッと鼻を鳴らすアランが、俺に向かって苦言を差した。
「ワタシの調べでは、虫も殺さないような肝の小さい男だって話よ。もっとも……そういう根暗くんが、ためにため込んだ鬱憤を爆発させて、やっかいなことを引き起こすんだけど……」
アランはそれ以上、犯人の特徴を口にしなかった。ということは、だ。やはりやつはギル・フォックスのことは知っていても、ほかの探偵たちとは顔を合わせていないのだ。
俺はほくそ笑み、ぼやくアランに向かってびしりと指を突きつけてやった。
「アラン。俺が以前、おまえに言ったこと……忘れていないだろうな」
「……もしかして、勝負がどうこう言っていたやつ?」
「ああ、そうだ。いまはおまえに軍配が上がっているが、いずれ俺が引っくり返してやる。おまえの書く記事の十倍は売れるような、特大級のスクープ記事を書いてなぁ!」
俺の挑発に、アランは目をすっと細めた。
「ド三流の戯れ言だと思って聞き流していたけれど……いいわ、そのケンカ買ってあげる」
相変わらず口元はにんまりと、気味の悪い笑みをたたえていた。だが、一方でアランの目は恐ろしく冷え切っている。
お互い、勝負するにはもってこいの題材がそろっていた。ヘリオス探偵事務所殺人事件、名探偵の死、そして犯人の逃亡……。
「アナタみたいなのは、いっぺん頭を冷やさないといけないようね。ワタシを負かす記事が用意できなかったら、ちょっとそこの運河を泳いで魚でも採ってきてもらうわよ」
「上等だ、ボラでもサケでも捕まえてきてやるよ。なんなら毎日、床に這いつくばって、テメェの靴を磨いたってかまわないぜ」
こうして、新聞記者同士のプライドをかけた戦いの火蓋が切って落とされた。
(アランには
明白な勝算が、俺にはあった。
名探偵が死んでしまった以上、人々は新しいヒーローを求めてくるはずだ。ちっとばかし気に食わないが、ここはアランの手を真似させてもらおう。
(簡単な話だ。俺があの眼鏡を捕まえればいい)
殺人犯、ハロウ・オーリンの確保。
そして、その手柄を立てた自分自身を題材に記事を書けばいいのだ。
ネタがないなら作るのみ、俺自身が特ダネになること。タイトルはもう頭のなかに浮かんでいる――『お手柄! 新聞記者ニール・ブリッジ氏、極悪眼鏡の殺人犯を見事捕まえる!』
「よし、これしかねぇ!」
俺は編集長の個室を飛び出した。職場を突っ切り、階段を駆け下りて、受付の文句を背中に玄関の扉を思い切り開ける。
かくして、俺は意気揚々と街へくり出したのだ。
恐ろしき殺人犯を捕まえるために。
* * *
「まっ、世のなか、そーんなに事が簡単に運ぶはずねぇか!」
アッハハハ! と豪快に笑いながら、ダンッと空のジョッキをテーブルの上に叩きつけた。
時刻は……八時頃になるだろうか。とっぷり更けた暖かな夜である。大きめの月がこうこうと地上を照らしてくれるおかげで、今晩の外出にはランタンは不要になりそうだ。
行きつけの酒場のテラス席にて、俺はひとり、酒をあおっていた。空になったジョッキを給仕のねーちゃんに渡して、次のを注いでくるよう頼む。彼女は心底あきれた顔でこちらを見ていたが……俺にとっては、もうどうでもよかった。
結果だけ言おう。
殺人犯ハロウ・オーリンは見つからなかった。
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