Chapter 07【二日目】

新聞記者ニールⅠ

 バッシャン!

 水が盛大に跳ねる音に、俺はいけねと眉を寄せた。

 左手に手帳を、右手にペンを――左右の手に握りしめた仕事道具から顔を上げて、足元に目を向ける。


「おわっ……あーあ、ずぶぬれだよ」


 水たまりに思いっ切り、足を突っ込ませてしまった。靴下に染みるひゃっこさに、ため息がこぼれる。靴はもちろん、ズボンの裾までぐっしょりとぬれて、黒い染みを広げていた。


 頭のなかで、叱責を飛ばす母親の声がする。『まったく、あんたって子はどうしてそう危なっかしいんだい! 道を歩きながら仕事をするのはやめてくれと、あたしがいつも口酸っぱくいっているだろうに……!』と。


(そんなこと言ったって、俺は昔からこうなんだ)


 唇をとがらせて、心のうちで言い返す。


(なにかに熱中しちまうと、てんでまわりが見えなくなるというか、なんというか……)


 決まりの悪さから逃れるように、俺は視線を空へと向けた。薄暗い小路の、建物の合間から見上げる空は窮屈で狭い。が、天気がよく晴れている様子はうかがえる。


 昨日の夕方から降った雨は、今日の朝方にはすっかり上がってしまった。午後となったいまは、千切れた薄灰色の雲が漂うだけである。


(地上では絶え間なく人が行きかい、あくせくと身を粉にして労働に従事しているってのによぉ)


 まぶしいわけじゃないが、俺はまぶたをほそめた。ゆっくり空を流れていく千切れ雲が、なんだか急にうらやましく思えたのだ。


 昔、母親がよく空を指さして俺に言った。俺がとおになるかならないかの時に、父親が病気でなくなっているのだが……その死んだ魂は、いつまでも空から自分たちを見守ってくれているらしい。


(ハァ、自由気ままでいいこった)


 歩き疲れたこともある。小路のなかで立ち止まったまま、俺はしばし空を眺めていた。


 ――このウォルタの街は、運河の街である。

 南方の海へと下る、緩やかな流れの大河。そんな河に大橋を架けようと……その昔、地方を治める偉い人が計画を立ち上げたのが発端であった。


 祖父の代の話だ。治水、土木、建築と、多くの人が橋造りに携わっていく過程で、近隣に集落が生まれた。他方から流れ着いた人々が寄り添う形で、やがて街へと発展していったのである。

 大橋造りに携わった祖父の代からずーっと、家族はウォルタの街に住み続けている。無論、俺も……生まれも育ちも、こんにちに至るまで、この運河の街のなかで暮らしてきた。


(祖父にならって、親父も石材を扱う仕事に就いた。ゆくゆくは俺にも、おなじような道をたどってほしいと期待していたようだが……)

 

 すり減った石畳は、道のあちこちで水たまりをつくっている。水はけの悪さに、年月の流れを感じた。これから先の生活のために、街を修繕する仕事人しごとにんを人々は必要とし出すだろう。


 ほんのりと心に落ちる影に、俺は見て見ぬ振りをする。誰に向けるわけでもなく舌打ちして、愛用のハンチング帽を深くかぶり直した。

 みっともなくぬれてしまった片足を軽く振る。雑に水気を払ったのち、立ち止まっていた歩みを再開させた。


 時刻は午後。空のてっぺんに上った太陽が、やや西向きに傾きはじめた頃だ。

 今日は朝から忙しかった。俺はさっきまで、街の中通りにある例の事件現場・・・・・・の周辺をずっとうろついていたのだ。


 昼飯もビスケットだけで済まし、聞き込みを続けていた。ひとしきり情報を集めて、手帳にせっせとまとめ出してから――記憶が途中で飛んでいる。


(それほど夢中になっていたってわけだ。なにせ、俺がこれまで取り扱ってきたなかでも……最大級の事件だからな!)


 手帳に書き込むのに夢中になっていても、俺の足はきちんと自分の巣へと向かっていた。帰巣本能きそうほんのうというやつだ。このまま小路を進んでいけば、運河沿いの通りに出くわす――そうすれば、英雄のご帰還は間もなくだ。

 

 センチメンタルな気持ちが一瞬で吹き飛ぶ。許せ親父よ、じいさんよ……それからお袋も。不出来な息子だが、俺にはやらねばらならいことがあるのだ。


「今度こそ俺の書いた記事で、新聞の表一面をドカンと飾ってやるんだ! さぁ急げよ、俺。一刻も早く社に戻って、事件のことを報告しないとなぁ!」


 高ぶる気持ちに合わせて、勇みよく前へ足が出る。俺は足早に進んで、狭い小路を抜けようとした。

 もちろん、仕事道具である手帳の上にペンを走らせながら。じつはさっきから、いまひとつ記事のタイトルが決まらないのである。


「……えーっと、どうするかな。雨降る一夜の惨劇……いや、平和な街に訪れた恐ろしき悪夢……うーむ、もっとインパクト重視で――」


 小路を抜けた、その時だった。左手から走ってくる小さな影に気づかず、俺は人とぶつかってしまった。


「あだッ!」

「わっぷ!」


 衝突したのは、十代半ばの少年であった。俺のほうが体格のある大人だったため、こちらのダメージは少ない。ただ、少年のほうは跳ね飛ばされて、地面に尻餅をつく。


「あっ……ああ、わりぃな坊主」

「イタタ……コラ、おっさん! いきなり角から飛び出してくんなよな!」


 不注意で、ぶつかってしまったことは謝る。だがしかし「お、おっさんだってぇ?」聞き捨てならない言葉に、俺は口端をひくつかせた。


「うぉい、誰がおっさんだ! 俺はまだ二十六だ。ガキとはいえ、おっさん呼ばわりされるいわれはねぇよ」


 大人げないかもしれないが、俺は威勢よく啖呵たんかを切った。……だが、当の少年はそんな俺のことなぞ見向きもせず、地面を見まわして「あー、くそッ!」と悪態をつく。


 間を置いて、俺は気づいた。地面にはらはらと、複数枚の紙が散らばっていることに。

 どうやらぶつかった時に、ばらまいてしまったらしい。少年はぶつぶつ文句を言いながら、地面の紙を拾いはじめた。


「大事な商品なのに……ったく、汚れたらどうすんだよ」

「…………」


 握っていたペンを、いったん手帳と一緒に片手に収める。俺もしゃがんで、すぐ手前に落ちていた紙を拾い、見つめた。

 最初はなにかのチラシかと思った……が、これは新聞である。そこに書かれていた内容を目にした俺は「げっ」とうめいた。


「昼間に刷られたばかりの号外だよ。もっとも、こいつは追加分で、これからまた配りにいかなきゃならないんだ」


 ぶつかった少年は、新聞配りの仕事をしていたようだ。彼の言うとおり、紙面に鼻を近づければ刷りたてのインクの臭いがする。すっかりかぎ慣れた臭いに心が落ち着く……いや、そんなことはどうだっていい。


(問題は、この記事の内容だ)


 見事に先を越されてしまった。

 まさか、俺が今朝からずーっと張りついて得た情報と、まったくおなじことが書かれているとは思うまい。昼間に見る悪夢とは、このことか……。


「すっげぇだろ、殺人事件だぜ?」


 さっきまで無愛想に悪態をついていた少年が、急にニヤニヤと興奮した口調で話しはじめた。


「すぐ近くの通りの建物でさ、人が殺されたんだよ」


「…………」


「しかも、殺された男っていうのが……ここ最近、新聞でよく名前が載るような有名人でさ。オレも最初、記事を見た時は本当にびびっちゃったね」


 そのドデカいタイトルは、紙面のほぼ半分を埋めていた。


『名探偵、死す! ギル・フォックス氏、昨夜遺体で発見! 奪われた真実の両眼はいずこに?』


 ざっと細かな文章に目を通してから、俺は記事の最後に刻まれた記者の名前を確認する。憎きクソ野郎の名に口元が引きつり、手で紙の端を握り潰した。


「さすが、早さ自慢のスパロウ新聞社だよ。いの一番で配りだしたから、もう飛ぶように売れちゃってね。あっ……なぁ、おっさんもどう? 一枚買っていかねぇ?」


 新聞売りの少年が、顔をのぞき込んでくる。俺はなにも言わずに、手にしている一枚を律儀に――四つ折りにして手渡してやった。


「わっ! なにすんだよ、おっさん!」

「おっさん――じゃなくて、お兄さんと呼びなさい。こいつは、便所紙にでも使うといい」


 膝を伸ばして、俺は立ち上がる。そのままきびすを返すと、少年が慌てて、俺のコートの裾をつかもうとした。

 それを軽くけてから「お金の代わりに、お兄さんがもっといいもんくれてやる」と言ってやった。


「いいもの?」

「ああ、そうだ」


 ハンチング帽をツバを軽く上げて、にやっと笑う。そのまま帽子を取って顔を見せ、ぼさぼさの黒髪に風を通した。


「こんな三文記事よりも、もっと上等なネタをつかんでやるよ。それこそ誰もが夢中になって読むような、新聞記事を書いてやる……そしたら、こいつの十倍は儲けさせてやるぜ?」


 片手にペンと手帳を握りしめたまま、俺は再びハンチング帽をかぶり直す。心持ち、かっこよく見えるようツバの位置を整え、表情もきりっと引きしめる。


「いいか、覚えておけよ俺の名を。この新聞記者ニール・ブリッジさんの名を、な」


 名乗るなり、俺は「じゃあな」とその場を後にした。

 雨上がりの湿った地面も、徐々に乾いてくるだろう。水たまりを避けつつ、俺は自分の巣――スパロウ新聞社へと急いだ。

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