真夜中の悪夢

『いますぐ、この場から消え失せろ。この――ヘリオス探偵事務所に、おまえの居場所はない』


『ひどすぎる、追放だなんて……がんばっていたんだ、僕なりに!』


『――なら、ここにいる連中にも聞こうか?』


『く、くるしっ……!』


『悪いが、俺はおまえのような負け犬と馴れ合うつもりはない』


 賞賛、名声、金や地位に権力――いまわしい人生すべてをひっくり返せる力!

 それらの見返りを期待して、俺は探偵の道を選んだんだ。

 ……だったら、不要な芽は間引かないとな。



 * * *



 ――かくして、僕はヘリオス探偵事務所から追放された。


 雨の降る街なかを、逃げるように走っていく。差す傘などなく、全身びしょぬれになって無心に足を動かした。


 外を歩く者はほとんど見かけない。仮にいたとしても誰も僕のことなんか気に留めやしないだろう。僕のほうも、誰の目も気にしないで済んだから好都合であった。


 どれくらい走ったことだろう。息が苦しくなりはじめて、もう十分だろうと考えた頃には、すでに足の歩みは自然とゆるくなっていった。


 小さく息を吐く。べったり額についた前髪を横に分けて、水滴だらけの眼鏡を顔から外した。


「…………」


 軽く水を払って、顔につけ直す。また水滴がたまる前に、僕はくるりと背後を振り返った。

 ただまっすぐ中通りを走ってきただけなのだが、二階建ての事務所はすっかり闇夜の向こうへ溶けてしまっている。


(……まずまず、うまくやったほうだと思いたい)


 しばらく雨に打たれるままに、暗がりの向こうを眺めていた。眉間から鼻の脇を伝って、一筋の雨粒が垂れ落ちる。ぶわりと風が吹いたと思えば、背後から一台の馬車が僕のかたわらを通り過ぎていった。


 馬車の後ろ姿を見て、僕はギクリと肩を震わせる。さすがに、まだ所長は帰ってこない時間帯だとは思う。ただ万が一のことを考えて、僕はすぐに近くの小路へ身を滑らせた。


「…………」


 頭や服だけじゃない、靴のなかもぐっしょりだ。小路を進み、地面に足を下ろすたびに靴の内側で水がジャブジャブと音を鳴らす。


 ……落ち込んではいる。結果はうまくいったが、あまりにもぐだぐだな終わり方であったから。それから、誰も追いかけてくれなかったことに、僕というやつはショックを覚えているらしい。


(そのほうが都合はいいんだけれど……でも、せめて――)


 途中まで考えて、やるせなく首を振る――僕もずいぶん、弱々しくなったものだ。


 ひとり歩きながら、鼻で笑う。たしかにやつの言うとおりだ……『環境に甘んじていたせい』なのだろう。


 居心地がよかったのは認めよう。

 僕は満足していた。ここ四カ月間、ヘリオス探偵事務所の仲間たちと過ごした日々は、それこそ夢のような時間で……僕の暗い人生を省みれば、絶対に許されるものではない。


「……ハハッ」


 乾いた笑いが出た。

 左手を力いっぱい、ぎゅっと握りしめる。


 とかく僕の役目は終わった。言うとおりに行動してやった、後はやつがうまく事を進めるだけである。


(次の指示が出るまで、僕は静かに……待機しているだけか)


 住居にしている、古びたアパートメントの前まで無事たどりついた。さびが目立つ門をそっと開けて、借りている部屋までそそくさと移動する。


 冬場はごめんだが、たまに雨に打たれるのも気持ちがいいものだ。びしょぬれのまま、鍵をまわして部屋のなかへ入り込む。ぬれた体を雑に拭いて、着替えを済ました。紅茶色の髪だけが生乾きの状態であった。


 冷えた体と、おそらく緊張の糸が抜けたせいだろう……急に、ひどく重たい眠気に襲われる。徹夜の疲労が残っているせいもあった。睡魔すいまの重力に引かれるままに、僕は夕食のパンも食べず、安いベッドの上に倒れ込んだ。


 部屋にいるのは、僕ひとりだけ。

 ガラスの窓に打ちつける雨音のリズムが、静かな呼吸と重なり合って……僕の意識は、すぐに夢の世界へといざなわれた。



 * * *



 ……足元に、赤いサルビアの花たちが咲く。


 奇妙に、斜めに傾いた風景が見える。木造の室内だ。視界がぼんやりしていてよくわからないが、祭壇のような物の前で誰かがお祈りをしていた。


 黒い司祭のローブをまとった男の人――彼はゆっくり振り返って、僕のほうを見やる。口元がゆがんで、穏やかにほほ笑んだようであった。


『ハロウは、とてもいい子ですね』


 伸びた手が優しく、僕の紅茶色の頭をなでる。

 背丈が縮んだ僕は、顔を少し上へ向けた。ゆらゆらと波打つブロンドの髪が正面から近づいてきて、僕の顔にかぶさった。


 額に口づけを――視界の端で、光を吸い込んだ彼のブロンドの髪がきらめく。そのさまを見て、僕はうっとりと何度でもこう思うのだ。


(あの人のためなら、僕は――)


 しかし、彼の手は僕を選んではくれなかった。


 世界が黒一色に染まる。闇夜とはちがう、まるで狭い箱のなかに閉じ込められてしまったような、真っ黒な世界……。

 ぶすぶすと、あちこちで赤い光の点がつく。いくつもの赤い点たちがしだいに固まり出して……僕は顔を引きつらせた。


(やめろ――!)


 真っ赤な炎が燃え上がる。


 瞬間、黒い世界の幕ががれて、外の景色に放り出された。そこは明るい夜の風景――芝の高台の上に建つ、納屋なやが燃えている。煙と赤い炎を踊らせて、激しく燃え上がっているのだ。


(ちがうちがう! こんなはずじゃ……こんなはずじゃなかったんだ!)


 嘆いている場合ではない。

 僕は地面を蹴った。芝の土をえぐりながら、坂を上って高台の納屋を目指す。視界いっぱいに、納屋の扉が迫った。無我夢中で腕を伸ばして、扉の鉄の取っ手を思い切りつかんだ。


 幼い僕は悲鳴を上げた。

 左手に、焼けつくような痛みが走――。



 * * *



 ――ドンドンドンッ!


 激しく物を打つ音に、僕は目を覚ました。


「……?」


 体が重い、頭がぼーっとする。ベッドの上で仰向け状態の僕が半分だけまぶたを開いてみると、ペンキの塗られていない天井しか見えなかった。


 少しばかり視点を動かす。左手に、ガラスの窓が見えた。べったりと外側が雨水に濡れている様子から考えるに、先程の激しい音は雷だったのだろうか……。


 ――バリバリッ!


「……!」

 

 より激しい音とともに、部屋の空気までもが震える。ドアをぶち破るような轟音に、今度こそ僕は雷だと確信した。どうやら眠りこけている合間、外は大嵐になっていたようだ。


 寝たままの体勢で、僕はのっそり腕を動かして自身の髪に触れる。


(髪はまだ湿っている。まだ夜更けであるのは確かなようだが、いったい何時ごろだろう……?)


 ベッドの上でぼんやりまばたきをくり返していると、バタバタ騒々しい足音が聞こえてきた。床からベッドへ伝わった振動から察するに、まるで数人が僕の住まいへ踏み入れたような――。


 この時になって、僕はようやく異様な空気に気づいた。

 がばりと、上半身を起こす。幸い、眼鏡をつけたままにしていたおかげで、すぐに暗がりのなかをうかがうことができた。


 いつしか、僕のまわりを複数の人間が取り囲んでいる。ざっと五人ほど、おかげで部屋が窮屈きゅうくつだ。さらにその後ろで物が動く音から、もっと人数がいるのかもしれないが。

 

「…………」


 ランプがなくたって、夜目よめでわかる。相手は――守衛だ。ウォルタの街の守衛が数人、どうしてか僕の部屋にドアを破って侵入し、ベッドのまわりを囲んでいる。


 そのなかの一人が前に出た。相手は昼間にお世話になったばかりの守衛さん――オルソー・ブラックであった。


「ハロウ・オーリンだな」


 低音で名を問われて、僕は素直に「そうです……」と答えた。

 せめてベッドから足を下ろしたかったのだが、身じろぎしただけで厳しい声で制される。あまつ、サーベルの切っ先を眼前に突きつけられて、僕はひっと小さく悲鳴を上げた。


 どうやら、僕は悪夢の続きを見ているらしい。

 そうでなければ、こんな異様な事態の説明がつかない。守衛が取り出した縄を見て、僕は息をのんだ。


「ハロウ・オーリン。ギル・フォックスの殺害の件で、貴様を捕縛する」


 ああ、悪い夢なら覚めてくれ!

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