幕が上がる前に

「ハロウさん?」


 さて、なんて返事をしようか。返す言葉を考えるも、いまさらつくろうのも馬鹿らしい気がして……半開きの口のまま、無意識に左手をさする。


 すると、背後からシトラスが僕の脇をすり抜けていった。


「……そうね、そのほうがいいとわたしも思います」


 すれ違いざまに、彼女がささやいた。


 シトラス・リーフウッドは僕の前へ出ると、先に階段を下りていった。彼女の頭はうつむいたままで、僕と目を合わせるそぶりすら見せない。


 ただ代わりに一瞬だけ……彼女が僕の脇を抜けたその瞬間だけ――視界の端で、線の細い横顔を捉えた。


 まぶたの切れ目からのぞく瞳は、ひどくうつろで沈んだ色をしていた。


 僕は思わず息をのむ。いつもの、親切で朗らかに笑う秘書の姿はそこにいなかった。

 僕のまったく知らない、彼女の一面が浮上ふじょうしているようだが……はて、どこかで見覚えのあるような気がする。


「あなたは探偵などにはならずに、もっと普通の生き方を……どこか静かな土地でひっそり暮らすほうがいいでしょう」


 シトラスの言葉に半分耳を傾けながら、一方で頭のなかの記憶を巡らせる。


(虚ろな瞳……どこだったか……)


 そうだ、教会だ。

 今朝、僕はロイと一緒に、街の教会へおもむいて集会に参加した。その時に、祭壇へ祈りをささげる彼女の姿を目にしたのだ――。


(ああ、あの時の顔つきだ……)


 記憶の顔と重ね合わせてみようと、僕は目線を動かした。しかし、すでにシトラスの姿は、視界の位置から見えなくなっていた。


 階下からは、歌うような声が続く。


「とても地味で平凡で、でもこのレンガだらけの街よりもずっと豊かな緑に囲まれた場所で、ささやかな人助けをしながら生きていく……それが、気の優しいあなたにはお似合いですよ」


 だから、卑下ひげするのはよしなさい。

 段差を下りる足音とともに、彼女は告げた。


「気弱にならないで。人に追従することばかりを考えるのは、楽な生き方です。……だけど、最後は必ず己の身を滅ぼしてしまうでしょう。ていよく扱われて、ね」


 まるで、地の底から聞こえてくるようだ。

 話し声はとてもやわらかく優しいのに……どうしてだろう。僕の手足から体の内側にあるに至るまで、ぞっと冷えていた。


 彼女の言葉がリフレインする。散らばった短い単語に誘われてか、僕の脳裏は鮮やか赤色に染まった。


 赤い、赤いサルビアの花。


 風にゆれる花たちを、じっと眺めているのが好きだった。

 続くように、幼少の頃より過ごしてきた孤児院の思い出の数々に――僕の左手の内に残る赤い跡が、命の脈を打つようにうずく。


「…………」


 シトラスの足音が消えた。

 それから、僕もようやく動きはじめる。


(なにをぼんやりと……過ぎ去った古い記憶に浸っているのだろうか、僕は) 


 コツ、コツ、コツ……。一段、一段、階段を下りるたびにゆれる体に合わせて、重い息を吐きたくなった。


(彼女がいけないんだ、急に妙なことを言い出すから……)


 階段が鳴る度に、シトラスの言葉がぶり返す。

 僕は一度、角の踊り場で歩みを止めてから、大きく深呼吸した。ついでに、自身の紅茶色の髪をかき乱す。


 再び、残りの段差を下りはじめる。心持ち足音を大きく鳴らして、彼女の一連の奇怪な言動を忘れるように上塗りしていった。


(たぶん、あれはそう……愛想を尽かされたんだな)


 あまりにも僕が仕事にやる気を見せないから。

 後ろ向きな発言ばかりを口にするから……と、雑に解釈して、無理やり納得することにした。


 一階の廊下からは、すでに彼女の姿はなくなっていた。その背を追いかける理由もなかったため、僕は階段のふもとで立ち止まる。ズボンのポケットからゆるりと懐中時計を出した。


 時計の針は、ほとんど夜の七時を指しかけている。

 早く談話室に向かわねば。そう分かっていても、廊下を進む僕の足取りはやっぱり重くなってしまった。


「今日はなんだか、ひどく疲れた一日だったな……」


 僕は、ひとりごちた。

 所長室でのひと時を除けば、人に振りまわされまくった大変な一日だったとも言えよう。

 だが、これからもっとややこしいことがはじまるのだ。


「……あーもう、好きなだけため息をつきたい」


 ぶつくさ言いつつも、僕は廊下を進む。玄関の所までやってくると、談話室の扉はもう目の前である。

 赤色の木の両扉から――何人かの声が聞こえてきた。


「そろそろ、劇がはじまる頃合いね」


 メイラ・リトルの声だ。


「所長、楽しんでいるかしら。演目がおもしろかったら、アタシも今度劇場まで足を運んでみようかしらねぇ。一流の探偵を目指すなら、ちゃんと文化的教養も磨かなくっちゃ」


 普段文句ばかり言っている彼女だが、向上心は人一倍強い。勝ち気な態度も、視点を変えれば正直で情熱的な性格と評せるだろう。


 ギルほどの名声とまでは言わないが、彼女にもその努力に値する、なにかしらの報いがあってほしいと僕は切に願う。……でないと、この先彼女はずーっと不機嫌で口うるさい人間のままだ。


「ね、ね、今度さ。所長にお願いしてつれていってもらいましょうよ。事務所のみんなで一緒にね」


 今度はマリーナ・リトルの声が聞こえる。


「依頼もずいぶん増えて、事務所の看板もだいぶ大きくなったのよ? たまのご褒美ほうびがあってもいいんじゃないかしら」


 甘えるような、猫なで声。すぐさま姉のメイラに厳しくたしなめられるも、無邪気な彼女はさらっと流した。


 可憐な見た目と、ぱっと明るい性格は、相手が気難しい依頼人であろうとおもしろいように会話を弾ませてしまう。ただ少女らしさが残る顔の裏で、自分の利はちゃっかりつかもうとする抜け目のない子でもあるということを僕は知っている。


「それはすばらしい提案だ、マリーナ」


 すぐさま横からほめ立てたのは、おなじみシルバー・ロードラインだ。


「だが、誘う人選を間違えているぜ。演劇だろ? だったら、もっと芸術のわかるようなセンスのある人と一緒に行かなくちゃな。たとえばそう、このオレとか――」


 アピールしては袖にされるのが、いつもの流れだ。よくもまぁ飽きないとは思うが、気取り屋の彼の純朴じゅんぼくな一面ははたから見ていておもしろい。


 こんなひょうきんの彼だが、根はまじめで仕事はそつなくこなすほうだ。ほかにもわざとなのか、それとも素なのか、きざったらしい言動で相手を自分のペースに巻き込むという特技もあったりする。


「演劇かぁ。うーん……」


 シルバーが姉妹につつかれているよそで、ロイ・ブラウニーがうなり声を上げる。


「ずっと席に座っていなきゃいけないなんて、すっごく退屈だろうな。どうしてみんな、そんなに見世物が好きなんだろう」


 彼は僕とおなじ、見習い探偵だ。十三歳という、年相応のあどけなさを持つ少年であるが、勘の鋭さは大人負けだと僕は睨んでいる。


 時々空気が読めないというか、好奇心が危機感よりもまさってしまう欠点はあるものの、探偵としての素質は十分に備わっている。きっと僕よりも彼のほうが先に見習いを卒業するはずだ、その時は心からお祝いしよう。


「まあ、ロイくんたら。ハムサンドばっかり食べて」


 ……シトラス・リーフウッドの声だ。


「野菜サンドのほうもバランスよく食べてくださいな。好き嫌いはいけませんよ。ああそれと、お茶のおかわりが必要な方は遠慮なくおっしゃってくださいね」


 さっき階段で見せた態度とは打って変わって、いつもどおりの優しい秘書の声色をしている。

 僕はほっとした。そうだ、これがいつものあるべき彼女なのだ。さっきの会話は忘れてしまうことにしよう、そうしよう。


「そろそろ七時になるぞ。ギルはどうした、やつはまだ帰ってこないのか?」


 低い声はゴート・イラクサのものだ。


「時間になっても姿を現さなければ、俺は席を立たせてもらおう。あいにく、こちらは暇ではないのだからな。目を通しておきたい資料もあることだし……」


 彼は周囲と馴染まない、まさに一匹狼。僕の見立てが正しいのなら、彼は探偵として、名探偵ヘリオス・トーチとおなじ道を志しているはずだ。強面の裏で正義感の炎を秘めていたとは意外であったが、誰よりも実直な彼のことだ、すぐにでも自分の夢を叶えてしまうだろう。


 となれば事務所内で一番、所長のお眼鏡に適う人物になるというわけだ。……そういった点から考えると、僕はちょっとばかし悔しく思った。


 談話室と玄関。

 その中間地点に、僕はひとり立っていた。もう時計を見なくたって、約束の時間が迫っていることはわかっている。


 談話室に入る前に、僕はもう一度、あるものに目を通しておこうと考えた。そいつがしまってあるベストの胸ポケットに、そろそろと指をつっ込む。

 

(……ん?)


 角張かくばった感触に、眉を寄せた。すっかり忘れていたことなのだが――胸ポケットのなかには鍵が入っていた。


(事務所の予備の鍵……所長に返し忘れてしまったな)


 まぁいい。それは後で、なんとかしてもらうことにしよう。 僕はポケットのなかから、鍵とは別に紙を取り出した。それは一枚の紙を小さく折り畳んだものだ。


 さる人物から手渡された、大事なメモである。


 紙を開く前、僕はもう一度談話室の扉に目をやった。念を入れて、誰もやって来ないことを確認してから、僕はその紙を開いた――。


 が、瞬間、別方向の扉が音を鳴らす。


「!」


 反射的に、僕は持っていた紙をぐしゃりと握り潰した。手を背中にまわし、音のした玄関のほうへばっと振り向けば、冷えた雨と風が勢いよく顔にかかる。


 薄暗い廊下よりも、玄関の外のほうが外灯のふもととあって明るい。目を細めた視界に、玄関の扉を開けた人物のシルエットが映った。


 誰が現れたのか……顔を見なくたってわかっている。


「ギル……」


 ヘリオス探偵事務所一の花形、名探偵ギル・フォックスがそこにいた。

 玄関の扉を片手で支えたまま、彼は僕の顔を見るなり――ニヤリ、と妖しく笑うのであった。

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