Chapter 05

探偵事務所の所長さんⅠ

 腹をくくって、僕は目の前のドアをノックした。

 軽く握りしめた手を下ろす前に、なかから声が聞こえてくる。


「ハロウくんだね、どうぞ」


 ドアの向こうから、穏やかで優しい声が僕を呼ぶ。だのに、ドアノブをつかむ僕の手は変に緊張してしまって、かぼそく震えていた。

 ひと息吸って、僕は「失礼します」と返事をした。そして、ここヘリオス探偵事務所の二階奥――所長室のドアをそっと開く。


 時刻は、間もなく夕方の六時を迎える。さっき懐中時計で時間を確認したから、間違いはない。それにしても時の流れの早いこと……昼間に起きた街の広場での騒動が、なんだか遠い昔のように感じた。


 手入れの届いた蝶番ちょうつがいは、音も鳴らさない。ドアを開けて真っ先に目に入るのが、部屋の奥に構える大きなデスクだ。所長の仕事机である。


 その大きな椅子に、あの人はいつも座っていた。しかし、今日に限って椅子の上は空っぽだ。所長の姿がどこにも見当たらない……。

 

「こっちだよ、ハロウくん」

「!」


 在らぬ方向から飛んできた声に、僕はびくりと肩を跳ねさせてしまった。

 

 所長は、やっぱり部屋のなかにいた。

 部屋の左手に当たる、応接用の低い卓を挟んだ一対のソファの片側に、彼は優雅に腰を下ろしていた。

 ドア元に突っ立っている僕に向かって、所長は朗らかな顔で手を招く。僕は気恥ずかしさから少しうつむいて、こそこそなかに入ると……そっとドアを閉めた。


「そんなに緊張することはないよ。まぁ、気楽にかけたまえ」

「は、はい……」


 促されて、僕は対面のソファに腰を下ろした。

 革張りのソファの手触りがいいこと……中古で手に入れて自己流で補修したのだと、過去に所長が自慢していたが、まったく古びた雰囲気がない。


(突然の呼び出しだけれど、いったい所長は僕になんの用があるのだろうか……?)


 そわそわと体をゆすっていると、所長にくすりと笑われた。細めた目尻の柔らかな小じわに、僕の気は余計に乱される。

 気を引きしめる意味合いも込めて、僕は呼び出された理由を探して必死に頭のなかを巡らせた。先の報告に抜けている部分でもあったのだろうかと――いま現在に至る経緯を振り返る。


 時をさかのぼること、今日の昼過ぎ。

 広場での騒動の後、僕はほかの四人と一緒に事務所へ戻ろうとしていた。


 メンバーは女探偵のメイラ・リトル。その妹のマリーナ・リトル。キザったらしい男のシルバー・ロードラインに……僕とおなじ見習い探偵のロイ・ブラウニー少年だ。


(他愛のない会話だったんだ。それなのに、僕がひとり勝手にモヤモヤして、つい変に感情を表に出してしまった――)


 振り返っても、苦い記憶だ。

 つまらない愚痴に憤慨した僕は、買い物袋をシルバーに押しつけて、彼らと別れた。そのままひとり、街のなかへ消えていって……。

 

 ちょっとした野暮用やぼようを終わらせてから、僕はヘリオス探偵事務所へ帰ってきた。その時の時間は、午後の二時くらいだったと思う。

 事務所で真っ先に僕を出迎えてくれたのは、秘書のシトラス・リーフウッドであった。


(彼女には悪いことをしてしまったな、余計な心配ばかりかけて……。それから二人で、昼間の経緯を所長に報告しにいったんだっけ)


 事務所にいた所長の耳に、すでにおおかたの話は伝わっていた。先に帰っていたロイたちから、事情をよく聞いていたらしい。

 ひとまず今回の件については、後日改めて事務所の人間全員を集め、話し合う方向で決まった。要するに現状保留ということだ。


(その後は普通に、たまっていた事務仕事を続けて、それで――)


 カチャン。

 と、澄んだ音が耳をかすめる。

 はっと、僕は顔を上げた。見れば、目の前の卓の上に、皿つきのティーカップが置かれたところであった。


「ハーブティーだ」


 いつの間にか席を立っていた所長が、僕の横からにっこり笑って言った。


「もっともれたてではなく、先程シトラスくんが用意してくれたポットのなかのものだけれど……それでも、まだ温かいと思うよ。さっ、召し上がってくれ」


 僕がひとり悶々もんもんと記憶を巡らせている間に、わざわざ淹れてくださったようだ。まだひと口も飲んでもいないのに、僕の顔が熱くなる。


「あ、いえ……お、お気づかいさせてしまって……」


 言葉がこんがらがる。所長は再び正面のソファに腰かけながら「なに、君を急に呼び出してしまったのは私のほうだ」とご謙遜けんそんされた。


「こちらこそ、仕事中にすまなかったね」


 デュバン・ナイトハート。

 それが、僕の目の前にいる――ヘリオス探偵事務所の、所長の名である。


 年齢は四十の手前だというのに、すでに落ち着いた初老のような雰囲気を漂わせている。ぐっと年上の、とても穏やかな紳士ジェントルマンというのが、僕のいだく印象だ。


 白髪まじりの薄いブロンドヘアを背中まで伸ばし、白い陶器の細工が施されたバレッタで一つに束ねている。あごにはおなじ色をしたヒゲをたくわえ、張りのきいたジャケットを着こなすさまは、まさに紳士の装いといえよう。


 事務所の人間をまとめ上げる重要なポジションについていながらも、けして僕らに威圧的な態度は取らない。老いも若きも男も女も、誰へだてなく親切に接する――常に穏やかな雰囲気をまとった不思議なお人なのである


 僕は小さく「いただきます」と口にしてから、カップに手を伸ばした。薄いアメ色をした温かいお茶で冷えた唇をぬらせば……なるほど、スンとさわやかな香りと味わいが口のなかに広がった。


「それで所長。お話とはなんでしょう」


 やはり昼間の件についてでしょうか。僕が尋ねると、所長は朗らかな表情をすっと潜ませ、形の整った眉を申し訳なさそうに寄せた。


「大方、全員の話は聞かせてもらったよ。その上で、ぜひとも君の意見をうかがいたくてね」


「僕のですか?」


「そう……というのも、どうにもこの事務所全体によくない空気が漂いはじめているような気がするんだ。ま、私の口からはっきり言わなくとも、誰しもが感じ取っているとは思うがね」


 事務所に漂う、よからぬ空気。

 それはもちろん、ギル・フォックスへの不満と嫉妬心しっとしんのことだ。


 ふと僕は、テーブルの脇へ目を向けた。縦に丸まった、読みかけの新聞が置いてある。きっと僕が部屋に来る前に、デュバン所長が読んでいたものだろう。


「今朝の新聞、所長もお読みになったのですか?」

「ああ、これかい」


 そう言って、所長は新聞へ手を伸ばし、僕の前に広げてくれた。でかでかと飾られたギルの名前に、お高くとまった宣伝文句……見たことのある紙面だと思ったら、今朝方ロイが買ったものとおなじである。


「もちろんさ。なんたって、我がヘリオス探偵事務所のメンバーの活躍が書かれているのだからね。後で記事を切り抜いて、丁重に保管しようと思っているくらいだ」


 所長の顔が、わかりやすく明るくなった。白い歯を見せて笑う様子は、いっそ子どものような無邪気さを感じる。


「ギルくんの活躍は、じつにすばらしい。彼はどんな卑劣ひれつな犯罪を前にしても、けしてひるまず、立ち向かう勇気がある」


「ええ、まぁ……度胸だけは認めます」


「所長の私が言うのも難だが、正直この事務所は彼の存在に助けられている部分がある。まさに、彼はこのヘリオス探偵事務所にとって輝ける一等星だよ」


 所長は感嘆の息をこぼした。そのギルの活躍こそが、事務所に不穏な空気をもたらしている原因だというのに……どこまでも純粋なお人である。


「これほどの名声は、かつての名探偵ヘリオス以上と言っても過言ではないだろう。もっとも、ヘリオスが活躍した時代では、まだこうして大衆向けの情報媒体じょうほうばいたいはないに等しかったがね。

 あの頃、新聞に書かれることと言えば、重々しい国の情勢や、隣国との争いの話ばかりだった……」


「しかし、光あればなんとやらです」


 遠い過去に浸ろうとする所長には悪いが、僕が先に事の本題を口にした。


「ギルの名が売れたおかげで、依頼の手紙は増えました。ところがどの手紙にも決まって『名探偵ギル・フォックスへ』とあて名が記されています。

 これでは自分たちに上客がまわってこないと、ほかの探偵たちが不満を抱くのも仕方ないでしょう」


「……ああ、そうなんだ。まったく、そうなのだよ」


 感嘆の吐息は、すぐにため息と変わった。それでも目の色は穏やかなまま、デュバン所長は向かいに座る僕を見つめると、ふっと苦笑った。


「己のふがいなさを痛感するよ。この私にもう少し、人をまとめる資質があれば……」


「いいえ、所長のせいじゃありませんよ。現に所長は僕たちに十分すぎるくらいよくしてくれています」


 僕は昼間のロイたちの愚痴を思い出した。みんな、所長に才を見込まれ、拾われたからいまがあるのだ。やっぱり彼らのほうが少しばかり図々しいのだと、心のうちでうなずいた。


「嫉妬する彼らの気持ちもわかりますが……彼らにだって、もっとひたむきに努力する必要があると思います。……まぁ、見習いの僕が大層なことを言える立場じゃないんですが」


「いいや、ハロウくん。若いうちはそれでいいんだ」


 所長は僕にこうおっしゃった。「若いうちは、うんと嫉妬してほしい。時に投げやりになって、くさくさした気持ちになって……それがのちに人を成長させる豊かな土壌どじょうになるのだよ」と。


「でも、芽が潰されては元も子もない」

「芽が……」

「そう芽だよ。だからなんとか上手い手を考えて、彼らの情熱と意欲を救いたいのだが……」


 もう一度、僕はティーカップの中身をすすった。

 同時に、メイラ・リトルの言葉を思い出す。


『人がよすぎるのよ、うちの所長は。いつか絶対に誰かにだまされるタイプだわ』


 ぬるくなった液体を喉に流して、僕は息を吐いた。


(そんな甘いところが、逆に人を惹きつけるのかもな)


 ギルとはちがうベクトルのカリスマ性というものを、このデュバン・ナイトハートという男は持っている。


(見放せないというか、こちらから手を差し伸べたくなるような……)


 反射的に、僕は左手の内側をさすった。

 似ているのだ。記憶の底にいまもなお影を落とす、さる人の輪郭と――。


「ところで、君はどうなんだい?」

「えっ」

「君は、嫉妬しないのかな――」


 名探偵ギル・フォックスの栄光に。


 まっすぐな目で問われた。逸らすことのできない妙に強い眼差しだったけれど、僕はどうしてか臆することはなかった。


 というのも、質問が質問だからだ。

 僕はすんなりと――静かに首を振った。

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