名探偵ギル・フォックス登場
馬車から下りて、ギルは広場を見渡した。さなか、当然脇にいた僕とも目が合う。
「…………」
さっと顔をそらされたけれど、彼の整った眉がけげんに寄せられるのを僕は見逃さなかった。
僕はたじろいで、半歩ばかり後ろに下がりたかった。しかし、すっかり忘れていたのだ。自分の足が、まだ記者もどきの男にしがみつかれていることを。
「ありゃ、フロスト伯爵の馬車だぜ」
と、足元の男はしゃべった。「ほら、あそこに引っついている紋章を見ろよ」と彼は僕に促す。
言うとおりに馬車のほうへ目を向ければ、黒塗りの扉に浮き彫りの装飾が施されている。レリーフというやつだ、その形は――銀色の
「
男は首をかしげ「なんで、そんなお偉いさんがこんな街にいるんだ?」と疑問を口にした。「別荘があるんだよ」と、代わりに僕が答えておく。
「ウォルタの街から、もっと先の上流へさかのぼった所に
「へぇ。なかなか詳しいんだな、おまえ」
「君こそ、記者かなんかじゃなかったのかい?」
感心した顔がすぐにムスッとむくれる。「悪かったな、むらっ気のある情報網でよ」と言って、男はわかりやすく
「その別荘で起きた事件を解決したのが、あそこにいる彼なんだよ。連日、新聞で名を飾っている、名探偵ギル・フォックス――ヘリオス探偵事務所の花形さ」
事件を解決に導いたギルを、フロスト伯爵はえらく気に入ったらしい。以降、伯爵は半ばギル・フォックスのパトロンのような存在になった。
(ギルの名が売れ出したのも、その頃だという……)
それはちょうど、僕が探偵事務所へやってきた時期と重なる。およそ四カ月前の出来事だ。
「それからというもの、彼の名声はとどまることを知らず、あちこちでひっぱりだこになったというわけ」
「へん、バカにすんなよ。それくらい……嫌でも知ってらぁ」
僕ははたと気づいた。いけない、こんな男とのんきに会話している場合じゃない。慌てて、広場に下り立ったギルの姿を目で追いかけた。
ギルのやつは、真っ先に守衛オルソー・ブラックの元へ歩み寄った。お互い、事件の現場で何度もぶつかりあった相手である。これはバチバチの火花が飛びかうぞ、と僕が身構えていたら……すっと、ギルのほうから頭を傾けた。
「オルソー守衛長」
「…………」
「このたびは我が事務所の人間が、迷惑をかけてしまったようだ。申し訳ない、こちらからよく言い聞かせておこう。……だから、この場はどうか俺の顔に免じて、身を引いてくれないだろうか?」
なめらかなテノールボイス。不快な卑屈さを感じない、そのきびっとした態度は、とても若輩者とは感じさせない紳士の印象を周囲に与えた。
しかし、僕はわかっている。それは最初に現れたオルソーの時とまったくおなじだ。へりくだる気持ちは一切なし、とギルの顔には不敵とも思える自信が満ち満ちていた。
(それもそうだ。いままさに彼の背後には、銀色の薔薇の大輪が咲き誇っているのだから……)
守衛の上司は街のお役人さんだ。組織の末端をさかのぼり、その頂点の権力を握りしめる一部の上流階級の者に逆らえるはずがない。
オルソーは黙ったまま、片手を上げた。
物言いたげな目線を向ける部下たちに首を振って、二人の守衛を引き下がらせた。
「一丁前に、権力の足元に下ったか」
オルソーは静かにせせら笑った。「よくウチの連中に
守衛たちは広場を離れ、通りへ向かって足を進める。その途中で再び、
「しかし、どんなに着飾ろうがネズミはネズミだ。身の程知らずめ、いずれはおまえの身にあまりすぎて――」
オルソーはそのまま口を閉じた。
「…………」
ギルも、なにも言わなかった。名探偵に見つめられたまま、守衛たちはあっさりと広場から去っていった。
その様子を、広場に集う人々はみなぽかんと口を開けて眺めていた。もちろん、僕もそのうちの一人だ。改めて、有力な権力者の後ろ盾のすごさを思い知った。
その時だった。スッと、僕の手からなにかが抜け落ちる感触が走った。
「あッ!」
ばっと、僕は自分の足元へ顔を向ける。時すでに遅し、その直前にハンチング帽の男は後方へ飛び退いていた。彼の両手には、例のメモ帳がホクホクと握りしめられている。
「へへん! どうよ、取り返してやったぜ!」
「くそっ!」
らしくもなく悪態をついて、僕はすぐ身をひるがえす。得意気になっている男に向けて、急いで腕を伸ばした。よからぬことが書かれた、あの手帳をどうにかしなくては……!
だが、勢いよく前に乗り出した体は途中で止まった。まるでつっかえるように――振り向いて見れば、背後から誰かの手が僕の肩をつかんで引っぱっている。
「!」
そのまま肩を引き寄せられて、強制的に身を反転させられる。もつれた足で体のバランスを取ろうと焦った時には、胸ぐらを強くつかまれていた。
喉までせり上がった悲鳴を、寸でのところでのみ込んだ。転倒しかかった体を腕一本で支えてくれるのはありがたいが……服の襟がやぶれるんじゃないかってくらいの力でしめ上げられるのは、大変苦しい。
「ぐっ、く……」
うめく僕を、威圧的な青い瞳が射抜く。灰色の長い前髪がゆれるなか、その表情は怒りと
ギル・フォックスだ。
彼は乱暴に僕の胸ぐらをつかみ、顔を引き寄せている。
「ギ、ギル……ちょっと……」
「……あのクズどもに伝えておけ」
覆いかぶさる陰りのなか、冷えきった声で彼はささやく。
そこには、銀の薔薇を背負う華やかな名探偵の姿はない。僕が昔からよく知る
「俺はな、おまえらの尻拭いをするためにいるんじゃない。
「ううっ……!」
ギリギリ……僕の襟と、やつの拳がきしむ音が響く。腹の底から呪うような陰鬱な声を鳴らす一方で、その頬と口端はいびつに吊り上がっていた。
「もうたくさんだ……そのことについて、今晩にでも話したいことがある」
「はな……し……たいこと?」
「いいから伝えろ。今晩の七時だ。見習いを含めた事務所の探偵たち全員――談話室に集まれ、と」
今晩の七時、談話室。
見習いを含めた探偵、七人全員を……。
「それから――」
ぼそぼそ、ささやく声。喉の息苦しさから、必要な単語を拾うだけで僕は精いっぱいであった。
やがて、胸ぐらをつかむ指の力が弱まるのを感じた。ようやく解放されるのだと、ほっとしたのもつかの間――僕の体はギルに思いっきり突き飛ばされる。
ちょうど直線上に立っていた、あのハンチング帽の男が犠牲になった。背中からなだれるように、僕は男ともども、地面にひっくり返ってしまう。
「うわっ、いってぇ! ……お、おい! ちょっと荒っぽすぎやしねぇか、名探偵さんよ!」
僕に潰された下で、男が声高に抗議する。しかし、その時にはギルはもう馬車の扉を開けていた。ほかの探偵たちにも一切目をくれず、彼はさっそうと黒塗りの箱のなかへ入る。
「…………」
静かに扉は閉まった。それから御者が鞭を鳴らし、二頭の馬がいななく。名探偵たちを乗せて、黒塗りの馬車はぐるりと広場のなかを半周して去ろうとした。
それこそ、なにごともなかったかのように。
「チクショウ、待てってんだッ!」
ハンチング帽の男は立ち上がると、大慌てで馬車の後を追いかける。本当に記者なのかはわからないが、大切な仕事道具とうたう手帳とペンを握りしめ、猛スピードで走っていった。
「いたた……」
「やあ、ハロウさん。このたびは災難でしたね」
僕はようやく身を起こした。地べたに座ったまま眼鏡に傷はないか確かめる僕を、ロイ少年が見下ろすように覗き込む。
差し出される少年の手を取りつつ、僕はもう一度去りゆく馬車に視線を投げた。その時である。一瞬、馬車の後方を覆う白いカーテンがゆれた。
ギルか……と思ったら、なかから顔を見せたのは少女であった。まだ十歳くらいか、ロイよりもずっとあどけなさが残る顔立ちをしている。
少女は無邪気に手を振った。こちらを向けて手を振られたものだから……僕もなんとなしに反応して、片手を上げた。
「…………」
「ハロウさん?」
けげんに見るロイに引っぱられ、僕は立ち上がった。黒塗りの馬車はあっという間に小さくなり、やがて視界から消えていった。
「ギル……」
* * *
人々の話題は、すっかり塗り替えられてしまった。
みなが口々にしゃべりたくるのは、広場に現れた銀色の薔薇が咲く伯爵家の馬車。そして、その馬車のなかから、さっそうと現れた名探偵ギル・フォックスだ。
もう、壺の事件のことなんて誰も語らない。
例の記者もどきの男だって、そうだ。きっと彼もいまごろ、熱心に手帳につづっているのはギルのことだろう。不名誉な内容が書かれる心配がなくなって安堵したが、やっぱり今後のことを考えて誓約書でも書かせるべきだったか。
(せめて、彼の名前でも聞いておきたかったな)
僕たち五人は、人知れずひっそりと広場を後にした。
――もちろん、買い物の荷物は忘れずに。
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