秘書のお姉さんⅢ

(せめて、もう少し明るい話題のほうがよかったか……)


 焦った僕は、再び店の窓を覗いた。ロイの買い物はまだ終わらないのか──見れば、彼は店主の老人となにやら話し込んでいるようだ。

 会話こそ聞こえないが、ロイが指で数字をつくっているところを見るに、おそらく値踏みの交渉でもしているのだろう。首を振る店主に、必死になって食い下がる少年の珍しい姿がおがめた。


 気まずさから、僕は空を眺めた。朝から何度と見てきた曇り空は、さっきよりも灰色の濃さが重くなっているような気がした。


(夕方にひと降り来るかな?)


 そんなことを考えていると、となりから「ねぇ」と静かに呼びかけられた。


「ハロウさん」

「は、はい」


 シトラスに名を呼ばれた僕は、どもり気味に返事をする。その声は温かくも、冷めてもない……すっと空気のなかに溶け込むような静かな音程で、僕にこう問いかけた。


「ハロウさんは、どうして探偵になりたいと思ったんですか?」


 投げられた質問に、僕は少し目を大きく開く。シトラスの顔をまじまじと見つめるが、彼女のまぶたは伏せられていて、肝心の目の色まではうかがえなかった。


「向いていないと、ご自身でも心に思う節があるのでしょう? ……ああ、いえ、わたし別に責めるつもりで言っているんじゃありませんの」


 ただ……なんでしょう。

 と、歯切れの悪い口調のまま、シトラスはおもむろに顎を上げた。彼女は遠い目をして、空一面に広がる灰色の雲を見つめている。


「最初はハロウさんも、なにか決心することがあって探偵の道へ進もうとされたのではないんですか?」


「それは――」


「前に、所長がわたしにこんなことを話してくれました。『ここの探偵たちはみな、私自らの目で判断してスカウトしている。ヘリオス探偵事務所にふさわしいと思う、逸材をね』と」


「…………」


「あなたも見込みがあって、選ばれた。そして、所長から差し出された手をたしかにつかんだからこそ……いま、ここにいるんですよね?」


 彼女はようやくこちらを向いた。

 少し斜めに傾げた顔で、僕の眼鏡の奥を覗いている。僕が相手の感情を探ろうとする前に、ふっと、彼女は力を抜くような吐息をついて、口元をゆるませた。


「やっぱり、ほかのみなさんと一緒ですか?」


 ほがらかな笑顔。そこには僕の知っている、いつもの優しい事務所の秘書の顔があった。


「いわゆる、その――なにか特別な存在になりたいとか。自分にしかできない、大きな仕事をやり遂げてみせたいという……ふふっ、みなさん本当に立派な方ばかりです。こんな暗いご時世に、希望あふれる大きな夢を持って――」


「……まさか、そうじゃないですよ」


 ようやく、喉から声を出せた。

 けれど、僕は視線を逸らして、人々が行きかう通りのほうを見やった。情けなく紅茶色の髪をかきながら、話を続ける。


「みんながみんな、ギルのような有名人になれるわけじゃない。探偵の仕事と言いましても、華やかなのは表面だけ……本当はとても地道なことのくり返しです」


 どんなに凶悪で恐ろしい難事件も、ずばっと解決する探偵。そんな格好のよくて、同時に都合のいいイメージがついたのは、いったいいつ頃だろうか。街や地域の治安を維持する保安組織とは異なる、最初はごく私的で些末さまつな職業であったはずなのに。


「怖くないんですか?」

「こわい……?」


 それはまたどういう意味だろうか。

 僕が尋ねる前に、シトラスの口が開く。その時、顔を向けた先の――彼女の瞳に、僕は底知れない力強さを感じた。


「こんなこと、しょせん裏方しか知らないわたしが言うのはよくありませんが……ましてや、事件の解決に尽力じんりょくされているみなさんのことを考えると、横から口を挟むのは差し出がましいことと承知しています。……ですが、いつも気にかかってしまうのです」


 いったん、シトラスは口を固く閉じた。僕が「なにがです?」と聞き返すと、彼女はためらいがちにこう言った。


「もし……誤った真実を、人に突きつけてしまったら──」


 その時だ。「いやー、お待たせしてごめんなさい」と、ばかに明るい声が僕らの会話を断ち切った。

 店の扉が開いて、なかからロイが出てきたのだ。僕とシトラスは、二人とも我に返ったかのように少年のほうへ振り向いた。そろって向けられる視線に、ロイは最初びっくりしたような素振りを見せたが、すぐにおもしろがってニヤニヤと笑い出した。


「おやおや……もしかしてボク、お邪魔しちゃいました?」

「冗談言ってないで、ほら、これを持って」


 僕は顔を白けた表情に戻し、ロイに卵の入った籠を手渡した。その際、少年の手になにもないことに気がついて「買い物は?」と尋ねた。すると、彼は肩をすくめて言った。


「今日はあきらめました。ここの店主、ぜんぜん値切ってくれないんで」

「あら、なにかほしいものでもあったの?」


 シトラスからの問いに、ロイは「ええまぁ」とうなずいた。


「万年筆をね。所長が持っているやつを見て、ボクも自分のものが一つほしいなって思ったんです。でも、けっこう値が張るものなんですね、あれ」


 横目で店を見やるロイは、少し物惜しそうな顔をしていた。めったに見せないその表情を前に、僕は「だったら見習いを卒業したあかつきに、所長にねだってみれば?」と一つ提案してみた。


「所長に?」

「ああ。君だったら、すぐに探偵になれそうだし」


 事実、子猫の誘拐事件を解決したのは、ロイの手柄だ。この少年は頭の回転もいい、きっと自分よりも先に見習いを卒業して、よき探偵になれると僕は踏んでいる。


 ロイは少し考えたのち、僕に向かってニッと笑った。


「そうですね。じゃあ、ハロウさんに買ってもらおうかな」


「ええっ、なんでそうなるの。残念だけど、僕は自分の生活で手いっぱいなんだ。そんな高価な品は無理だよ」


「じゃあ、競争です。ボクがあなたよりも先に、探偵になることができたら――その時は、お祝いに万年筆をプレゼントしてくださいね!」


 勝手に約束を決められてしまった。げんなりする僕の前を、ロイは上機嫌に通り過ぎていく。となりのシトラスは「お二人は本当に仲がよろしいんですね」と言って、ほほ笑んだ。いつの間にか、普段どおりの彼女に戻っていた。


「シトラスさん、さっきのことですが……」


 ロイに続いて、店の前から離れたシトラスに僕は慌てて声をかける。振り向いた彼女は「さっきの?」と、僕を見て小首を傾げた。


「えっと、その……もしも誤った真実を、人に突きつけたら――という質問です」


「ああ……そう言いましたわね、わたし」


「それって、子猫の誘拐事件の時のような?」


「いえいえ、ハロウさんのはまだ……たしかにギルさんのおっしゃるとおり、笑いごとにはできない失敗ではありますけれど。わたしが言いたかったのは、もっと大きな事件のケースです。たとえば――」


 殺人事件。

 と、シトラスは言った。


「……変なことを聞いてすみません。少し物事をマイナスに考えすぎていたようですね、わたし」


「いえ、シトラスさんが心配するのも、もっともですから……」


 曖昧に言葉を濁したまま、シトラスは気まずそうに向こうへ行ってしまった。

 会話のパーツから、僕は彼女が本来言いたかったであろうことを頭のなかで組み立てる。『誤った推理をして、まったく見当違いの人間を犯人に仕立ててしまうのは怖くないのか?』……きっと、そう僕に尋ねたかったのだろう。


 もちろん、そんなことは探偵として、人としても絶対にあってはならないことだ。実際にヘマを犯した自分が言うのも難だが……いや、そんな自分だからこそ身が引きしまる。


(もしかすると、彼女が教会で祈っていたのも……そのことについてなのかもしれない)


 彼女は心優しい秘書だ。僕ら、探偵のことを思って……。


(――冤罪えんざいか)


 シトラスの心づかいを無下にしないためにも、これ以上の悲劇はけして招かぬと僕は心のうちで誓うのであった。

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