秘書のお姉さんⅠ
（あれ……？）
祭壇の前にひざまづく、その後ろ姿に僕の目が留まる。元は長めであろう茶色い髪をきれいに結って、うなじに丸めている女性の姿を──僕は遠目からまじまじと見つめた。
（あそこにいるのは、もしかして……）
最初こそ、なんとなしに見たことのある背格好だな、としか思わなかった。しかし、見れば見るほどに……間違いない、僕の勘はきっと当たっていることだろう。
その女性は、じっと頭を下へ傾かせていた。
両手の指を絡め合わせて、胸元の位置で固く握りしめている。去りゆく人がざわめきを残すなか、彼女は微動だにせず、ひとり静かに祈りをささげていた。
ほかでもない、祭壇の神に向かって。
僕はとなりにいるロイの前に少しかぶさるようにして、視界の角度を変えた。祈る彼女の、その顔が気になって遠くから覗こうとしたのだ。
（やっぱり、そうだ）
とてもよく見知った顔がそこにあった。
同時にまったく知らない表情も、そこにあった。
「あっ、ねぇハロウさん。あそこにいるの、シトラスさんじゃありませんか？」
ロイも気づいたようで、まっすぐ指をさす。
僕が返事をする前に、少年はうれしそうに立ち上がった。そして人目なんか気にもせず、祭壇にいる彼女に向かって大きく手を振る。声高に「シトラスさーん！」と名前まで呼んで。
名を呼ばれては、さしもの彼女も祈りを中断せざるを得ないだろう。気まずさと、周囲から刺さる視線も相まって僕は他人のふりをしようとした。
僕が顔を背けようとした瞬間だ。彼女は傾けていた頭を上げて、ふっと、僕らのほうへ振り向く――。
（……ん？）
視界の端にギリギリ入り込んだ、彼女の顔に……僕は違和感を覚えた。
なぜだか、とても
けれど、彼女はすぐにぱっと表情を変えた。僕たちの姿を視認するやいなや、形のよい唇が優しくゆるむ。子どもっぽく手を振るロイに対して、にこやかな笑顔を返してくれた。
ますます調子づいて大振りしようとするロイの手を、僕が無理やり押さえていると、彼女は祭壇からまっすぐこちらへ向かって歩いてきた。
「まぁまぁ、珍しいですね。ロイくんに、ハロウさん――お二人が教会の行事に参加していらしたなんて、わたし、ちっとも気づきませんでしたわ」
ゆったりとした口調の、物腰やわらかな年上の女性。
それが彼女、シトラス・リーフウッドだ。僕たちが所属するヘリオス探偵事務所の秘書を務め、ともに仕事をする仲間の一人である。
「ひっどいんですよ、シトラスさん！」
僕の手を押し払い、悲痛な声を上げながらロイがシトラスに訴えかけた。
「ハロウさんが無理やり、ボクをこんな場所まで引っぱってきたんです。『君には探偵として、いろいろ勉強が足りないから――』とかなんとか言って」
不満を口にするロイに「嫌な言い方しないでくれよ……」と僕がツッコミを入れる。そんな僕らのやりとりを、シトラスはおもしろそうに目を細めながら「勉強熱心で偉いのね」と、少年をほめた。
「へへっ。シトラスさんのほうこそ、どうして教会に？」
「わたしですか？」
「うん。神さまに、なにかお願いしたいことでもあるんですか？」
ロイの質問に、僕も心のうちでうなずいた。
それはぜひ、聞いてみたいことであった。シトラスは僕よりも年上だが、まだまだ若い世代の部類に当たる。先程、やけに熱心に神への祈りをささげる彼女の後ろ姿は……やや
「珍しいと……きっと思われるのでしょうね。事務所のみなさんは、若い方ばかりですもの」
偶然か、彼女も僕とおんなじことを口にした。気に障ったのかもしれない。一瞬、不安がよぎった僕は「そんなことはないですよ」と、心のなかとは真逆の一言を添えた。
「ありがとうございます。でも、じっさい毎月欠かさず参加していますのよ？」
「うえっ、こんな退屈なのを毎月も！」
「ふふっ、長く染みついた習慣はそうそう変えられません。じつはわたしの父が、小さな村の教会の司祭を務めてまして――」
つらつらと、シトラスは自分の身の上を語った。彼女は元々、ウォルタの街から遠く離れた小さな農村の出らしい。教会関係の家系で、彼女自身も司祭の父にならって毎日欠かさず祈りをささげていたとか。
「――月の集会があれば、父の手伝いにもまわってましたの。ですから、この街に移り住んでからも……こうして教会へ足を運ばないことには、どうしても気持ちが落ち着かないんです」
シトラスの意外な一面に、僕は目をまたたかせる。それまでの僕は彼女に、街育ちの人間が持つ
テキパキとした事務の仕事さばきはもちろん、どんな
とてもじゃないが、田舎の土と
（僕が探偵事務所で仕事をはじめて、四カ月が経つ。……思えば、僕は事務所のみんなのことを、あまりよく知らないのかもしれないな）
雑談くらいは、誰とでもかわす。ただ、それは表面的なコミュニケーションというだけで、もっと親交を深めるような――細かく言えば、僕は相手の持つ背景や内面を知ろうとはしてこなかった。
（……いやいや。変に相手の内情を探るのは、かえって失礼か）
否定をもって、自己を肯定する。
第一、僕だって自分のことを根掘り葉掘り聞かれては困るだろう。過去のことは、ギル・フォックスに強くくぎを刺されている身なのだし。
（相手のことを知りたいと思えば、そのぶん向こうだって僕のことを
ぐるりと頭のなかで巡ったモヤモヤを、無理やり腹の底にしまい込んだ。いまのままで十分だ、なにも問題はないさと自分を勇気づけて。
シトラスとの談話も手短に終わらせ、僕は教会のベンチから立ち上がった。
「僕とロイくんは、これから探偵事務所のほうへ戻ります。シトラスさんも、よければご一緒にどうですか？」
「ええ、ぜひ……あっ、でもその前に、買い物にいかなくてはならないんです。所長やみなさんから、いろいろと頼まれたものがたくさんありまして――」
「買い物！ だったらボクたち、お手伝いしますよ！」
ロイが元気よく、自身の胸を叩いた。それから僕のほうへ顔を向けて、茶目っ気たっぷりに片目をつむる。
「ねっ、ハロウさん」
「ああ、もちろんだよ」
調子はいいが、珍しく
シトラスはまたふんわり笑って「それではお言葉に甘えましょう。お二人とも、よろしくお願いしますね」と、軽く頭を下げた。そんな彼女を見て、やっぱり所作が整っていてきれいな人だなと僕は思った。
先頭に立ったのはロイだ。ようやく教会という退屈な場所から解放されると思ったのか、彼の顔はじつに晴れやかに意気揚々と出口へ向かう。その後ろをシトラス、僕ことハロウの順で続いていった。
「…………」
前を歩くシトラスの後ろ姿を見て、僕は祭壇の前でひざまづいていた彼女の姿を思い出した。熱心に祈りをささげる静かな横顔と、その後に一瞬だけ見えた虚ろな顔……なんだか妙に脳裏に焼きついてしまった。
（いったい、彼女はなにを祈っていたのだろう）
後ろ髪を引かれるように、僕は教会の扉をくぐる手前でもう一度だけ振り返る。
まっすぐ伸びた赤い敷物の先は、奥の祭壇へと続いている。遠目から見る蝋燭の明かりは、星の光のようにちらついていた。
月の集会が終わって、すでに半分以上の人がはけたというのに、いまだ祈り続ける人々の姿がそこにある。物言わぬ
（司祭さまの言うとおり、とても不安定な世のなかだからなぁ……）
その姿に、遠い日の自分が重なる。
幼い頃の自分も、ああやって孤児院の礼拝堂で熱心に祈っていた。ほかの孤児たちよりも……そう誰よりも
祈って、祈って……。
（いまでも、あの時の景色が夢に出る……）
ぼやけた視界のなかで、静かに見下ろす神の目の飾りが――。
「…………」
過去の幻影を振り切るように、僕は背中を向けた。
教会を出て、外の空気を思いっきり吸い込む。そしてふと、こんなことを思い出した。結局、僕は集会に参加しただけで、なに一つ神に向かって祈りをささげやしなかったと。
となりに座っていたロイも、そうだ。終始、ふてくされた顔で逆に神の像を睨んでいた……。
（……が、まぁいいか）
ふっと苦笑って、僕は教会の外門を通り抜けた。
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