後編
次に青年が女のことを思い出したのは、それから数日後のことである。深夜、アルバイトをしているコンビニのゴミ出しで外に出た青年は、いつの間にか降り出した雨に少し顔を顰めた。
――傘持ってきてねぇのに、最悪。
まぁ忘れ物の傘を借りればいいか、とすぐに思い直すものの、バイクで来ていたのでそれはそれで面倒である。シフトが終わるまでに止んで欲しいし、小雨程度ならばいっそ濡れて帰ろう。そこまで考えたところで、青年は「あ」と思わず声を漏らした。
――そういえば、あの女に遭ったのも雨の日だった。
遭った、と表現して良いのかは悩ましいところではあるが、女が青年を見ていたことは確かではあった。小さく体を震わせた青年は、周りを見ないようにして足早にゴミを入れておく倉庫まで行くと、手に持っていたゴミ袋を勢い良く放り投げる。そのまま力任せに倉庫の扉を閉めた青年は、両手を扉について大きく溜息を吐いた。
――あんなのただの幻だ、馬鹿馬鹿しい。
数日経った今、思い返せば有り得ない光景である。女が居たまではまだしも、それが目の前で溶けて崩れ、しかも自分しか見ていない、などと。
アルバイトと課題で疲れていたのかもしれない。今度の休みにはツーリングでも行こう。そう気を持ち直して振り向いた青年は、しかし短く悲鳴を上げてその場に立ち竦んだ。
深夜というよりは明け方に近い、人気のないコンビニの駐車場。月は既に西の端に消え、白々とした店の明かりが照らすばかりの黒いアスファルトの上に。
ポツン、と。
たった今青年が思い出していた、真っ赤なワンピースを着た女が、彼の方を見つめて佇んでいた。
その立ち姿は、数日前とまるで変わらない。濡れそぼった黒髪、体に張り付いたワンピース、だらりとぶら下げられた両の腕。前髪の隙間から寄越される、暗い、昏い眼差しも何一つ変わらない。
青年は少しの間愕然と目を見開いていたが、やがてキッと
「何なんだよ、お前……! この間から気持ち悪いんだよ!」
発した声は、それでも僅かに震えていた。緊張と怒りで顔を赤くして睨み付ける青年に、女は何も答えることなく、また一歩足を踏み出す。
ぐじゅり。聞こえないはずの音が鳴る。
ぐじゅり。
ぐじゅり。
ぐじゅり。
青年と女の間には、数日前の喫茶店の時よりも距離があった。それを縮めるように淡々と近付いてくる女に、青年の喉が締められた鳥のような音を立てる。
「く、来るな!」
ぐじゅり。
「来るなっつってんだろ!」
ぐじゅ……り。
ピタリ、青年まで数歩の距離を空けて女の足が止まる。思わず倉庫の扉に背を預けてへたり込んだ青年の前、女はジッ……と彼を見つめたまま。
どろり、と。泥人形に上から水をかけたかのように、再びその輪郭を崩すと、一塊の肉塊へと成り果てた。
「ヒィ……!!」
引き攣った悲鳴を上げた青年は、水中でもがくように手足をバタバタと動かして、必死に目を閉じて顔を背ける。立ち上がりたい。立って逃げ出したいのに、足はガクガクと震えて全く力が入らない。
女はそんな青年を、ただ、見ている。
青年はその視線を、ただ、感じている。
ジッと見てくる眼差しは夜よりも暗く、重たく。ただその無機質さは爬虫類のそれに似て、尚のこと怖気を掻き立てる。
――何なんだよこいつ。何だって言うんだよ……!
全く理解できない状況に、体は無意識に暴れて心だけが悲鳴を上げている。やがて力尽きた青年が恐る恐る目を開けると、視界の端で、女だった肉塊は未だに肉の隙間から青年を見つめていた。悲鳴はもう言葉にならずに、掠れた吐息となって無意味に夜を震わせる。
――俺が、何をしたって言うんだよぉ……
半ば泣きそうになりながら、青年はキツく目を閉じて膝を抱え込んだ。冷たい雨が青年の全身を濡らし、倉庫に降り注ぐ雨音が背中越しに響いている。
そうして、どれだけの時が経ったのか。
時間の感覚も分からなくなった青年は、不意に顔に感じた光にノロノロと目を開けた。夜明けの曙光が青年の全身を照らしている。雨もいつの間にか止んでいた。冷え切った体をガチガチと震わせながら女が居た場所に目を向ければ、そこにはやはり何も痕跡は残っておらず、ただアスファルトに水溜まりだけが残されていた。
――俺の頭がおかしくなったんだろうか。
ぼんやりとした頭で青年は考える。きっとあの女は、青年にしか見えない『何か』であるのだ。であれば、それは幻覚と何が違うのだろう。
疲れた体を引きずって店に戻ると、既に来ていた朝番の女性が、「ちょっとあんた、どこに行ってたのよ」と文句を言ってくる。それに適当に返事をしながらタイムカードを切ると、青年は力無く店を後にした。
……それ以来、雨の日になると女はどこからともなく現れ、青年を見つめ続けた。
例えば、大学の講義中。ふと窓の外を見ると、降りしきる雨の中に立つ女は一瞬で溶けて崩れた。
例えば、近所の図書館。飲み物を飲もうと外に出ると、自販機の横で溶け崩れた女が青年を見上げていた。
例えば、例えば、例えば……
「おい、お前大丈夫か?」
「……何が?」
気遣わしげな友人の声に、青年は気怠げに返事をして手元のスマートフォンに目を落とす。
大学のカフェテリアである。学生で混み合うお昼時、友人の手元には食べかけのラーメンがあるが、青年の手元にはペットボトルのお茶が一本あるきりだった。
そっけない青年の態度に顔を顰めた友人は、しかし直ぐに表情を戻して心配そうな声で言葉を続ける。
「何って、お前最近おかしいよ。気もそぞろっていうか……いつもスマホ見てるし、付き合い悪いしさ。顔色も良くないし、飯ちゃんと食べてるのか?」
「……だって、外を見たらいるかもしれないだろ」
「は?」
ボソリと呟いた青年に、友人は怪訝な顔をして首を傾げた。それに「何でもない」と返して、青年は鞄を持つと立ち上がる。
「おい!」
「ごめん、気分が悪いんだ。午後は早退するって教授に伝えておいて」
ヒラリと手を振ると、青年は友人の静止も聞かずにその場を立ち去る。
立ち去る間際、カフェテリアの窓から外を見た青年の眼差しが凍り付いていたことに、友人は最後まで気が付かなかった。
♢♢♢♢♢
――ねぇ、あの噂知ってる?
――あぁ、経済学部の××先輩が行方不明ってやつ? 聞いた聞いた、警察来てたもんね。
――そうそう。それでさぁ、行方不明の原因なんだけど……なんか、女の人に恨まれて殺されちゃったらしいよ。
――え? 何それ。どこ情報?
――サークルの先輩。あの先輩さぁ、大人しい顔してたのに女遊びエグかったらしくて。結構あちこちから恨み買ってたから、その誰かじゃないかって。
――うわぁ、本当なら自業自得じゃん。
――ねー? しかも、妊娠したら子供を堕させて、その子供を雨の日にゴミに捨てたりとかしてたらしいよ。
――うっわ、気持ち悪……死体遺棄ってやつ? 最悪だね。
――しかもしかも、捨てられた子供はまだちゃんとした人間の形してなかったから、ぐっちゃぐちゃで悲惨な状態だったんじゃないかって。怖いよねぇ。
――……ねぇ、もうこの話やめない? 聞いてて気分悪くなってきちゃった。
――ごめんごめん。いやさぁ、もしもこれ全部本当だったらさ?
――子供を失った女の人は、どうやって先輩に復讐するのかなって。やっぱり、子供と同じような姿になるように殺しちゃったりするのかな? ねぇ、どう思う?
【了】
雨天融解 アルストロメリア @Lily_sierra
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