雨天融解
アルストロメリア
前編
青年が顔を上げると、ガラス越しの街路は雨で灰色に煙っていた。
都心の一角にある瀟洒な喫茶店、その窓際の一席である。ロッジ風の内装には北欧テイストの家具が置かれ、都心の喫茶店らしく電源席も完備されているためか、ランチタイムが過ぎた今も店はなかなかに盛況だ。食器の鳴る音。談笑する人々の声。さざ波のようなざわめきの後ろには控えめにジャズソングがかかり、時折人が出入りするとドアベルがカラコロと音を立てる。大学生である青年は、そんな喫茶店の一席で、ノートパソコンと資料をテーブルいっぱいに広げて、明日が提出期日のレポートに取り組んでいたのだった。尤も、立ち上げられた文書ソフトはまだまだ真っ白であるのだが。
青年はかがみ込んでいた体を起こして大きく背筋を伸ばすと、冷めかけの珈琲を口に運んで、小さく溜息を吐く。彼はどうにもこの手のレポート課題が苦手であった。そもそも、文章を書くのが苦手なのである。それなのに大学の課題というのはどうしたってレポートや論述形式のものが多い。毎度四苦八苦しながら仕上げて提出しているものの、そもそも文章が下手では及第点が関の山であって、彼自身のやる気もどんどん右肩下がりになっていくのだった。
――課題、たまにはサボっちゃ駄目かなぁ。
しとしとと降り続く雨をぼんやりと眺めながら、青年は胸中で独り言ちる。勿論、そんなことをすれば後日追加課題が出て自分の首を絞めるだけなので、これはただの現実逃避である。現実逃避だが、確かにこの瞬間は真剣な思考。課題をサボった場合の教授からの評価、後日出されるであろう追加課題の内容、加えてその後の講義での己の扱い。そういったものを至極真面目に考えて、青年は割に合わないなとあっさり思考を放り出す。どう考えても、諦めて及第点の課題を出した方がマシである。多分、きっと、恐らくは。
ハァ、と溜息をもう一つ。残っていた珈琲を一息に飲み干してソーサーに戻すと、さて続きをするかとパソコンにかがみ込み……そこで、青年はふと動きを止めた。
視界の端、窓ガラスの向こうに、何か青年の意識に引っかかるものを感じたためだった。訝しみながらも再び顔を上げた青年は、窓の外を見た瞬間に、思わず息を呑む。
沢山の人が往来している雨の街並み。片側三車線の車道と、それに比例して広い歩道にはひっきりなしに車と人が行き交い、色とりどりの傘が青年の目の前を通り過ぎていく。
そんな中に、半ば紛れるようにして。
ただ、ジッ……と立ち尽くして、こちらを、青年を見つめている、真っ赤な服を着た女がいた。
傘は差していない。濡れそぼった長い黒髪はべったりと顔に張り付き、だらんとぶら下げられた両腕は力なく、猫背気味の姿勢も相まって今にも前のめりに倒れそうである。真っ赤な服は恐らくはワンピースだろうか、膝丈までのそれはやはり雨を吸って全身に張り付いてしまっている。足元は素足にパンプスを履き、手荷物の類も持っていない。身一つで立ち尽くす様子は晩秋の今は見るからに寒そうで、けれどそんなことよりも女の顔に、正確にはその瞳に、青年は射すくめられたように動けなくなった。
――なんなんだ、あの女。気持ち悪いな。
背筋に走った恐れを誤魔化すように内心で悪態をつくと、それが聞こえてでもいたかのように女は一歩、青年へ向かって足を踏み出した。
ぐじゅり。聞こえないはずの足音が聞こえる。
ぐじゅり。
ぐじゅり。
ぐじゅ……り。
数歩、歩道を青年の方に歩いてきた女は、窓ガラスの間際まで近付くと、青年を見下ろしながらまた立ち尽くす。自然、見上げる形になった青年がようやっと掠れた声を絞り出そうとした、その瞬間。
どろり、と。女の体が泥のように、青年の前で溶けて崩れた。
「うわぁ!!」
大声を上げて椅子から転げ落ちた青年の目の前で、一塊の泥のようになった女は、まだその塊の中から濁った目を青年に向け続けている。ガタガタと震えてその目を見返すしかない彼に、店員が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「お客様、どうなさいましたか!?」
「どうって、あ、あれ、見てくれよ、あれ……!」
震える指で女だったものを指差す青年に、その方向を向いた店員は、しかし訝しげに眉を下げる。
「あれ……とは?」
「えっ……?」
思わず店員の顔を仰いだ青年は、すぐに窓の外に目を戻して、今度は別の意味で唖然として沈黙した。
雨が降り続く街並みには、変わらずに人と車が行き交っている。しかしその中に、先程までは確かにいたはずの女の姿は、陰も形もなくなっていた。
――どうして、だって、さっきまで。
力無く手を下ろした青年に、店員が困惑した顔のまま「お客様?」と声をかけてくる。それに強張った笑顔を向けると、青年は努めて平静を装って言葉を続けた。
「あ、あー……いや、すいません。寝惚けてたのかも」
はは、と誤魔化すように笑って見せれば、店員も苦笑混じりに笑い返して手を差し出してくれる。その手を取って立ち上がると、青年は周りにもペコペコと頭を下げて、手早く荷物を片付けた。
――何だったんだ、あれ。
店を出る間際、恐る恐る女がいた場所を見ても、そこにはやはり髪の毛一本も落ちてはいない。早鐘を打つ心臓を宥めながら帰路に着いた青年は、しかし翌日にはその不気味な出来事を白昼夢だと片付けて、半ば忘れてしまったのだった。
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