第2話 トドの足搔き

「うわ。いたの? びっくりした。電気ぐらいをつけたら」

 娘の声にリビングの時計を見遣ると時刻は午後八時を回っていた。

「……もう、こんな時間だったのね。夕食を……」

「あ、いい。友達と食べたからお風呂入る」

 不機嫌そうでもなく淡々と言うとさっさとお風呂場へと行ってしまった。娘からふわり香る香水が昼間のことを思い出された。そして、その手に持つ洋服屋の紙袋が目に入った。

「お小遣いで買えた?」

「何よ? あ、ああ、これは安売りしていたから買っただけだよ」

「そうなの」

「別にいいじゃん。お母さんは知らないだろうけどそんなに高いとこじゃないし。洗濯しておいてよ」

 娘はそう言うとどかどかと足早に部屋へ行ってしまった。

 私はふらふらと台所へと向かった。

 今夜も夫は午前様だ。

 遅いのは残業や接待だと思っていたけれど昼間のあの様子じゃあ分からないわね。

 冷蔵庫を開けると夫の好きなビールやお酒が並んでいる。

 お酒が無いとキレるとまではいかないけれど不機嫌になって数日当たり散らされる。

 子どもだってそんな夫のことは嫌っていたはずなのに。

「……いつからなのかしらね」

 私はリビングに戻ると再びソファーに座り込んだ。


 深夜を回った頃、かちゃりと玄関の鍵が開く音がした。そしてリビングに入ってきた夫は、

「こんな時間まで起きていたのかよ」

「……おかしいの?」

「いつもはぐーすか寝ているのになんだよ。ゴルフで遅くなるのはいつものことだろ」

「そうね」

「何だ。その態度はっ」

 夫は不機嫌そうに睨んできた。

「今までは家族のことを思って我慢してきたの! あなたたちのためにっ」

 立とうとしたけれど、ふらついてしまい思わずテーブルに手をつく。

「なんだよ。そんなこと知らねえよ。そんなの頼んでいないだろ! お前が勝手にしたんじゃないか!」

「酷い! 私は……。私は」

 夫に縋りつくように近づくと、夫は私を蔑んだように見た。


「ふん。我慢した割には体形がぶくぶくじゃねえか。見たくもね。このトド!」

「……トド。また言ったわね。そうして私を馬鹿にして、……許さない」

 夫に掴み掛かろうとしたけれど夫はすっと避けるとさらに背中を蹴り飛ばさしてきた。そのまま床に膝から倒れ込んだ。

 膝と背中に痛みが走る。

「トドのくせに主人に歯向かうんじゃねえ」

 そう吐き捨てるようにいうと主人は自分の寝室へと行ってしまった。

 夫とは娘が赤ちゃんの頃、夜泣きするからと別寝室にしてからそのまま別室になっている。

 蹴られたところや膝にどくどくとした痛みがする。視界は真っ赤で真っ暗に感じた。私は朝までそのまま倒れ込んでいた。


 早朝、起き上がるとのろのろと洗面所に向かった。

 幸いなことに顔などに見えるあざはなかった。

 蹴られた背中は分からないけれど今は痛みがマシになっていた。

 朝食の準備をしていると娘は挨拶もなしで出ようとする。

「麻衣ちゃん。ご飯は?」

「いらない」

 ぼそりと聞こえたのは「うぜぇんだよ」の言葉だった。夫はさすがに蹴ったのが気まずかったようで、こちらを気にしてちらちら見ていた。

「お前の今日の予定は?」

 いらいらとした感じで聞いてきた。

「予定ですか? ええと病院に……」

「病院だと? そんな大げさな」

「大げさなと言われましても。お義母さんの面会です。毎日行っているじゃありませんか」

「お母って、あ、ああ」

 同居だった義父は若くして亡くなり、義母もそれから体を悪くして入退院を繰り返していた。その付き添いなどもありパートに出て働こうとしてもできなかったのだ。

「あなたの母親なのに、忘れてしまったの? お義母さんも最近は調子も悪くなって、あなたも一度お見舞いに……」

「ああ、分かった。分かった。また、今度な」

 そう言うとさっさと出勤していった。

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