Rehabilitation

解体

 物語を描くということは、その物語の中でしか生きれない生命を描くことに値する。私達がこの世界にて命を宿したように、物語の登場人物もその物語の中の世界にて命を宿した、れっきとした生命なのだ。だから、物語を描くことは生命を取り扱う事と同等であり、物語の中でAという人物がBという人物を殺せば、Bを殺したのはAでありながら作者でもあると言える。その物語が自分にとってどんなに重要でなくても、登場人物に取るに足らぬ者がいても、私達はその物語やその人物を見捨ててはならない。

 ある物語が批判されたら、その物語の世界に生きる例外ない全ての命はその存在価値を奪われることになり、このような事象ほどこの世界に存在できるエネルギーを無駄にすることは他にない。だが読者は物語を批判する権利を持つ。物語がどんなに酷いものでも、読者は嘘をついてまでその物語その世界を認めなけれならない、ということではない。読者の一人がある物語に傷つけられたなら、その物語の存在価値を奪っても構わない。何故なら物語やそこに生きる人々の存在価値が奪われても一切の責任は作者や協力者にあり、批判された物語や人物が現実の人間を責めることが出来るなら、批判されたことに対する文句は作者や協力者に言うべきだからだ。そうして、作者が物語や人物を改善し、それらはそうやってより良いものになっていく。また裏を返せば、読者は物語を称賛する権利も等しく持つ。称賛され、認められた物語や人物はその存在価値を更に強め、強まれば強まるほど、批判に対し簡単に存在価値を奪われなくなる。多くの称賛を得たものは価値あるものであり、多くの称賛と多くの批判をものは賛否両論で価値のあり方が人それぞれ違い、多くの批判を得たものは存在価値がない。つまり、物語や人物に存在価値を作り出すのは作者であり、それを育て上げるか蹴り壊すかを決めて実行するのは読者である。

 これらはインクや墨汁、あるいは概念の上で成り立つ事例であることを忘れてはならない。だからこそ、物語という二文字には宇宙と同じ力が秘められており、それを語る私達が物語を描く際は常に慎重で、心身を整え、神としてふさわしい心構えであることが常であるべきだ。だが、それらは実際難しいことではない。難しければ、人類が大昔から物語を作ることを趣味の一つとしてきた事、そして、今も昔も一つの物語に対して必死に人生を絞って出た汁を捧げている人が大勢いる事と辻褄が合わない。

 私もまだ若い年齢でありながら物語のために人生を絞ってきた人間であり、それが疲れて一時期物語を書くのをやめた人間だ。しかし、しばらく物語を書かなかったのが理由で物語に対する自分の意識が弱まったとは言わせない。私は少しずつ再度書くための準備をしていたのであり、リハビリテーションに私が含めた意味はまさに再度書くための準備である。

 まだ身を潜めているべきだろう。だが、ここでうずくまっていても何にもならないと心が告げている。形だけでも良い。抜け出しても最初は書く事すら出来なくてもいい。外に出るべきだと一瞬でも思った、自分に従いたいのだ。




 最後のリハビリ、私は、

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