誇りを持つ
人によっては嫌われる肩書きのオタク。私はそんなオタクが集う場所に行ったことがある。いや、オタクを見て嘲笑うためではない。目的はまた別にある。
そこはどこもかしこもオタクが喜ぶものばかり。大きなビルボードには、可愛い二次元の女の子がでかでかと描かれており、建物の中に入ればフィギュアやぬいぐるみが売られていて、ゲームセンターではクレーンゲームが8割を占めている。その町を歩く人々のリュックにはアニメかゲームのストラップが付いていて、そのキャラクターが印刷されたTシャツを着る、特に愛が大きいオタクもいた。少し場所を変えたら、見ただけではすっぴんの想像がつかないようなメイクをしたメイドが客引きをしていて、メイドカフェやコンカフェという言葉が彼女らの口から聞こえてきた。スマホを触りながら客引きをするメイドもいたことには少し笑ってしまったが。
そのような、オタクが集う場所にいたわけだが、残念なことに私はオタクではない。だからこそその日は異文化交流をすることができて非日常を味わった一日だったが、同時にいろんなことを思わされる日でもあった。羨ましいという感情だろうか。好きなものに夢中になっている彼らと夢中になれる環境があることに、私は憧れを感じた。
憧れるのは私個人の感想だとしても、人に憧れを抱かせることすらも可能であるオタクは、改めてなぜ嫌われるのか。なんとなく予想はつくが調べてみた。
予想通り、書かれていたことは「不潔」だったり「空気が読めない」ことだったり「自分のことを押し付けている」ことだったり。しかしこのような話には前提がある。これらはオタクが嫌われる理由ではなく、一部の”嫌われるオタクの嫌われる原因”であることだ。やはり、オタクであること自体に嫌われる要素は一つもない。一部の人間の行動が悪目立ちをするせいで、全員がそうだと勘違いされてしまうのだ。このような事例はオタクだけには留まらない。フェミニストやヴィーガンなどの主義主張や好みが同じ人間同士で固まって、共感し合ったり共に行動を起こしたりする時や団体には必ず耳にする事例だ。実際に、過激派という言葉がある時点でそれを証明することができるだろう。
オタクであることに間違いはない。むしろ誇れることである。
好きなものを好きだと言えることは幸であり、娯楽であり、誇りである。何かを好んでいることはその人自身のブランド、魅力にだってなる。私は好きなものが少ない。アニメは見ないし、推しという概念が存在するゲームもやらない。マンガもドラマも何もかも、興味があれば見る程度のことで、その興味すらも湧くのは珍しい。そんな人間だからこそ、私はそう考える。
好きなものに誇りを持つ。私もそれをはっきりと出来るようになりたい。
十三回目のリハビリ、悪くはない。
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