人間の無関心と好奇心
SNSには常に知り合いの投稿がある。○○と△△へ行きましたーというような内容だったり、新作の××美味しかったというような内容だったり。そういう知り合いの投稿を見ていると、自分の日常に全く色がついていないように思えてくる。何もしなかった、どこにも行かなかった日にそういった投稿を見ていたからだ。その日だけじゃない。その前の日も何もせず家でごろごろとしていた。別にそれを辞めたいとは言わないが、周りの人間のように、自分も誰かと楽しく過ごせていたら良かったと思うことが多々ある。
しかし、私は最低限の関わりしか持たないと誓った身なのだ。最低限と楽に過ごしている代償として、不可能なことも多い。それはもちろん分かっている。だが、これまで群れて行動してきた人間が、突然単独で生きようとするということはどうしてもできない。やはり私は一人を楽しむことはできても、慣れてはいないのだ。
そういう時、心に何の傷も負わずに済ませる方法がある。それらの投稿を見ないことだ。知り合いの近況について無関心であれば、嫉妬に近い感情を抱くことはない。そもそもそれらを知ることもない。であれば、自分は悲しい気持ちにもむなしい気持ちにもならないだろう。
無関心であり無知であることこそ気楽なものはない。
だが、無関心であることが果たして本当に良いことなのか。それはまた別の問題だ。
人間は”知りたがる生き物”である。どんなに役に立たないものでも、知ったら後悔することでも知りたがるからこそ人間であり、そのなんでもない好奇心のおかげで科学や文明がここまで発展してきた。そんな人間が、今更それほど無関心になれるだろうか。知ったところでなんの役にも立たない知り合いの投稿でも、いつでも知れる状況に置かれたら、きっと人間は知りたがる。きっと私は知りたがる。そんな状況から抜け出そうにも、そんなのもったいなくて躊躇する。無関心になるなど、なろうと思ってなれるものではないのだ。
だから私は、いつまでもこうやって知り合いの投稿を見ている。たとえそれが自分を少しだけ苦しめることであっても、私は投稿を見ることを辞めない。なぜなら、人間は好奇心バカだからだ。
七回目のリハビリ、コツを掴んだ。
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