走り書き『人望の剣』

 真っ黒の空間に、ポツンと真上からのサスペンションライトがついている。一人の女の高校生がそのライトの当たっている円の中で、ペンで”ヒーロー”と縦に書かれた白い画用紙のお面を左手に持って、顔を隠していた。そのまま、青と黄と銀の色の剣を右手で天高く掲げていた。

 剣だけがそれなりの代物だが、服装といったものは一般人同然、しかもヒーローと書かれたお面で顔を隠しながら自己を表現する。その姿はひどく滑稽であった。まるで、剣という力に溺れ、自分が何者かを自分で判断し、その結果自分を偽って注目を集めるようになったかのようだ。だが、本人にその意思は全くなかった。

 一人の幼女がそこにやってきた。幼稚園の帽子を被り、水色のスモックを着た幼女が、その高校生の持つ剣に興味を持って、その剣を取ろうとした。だが、160センチメートルほどの身長である高校生は幼女にとっては高すぎるので、手を伸ばしても飛び跳ねても、手が剣に届くことはない。幼女は何度もその剣を手にしようとした。しかしどうやっても届かない。

 ある時、高校生が自らその剣を幼女に差し出した。幼女の剣に対するしつこい興味に呆れたのではない。最初から幼女にその剣を渡したかったかのように、幼女がここに来るのをずっと待っていたかのように、高校生は自分の意志でそれを幼女に渡した。

 幼女はそれを受け取った。幼女からすると剣はとても大きい。その小さな手で高校生のように片手で握るのは、間違いなく難しいだろう。しかし幼女は簡単にその剣を片手で持った。その剣に重さはなかったのだ。重さも、握っている感触もない。だが、自分の手元にその剣がある、自分は確かにその剣を握っている、その感覚だけはしっかりと感じられた。むしろ、他の物を握る時よりもその感覚は強かった。

 その剣は概念であった。そして、私はその場所でその概念を手にした幼女である。


 自分には13歳も年が離れた高校3年生の姉がいる。姉は頭が良く、運動も出来て、容姿も良い。誰からも好かれる人気者だ。誰に対しても優しく平等で、悪口陰口は絶対に口にしない。悪は悪とみなし、許すこともしない。姉は私のことをとても可愛がってくれた。今は姉が受験生なので勉強を優先することが多いが、勉強を始める前までは、私達が家にいるとき、姉は常に私のことを気にかけ、一緒に遊んでくれたり、絵本を読んでくれたりした。そんな姉はまさに非の打ち所がない人だった。私はそんな姉に憧れていて、自分もそんな人間になれたらとよく思っていた。

 やがて姉が大学に合格し高校を卒業した時、同時に家では、大学と実家の距離が遠いが故、姉の一人暮らしについて話が進んでいた。姉が高校を卒業すると同時に一人暮らしを始める予定であり、姉は予定通り明日に家を出る。私は明日以降、姉に会うことは滅多に少なくなるのだ。

 私は姉との別れを寂しく思い、ずっと家のソファで涙を流していた。


「これからの毎日は楽しい毎日だよ。私がそうしてあげる」


 そんな時、姉は私にそう言った。そして私を長い時間強く抱きしめ、私達はお互いとの別れをひどく悲しんだ。私も姉も、涙を流していた。

 姉が泣き止んで私から離れ、私も自分の頬を伝う涙を拭った時、手に違和感を覚えだした。何かを握っている感覚があるのだ。それは物を握っている感覚というよりは、概念のような、形を持たないものを握っているような感覚だった。姉から何かを与えられたかのように、姉から離れた途端にそれを感じた。


 あれから数日後、私は小学校に入学した。人見知りな私は、初めて会う人が多くいるこの環境に慣れず、人に話しかけることが、私には難しかった。

 でも、話しかけられることが幾度もあった。友達になりたいと、男女問わずそう言ってくる人が多くいた。

 勉強もよく出来た。幼稚園の頃から姉に字を教えてもらっていたので、周りの人より上手で綺麗な字を書くことができた。先生にも褒めてもらえて、授業中でも注目を集めることが多々あった。

 運動も上手だった。体力テストの50メートル走では、足が速い男子が女子から人気であることを思いっきり無視して、多くの男子よりも短い記録を叩き出すことができた。クラス内で一番速いとはまではいかないが、私は女子の中で一番速い記録を持ち、クラス内で一番速かった男子よりも驚かれた。そのように足が速くなれたのも、外で姉とよく走り回っていたからだろう。

 小学生での何もかもが姉のおかげで上手くいったのだ。


 数年後、中学生になった時も私は好調だった。

 中間テストで順位が学年10位以内に入ったりした。だが小学生一年生の時と違うのは、この時になると、もう自分の実力でそんな結果を出すことができるようになったのだ。私は姉のおかげで姉から自立し、一人でやっていけるようになったのだ。

 だが、中学3年間というのは子供から大人に大きく変わっていく3年間であり、この頃にもなると、私の人望に反感を抱く人もいた。嘘をでっちあげて私を陥れようとする人もいた。私はそういう人には弱かった。先生には無実であることを証明したが、真犯人については私はどうすることもできなかった。真犯人を見つけたら、自分がどんな目に遭うかなんとなく想像できて、真犯人を探すのが怖かったのだ。


 次第に私の人望は更に多くの人々から反感を買い、私を嫌っていじめる人も増えてきた。


 増えてきただけならまだ良かったかもしれない。私のことを友達だと思ってくれていた人達すらも、いつしか私に嫌悪感を抱いて私と対立するようになった。彼らが悪事を働いては、何度も私が濡れ衣を着せられ、とうとう先生からも信じてもらえず、そうやって私の味方はいなくなった。

 誰もが私のことを嫌っている。彼女は周りにひたすら媚を売り、注目を集めたがるだけの、目立ちたがりだ。人気取りだ。点取り虫だ。皆、そう言っている。

 学校を休む日が続くようになったのもつい最近だ。四六時中どこかしらに私を睨む目があるのが耐えられなくて、ついに学校を休んで、次の日も休んで、その次の日もまた休んで……。一週間のうち、学校を休む日のほうが多くなっているほどだった。


 こんなとき、姉ならどうしていただろうか。自分の味方が一人もいない時でも、姉はきっとなんとかするだろう。でも、私にはそれができない。姉のようにはいかなかった。

 もしかして自分は、本当に目立ちたがりの人気取りなのではないかと、そう思ってしまうこともあった。あの時自分に言ってくれた「楽しい毎日」ってなんだったんだと、姉を責めてしまうことも多々あった。

 まるで私は、画用紙のお面を左手に持って顔を隠しながら、剣を見せつけるように掲げていたあの”ヒーロー”だった。剣だけがそれなりの代物だが、服装といったものは一般人同然、しかもヒーローと書かれたお面で顔を隠しながら自己を表現する。そんなひどく滑稽な人間だったのだ。

 でも、私の手には未だに何かを握っている感覚があった。


 もう一度姉に名前を呼んでほしい。そうすれば、嫌なことも嫌な痛みも忘れられる。たった数秒ほどではあるが、ただ家に姉がいるだけ、ただ姉が私の名前を呼ぶだけで、どれほど変わるだろう。

 姉のことを考えると、学校のクソ野郎どもにどう仕返しをしてやりたいか考えてしまう。姉のことを考えると、勇気が湧いてくる。通学路を歩く私の足取りも、少しずつ軽くなっていく。


 私は、剣を握っている。この真っ暗な空間で、サスペンションライトが当たっている円のど真ん中に私はいる。”ヒーロー”と書かれた白い画用紙のお面を左手で持ちながら、剣を天高く掲げている。


 私は全部好きだ。私を陥れる人々も、その時の恐怖も、痛みも、全部好きだ。それらがあるおかげで私は姉のことを考え、姉から勇気をもらうことができる。だから私は全部好きだ。お前らがいるから、姉が私を助けてくれる。姉が私を助けたなら私は耐えられる。笑顔になれる。だから私は姉が好きだ。その気持ちを強くさせてくれるお前らも好きだ。いつかお礼がしたいほどだ。もう私に何もしてこないほどお礼に満足させてやりたい。


 私を陥れようとした人達が、俯きながら私のもとへ集まってくる。それに続いて、私を友達だと思っていた裏切り者も集まってくる。それに同調して私を嫌った人達も集まってくる。最終的に私の話を信じなくなった先生も近づいてくる。

 私は剣を下ろし、俯く人々を見た。私は一人のほうがいいと思った。いや、もうすでに私は一人だった。私を気にかけて助けてくれる人はいない。私を鎮められる人だっていない。

 私の調子は全く悪い。私の調子は全く悪い!だけど私は決して変わらない!でももう、それは辞めたい……。


 私は怒りに満ちている!


 私の周りはクソ野郎だらけだ!


 私は剣を両手で持った。彼らは私が自分達を殺そうとしているのを察し、全力で逃げていく。だが、私はそれに追いついて彼らの背中を剣で叩き切る。笑いながら。叫びながら。暴れるように剣を振り回し、人を真っ二つに斬る。怒鳴りながら。泣きながら。彼らは悲鳴をあげる。わあわあきゃあきゃあと、自分のことしか考えないような声をあげて私から逃げていく。私はそんなの聞いてられない。情けなんかかけてられない。私は私らしく生きていただけなのだ。姉からくれたこの”人望の剣”を大切にしながら生きていただけなのだ。それを否定したのはお前らなのだ。それを粛正して何が悪い。

 私が全ての人間を殺すのに、時間はそれほどかからなかった。


 自分が向いている先には、私に剣をくれた高校生の”ヒーロー”がいた。彼女はお面で顔を隠していたが、私を見ているのがなんとなく分かった。

 私は自分が殺した人の死体を踏みながら”ヒーロー”へ近づいていく。その制服は、紛れもなく姉が来ていた制服だった。彼女はお面を顔から離す。私に剣を渡した高校生は、私の姉だった。


「ありがとう。でも、もうこれは必要ないよ。二つに折って、粉々にしよう」


 私は剣を姉に差し出しながらそう言った。姉は、笑顔で頷いて剣を受け取る。剣は姉が持った瞬間、灰に変わっていった。


 私はまた中学校に通い直した。不登校になったのでしばらく学校に行ってないせいで、皆私に興味をなくしたのか、誰も私を嫌うことも、私に話しかけることもしなかった。でも、もはやそれが一番マシなのだろう。私の手元にはなんの感覚もない。故に私は注目されない。


 私は今度こそ、楽しい毎日を送ろうと思う。




 六回目のリハビリ、素晴らしい。

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