これを戦略と呼ぶか、逃げと呼ぶか

 数年前の自分が今の私を見たら、心底驚くだろう。人と関わるのが好きで、公園で遊べる日はよく遊んでいた昔の自分は、友人を一人も作ろうとしないことを誇りに思う陰キャと化した。まぁ、何故そう思うのかは分からないが、実際に私の誇りではある。別に恥じることではない。

 しかし、そうなる理由は何か、私はよく考える。

 人との付き合い方を振り返った。周りと比べて私は幼稚な気がした。何も考えずに人と関わろうとしていた。昔から人の目を気にする性格、いや、そうでなくてもきっと同じ思いになるだろう。私はそれが恥ずかしく感じたのだ。だから人との関わりを減らした。迷惑をかけないために。私のせいで場が白けないために。

 だが、人生において大切な人との交流を、気遣いだけですんなりと辞められるだろうか。

 私の母は、周りなんか気にするなとよく言う。人の目を気にする性格だった私には、それが本当に理解できなかった。これはこの性格でなければそうは思わない。だが、やはりそんな母の遺伝子を継いでいるからか、自身の関わりを恥じた時に苛立ちも感じた。

 なぜ周りの気持ちに配慮しながら人と交流しなければならない?なぜ本心を隠した偽の自分で、空気を読みながら話をしなければならない?イタい、キショい、そんな言葉を脅威とするほど私は弱かったか?


 それが社会だ。黙って従っていれば良い。そう言う人もいるだろう。あぁ、もちろんそうする。我が身のためにも。だが私は納得しない。


 納得しないものをしなければ社会不適合者としてのレッテルを貼られる。ここは石器時代ではない。生き方はその時代とは違う。


 なら、せめて最低限だ。私が関わる相手は最低限だ。仲良くなりたいから話しかけるなどしない。ただ話しかけられたら応答する。私はそれだけをする。人との付き合い方を1から説明する本は、きっと東京大学の赤本ほど分厚そうだ。私はそんなの読んでられない。社会不適合者と嗤うか?おぉ嗤え。これは私にとって賢い生き方なのだから。


 どうせいつか、その最低限の関わりすらも増えるだろう。だから、これから来る大きな二酸化炭素の渦に飲み込まれて抜け出せなくなる前に、今は一人という優雅な世界を楽しんでいたい。せめて今は……楽しませて欲しいのだ。




 三回目のリハビリ、悪化した。

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