第3話 ハイキング

 本作でメインヒロインをつとめる、八重城(やえしろ)といいます。


 最初に断っておきますが、本作はあらすじにも書いてあるように、「猫が理事長をしているユニークな学園で巻き起こる、生徒たちによる学園ラブコメ」なので、本作のメインとなるのは、学園の理事長じゃなくて、私たち生徒です。


 生徒がメインの学園ラブコメである以上、生徒の登場シーンのほうが、理事長(というか猫型宇宙人じゃないの!)の登場シーンより多くなるのは当然です。


 そのことを忘れて「話を読み進めても、理事長が全然、出てこない」とか「タイトル詐欺じゃね」などと、文句を言わないようにお願いします。


 あと、私の登場する第三話からは、こういう、登場キャラによるメタ発言がたまに出てきますから、メタ発言が好きな人、許容できる人だけ、これから先、お付き合いください。


 メタ発言が嫌いな人は、さっさとこの作品に見切りをつけて、ほかの作品を読むことをおすすめします。




     ☆




 第一話を見てましたけど、弓比良くんと理事長が仲良く活躍(?)してたということは、一応、弓比良くんが本作の主人公、ということなんですよね?


 ……意外でした。


 だって、これって男性向けのライトノベルでしょ?


 だから、てっきり、男の魅力にあふれた、男らしい人が主人公だと思ってたのに、弓比良くんのような、女の子みたいな顔した、頼りなさそうな男子が主人公だなんて。


 私の感性が古いのでしょうか、それとも、今はこういう、人畜無害系の主人公がはやりなんでしょうか?


 私は、ライトノベルとかほとんど読まないから、よくわからないけど。


 実際、彼の言動のなかに、男らしさを感じたものって、なかったわよね?


 そもそも、一人称が「俺」じゃなくて「僕」だし……。


 まあ、もうキャラの役割と性格が決まっちゃったのなら、私がとやかく言っても始まりませんが。


 ……あれっ?


 弓比良くんが主人公で、私がメインヒロインってことは、もしかして、最終的には私と彼がくっついてハッピーエンドになるってことですか?


 これって学園ラブコメだから、普通に考えるなら、そうなるのよね?


 ……ないわー。


 ないですね、ありえません。


 どう見ても、私にふさわしい男子とは思えません。


 まあ、彼とは同じクラスだし、従順そうだから、なにかと便利に使えそうな感じはするけど、それだけですね。


 それから、メインヒロインがいるってことは、サブヒロインもいるのかってことになるけど、この先の話で登場するみたいですよ、何人か。


 あまりサブヒロインが多いと、私が目立たなくなるし、出番も少なくなるから、私としては、サブヒロインは少ないほうがいいんですけどね。


 そうだ、弓比良くんには、サブヒロインとくっついてもらいましょう。


 サブヒロインにめぐんであげるわ。


 そのほうが、お互いに幸せよね、きっと。


 では、本編に入りましょう。




     ☆




 私たち七本木学園高校の一年生は、校外学習の一環として、学校が所有する山にハイキングにきました。


 今、私たちがいるのは、その山のふもとにある広い駐車場です。


 駐車場には、私たちが乗ってきた、貸し切りバスが九台、とまっています。


 一年生のクラスは九クラスまであるので、クラス分です。


 まあ、一年生といっても、うちの学校は今年、開校したばかりだから、一年生しかいないんですけどね。


 バスから降りた私たちは、先生から、クマ撃退スプレーとGPS発信機を受け取りました。


 事前調査でこの近辺にクマはいないということだったし、クマ撃退スプレーは持っていても意味はないんでしょうけど、万一のためというわけです。


 GPS発信機は、生徒の位置を把握して、遭難を防止するためのものだそうです。


 そうそう、私が今、どんな服装をしているのかわからないだろうから、説明しておきます。


 マウンテンパーカーにレギンスとショートパンツ、キャップを被って、背中にはリュック、という服装です。


 服装は自由、ということだったから、どんな服を着ていくか迷ったけど、これでよかったみたいです。


 朝、登校してみたら、女子の大半は私と同じような服装をしてたので。


 よかった、私だけ浮いてなくて。


 あっ、ハイキングがはじまったみたいです。


 一組から、山に登りはじめてます。


 ということは、私のいる九組は最後ですね。




     ☆




 みんなは友達同士で楽しそうにお喋りしながら、登山道を歩いてます。


 一方、私はというと、みんなの後ろを一人で歩いてます。


 なんでかって?


 いやだって、私、その、ゴニョゴニョ……。


 …………。


 つ、つまり、友達がいないんですよ。


 ぼっちなんですよ、私。


 メインヒロインなのに。


 …………。


 なによ?


 悪い?


 前のほうを一人で歩いてたら、後ろのほうを歩いてるクラスメイトから「八重城さん、ぼっちなんだー、せっかくのハイキングなのにかわいそー」とか思われちゃうじゃない。


 そんなの屈辱でしょ?


 だから、目立たないように、みんなの後ろを歩いてるんです。


 あっ、前を歩いてる女子の二人組。


 彼女たちは、同じメーカーの色違いのリュックを背負ってます。


 これはたぶん、今日使うためのリュックを二人で買いに行ったに違いありません。


 二人ではしゃぎながら、どれにするか決めたんでしょうね。


 いいな、私も友達と一緒に買い物したいな。


 みんなみたいに、友達と会話しながら、歩きたいな。


 入学してから三週間ほどたちましたけど、私には、いまだに友達ができません。


 ずっと一人のままです。


 今日だって、まだ誰とも会話していません。


 ……なんででしょうか。


 人からは結構、話しかけられるほうだと思うんですけどね。


 でも、どういうわけか、しばらく話すと、みんな私から離れていって、二度と話しかけてこないんです。


 それで結局、友達はできないまま。


 入学直後に話しかけてきた女子もそうでした。


 サルみたいな顔してた子だから、よく覚えてます。


 休み時間に、彼女のほうから近づいてきて「どこの中学からきたの?」と話しかけてきたから、「これは私と友達になりたいんだな。そのきっかけを作りたいんだな」と思って、素直に出身中学を教えてあげたのよね。


 そのあと、今度は私のほうから「それであなたは、どこの動物園からきたの?」って言ったら、なぜか彼女、顔を真っ赤にして黙っちゃって。


 それっきり、私に話しかけてくることも、近づいてくることもありませんでした。


 あれって、なんだったのかしら。


 私と友達になりたいんじゃなかったの?


 だから、私に話しかけてきたんじゃなかったの?


 単に世間話がしたかっただけ?


 いまだに、よくわからないのだけど。


 …………。


 あっ、もしかして、友達ができないのは、私の美しさが原因だったりして。


 ……そうかもしれない。


 私、子供の頃から、出会う人には例外なく「綺麗な子だね」って言われてきたし、女子としてはトップクラスの容姿というか、まあ、俗に言う、美少女だと思うのよね。


 顔だけでなく、体だって、自信があるんです。


 身長は百七十四センチあるし、バストはほかの女子と比べても、大きいほうだと思うし、ウエストだって、しっかりくびれてるし。


 この前の風呂上がりのときなんか、自分の体の美しさに見とれて、三十分も姿見の前で裸になっていたものだから、風邪ひきそうになったくらいです。


 髪はロングヘアだし、まさに正統派の美少女といったところよね。


 これくらいスタイルがよくて、しかも美少女、というのは、学校では私くらいじゃないでしょうか。


 だから、私と一緒にいると、全てにおいて、見劣りする自分が恥ずかしく思えて、いたたまれなくなって、私から離れていく、ということなのかも。


 …………。


 なんだ、そうだったんだ。


 友達ができないのは、私に問題があるんじゃないかと思ったこともあったけど、そうじゃなかったんですね。


 長年、抱いていた疑問がようやく解消されました。


 頂上まで登ってないのに、晴れ晴れとした気分です。


 あまりに美しいというのも困りものですね。


 友達すら、できなくなるんですから。




     ☆




 私は今、岩の上に腰掛けて休憩をしています。


 みんなは先に行ってしまったので、この場には私しかいません。


 出発してから一時間ほど歩いたし、何枚か重ね着してるから、結構、汗をかいてしまいました。


 インナーをさわってみると、特にリュックがあたる背中側がじっとり湿っているのがわかります。


 うわっ、気持ち悪いですね。


 替えのインナーはリュックの中に用意してあるので、できればそれに着替えたいところです。


 私は考えました。


 今なら、まわりに誰もいないので、ここで着替えることができます。


 ここで着替えない場合は、山頂で着替えることになりますが、山頂まではまだ距離があるし、そうなると、それまで湿ったインナーを着続けなければなりません。


 こんなとこで着替えるほうがイヤか、湿ったインナーを着続けることのほうがイヤか。


 …………。


 私はもう一度、まわりを見て、誰もいないのを確認します。


 ……よし、決めました。


 やっぱり、ここで着替えることにします。


 私は濡れたインナーを脱いで、新しいインナーに着替えると、その上から、マウンテンパーカーを羽織ります。


 着ているものを一枚、減らしたので、今度はそれほど、汗はかかないと思います。


 …………。


 はあっ?


 着替えシーンがあっさりしすぎてるって?


 もっと、詳しく書けって?


 なんで、自分の着替えを自分で事細かく実況しないといけないのよ?


 バッカじゃないの。




     ☆




 着替えをすませた私は、ペットボトルに入った、飲みかけのスポーツドリンクを一気に飲み干します。


 ……さて、着替えもできたし、水分補給もできたし、そろそろ、出発することにします。


 遅くなると、みんなに追いつくのが大変ですから。


 私はリュックを背負い直して、腰掛けていた岩から下ります。


 そのとき、少し離れたところから私のことを見ている、男子の存在に気づきました。


 あっ!


 ……油断しました。


 まさか、まだ後ろからくる生徒がいたとは。


 私が最後尾だと思ってたのに。


 この男子はクラスメイトの弓比良くんです。


 グリーンのアウターを着て、ベージュのパンツを履いてます。


 入学初日、クラスの自己紹介で「男です」って言ってたから、間違えないけど、言われてなかったら、女の子と間違えそうなくらい、女の子っぽい顔をしています。


 弓比良くんとは、入学してから一度も会話したことがないので、彼がどんな人なのかは全然、わかりません。


 わかっているのは、女の子みたいな顔と声をしてるけど、男ということだけです。


 ……いつから、この男子はいたんでしょうか?


 もしかすると、着替えているところを見られたかもしれません。


 もし「見た」なんて言ったら、登山道わきの斜面から、下に突き落とすくらいしないと気がすみません。


 私は一呼吸おいて、心を落ち着かせると、彼に確認します。


「……ねえ、見た?」


 私がそう言うと「えっ、なにを?」なんて聞き返してきました。


 しらばっくれているんでしょうか。


 ならばと、私は聞き方を変えます。


「いつから、そこにいたの?」


 すると、彼は一瞬、なにか考えたような表情をしたあとに、こう言ってきました。


「えっと、八重城さんがペットボトルを飲み終えてカラにしたところ、からだけど」


 ……本当でしょうか。


 それなら着替えてるところは見られてないから、問題はないのですが、怪しいですね。


 私は、彼の目を見つめます。


 …………。


 あっ、目をそらしました!


 ますます怪しい!


「あなた、やっぱり見たんでしょう!」と言おうとしたとき、先に、彼がなにか言いました。


 えっ、今、クマって言った?




     ☆




 私は、彼の視線が向けられている、さっき私たちが通ってきた登山道のほうを見ました。


 ここから、三十メートルくらい離れたところに一匹のクマがいて、こちらを見ています。


 ホントにクマがいました!


 大きさは、人の大人くらいでしょうか。


 全身、真っ黒で、胸のところに白い模様みたいなのが見えます。


 ツキノワグマというやつです。


 ヒグマと比べると、それほど大きくありませんが、クマには変わりないので、もちろん、人間が勝てる相手ではありません。


 実は私たちは、ハイキングにくる前に、万一の場合に備えて、山でクマと遭遇した場合の対処法をレクチャーされていました。


 クマと遭遇した場合、背中を見せて逃げるのは厳禁。


 背中を見せて逃げるとクマは追ってくるから、逃げるときは、ゆっくり、後ずさるようにしなければならない、と。


 私たちには、クマ撃退スプレーが渡されていますが、射程距離は数メートルです。


 そんなものを使う前に、クマから逃げられるなら、逃げたほうがいいに決まってます。


 普通なら、ベストの対応をしたとしても、クマから無事に逃げられる保証はありません。


 でも今、この状況なら、私は確実に逃げ延びることができます。


 ――彼を犠牲にさえすれば。


 …………。


 私は決断しました。


 自分の命を最優先することを。


 私は音をたてずにゆっくりと後ずさりします。


 弓比良くんはクマのほうに気をとられていて、私のほうは見ていません。


 今のうちです。


 私は一気に駆け出します。


 しばらくすると、走っている私の後ろのほうから、叫び声が聞こえてきました。


 彼はどうなったのでしょうか。


 クマが追ってくるのか、こないのか、重要なことなので、怖かったけど、私は勇気を出して、振り返ってみました。




     ☆




 弓比良です。


 校外学習でハイキングにきています。


 みんな友達同士でお喋りしながら歩いていて、楽しそうです。


 でも、僕はそんなみんなのようすを後ろから、眺めていることしかできません。


 だって、僕には友達がいませんから。


 いわゆる、ぼっちというやつです。


 入学早々、友達づくりで慌てることはない、と思ってのんびり構えていたら、いつの間にか、ぼっちになっていたのです。


 小学校、中学校と、今まで、ぼっちだったことはなかったので、友達づくりを甘くみていたのかもしれません。


 まさか、高校生になって、自分がぼっちになるとは思いませんでした。


 すでに、入学から三週間ほどたっています。


 クラスでは、もう友達グループが完全にできあがっているので、僕がこれから友達をつくるのは難しいんじゃないかな、と思います。


 こういう校外学習って、いつもと違うことが体験できるのはいいんですが、僕みたいな、友達がいない人にとっては、苦痛なんですよね。


 予定では、頂上まで登ったら、そこで、持ってきたお弁当を食べることになっています。


 でも、僕は友達がいないから、そのときは一人です。


 そして、さらにそのあと、自由時間もありますが、このときも一人です。


 今日は、ぼっちの僕にとっては、つらい一日になりそうです。




     ☆




 トボトボ歩いていたら、みんなとだいぶ距離が離れてしまったようです。


 追いつこうと、急ぎ足で僕が歩いていると、岩に腰かけて休んでいる女子を見つけました。


 キャップをかぶっていますが、一目で誰なのかわかりました。


 クラスメイトの八重城さんです。


 彼女はクラスでも、というか学年でも、目を引くほどの美少女です。


 ただ、どういうわけか、友達と一緒にいるのを見たことがありません。


 いつも一人です。


 八重城さんのまわりには、誰もいないから、今日も一人、ということなんでしょう。


 僕は立ち止まりました。


 彼女は僕が見ていることには、気づいていないようです。


 これは……、困りました。


 クラスメイトなんだし、何も言わずに、このまま彼女の前を素通りするのは、ヘンですよね。


 となると、なにか声をかけるべきなんだろうけど、なんて声をかけたらいいものか……、などと僕がつまらないことで悩んでいると、なにを思ったか、突然、彼女が上着を脱ぎはじめました。


 そして、あっという間に上半身、ブラだけの姿に――。


 えええええええっ!


 な、なんで脱いだの?


 っていうか、み、みみ、見てしまいました!


 レースの装飾がされた、大人っぽいピンクのハーフカップブラでした。


 しかも、大きいです!


 グレープフルーツが二つ並んでいる、みたいな。


 インナーを脱いだときなんか、ブラをつけてるのに、胸がぶるんと揺れたほどです。


 彼女はそのあと、胸の谷間をタオルで、念入りに拭いてました。


 やっぱり、胸の大きな女の子は、そこに汗をよくかくんでしょうか。


 これだけ胸が大きいと、いわゆる「寄せて上げる」とかの小細工をしなくてもすむんでしょうね。


 僕が女の子の下着姿をみたのは、もちろん、これがはじめてです(小さい頃の妹の下着姿は除く)。


 しかも、見たのは、クラスメイトの美少女だという……。


 ウエストもくびれていて、すごく、その、綺麗でした。


 彼女はその後、別のインナーを着たので、どうやら着替えがしたかったみたいです。


 ……大変なものを見てしまいました。


 あとで反動がこないといいけど。


 そ、そうだ、僕が見ていることに気づかれたら、えらいことになります。


 気づかれてない今のうちに、今きた道をUターンして戻って、出直したほうがいいかも、なんて考えていたら――。


 岩から下りた彼女と目が合ってしまいました。


 はわっ!


 八重城さんが僕を見て、一瞬、ギョッとしたような表情をしました。


 やっぱり、僕がいることに、気づいていなかったようです。


 その直後、彼女は「ねえ、見た?」と聞いてきました。


 これは当然、着替えを見たか、という意味ですよね?


 もし「見た」って言ったら、どうなるんでしょうか。


 ……嫌な予感がします。


 見たのは事実ですが、ここで正直に「見た」というほど、僕は先の展開が読めない男ではありません。


 僕は「えっ、なにを?」と返します。


 すると彼女は「いつから、そこにいたの?」と言い直して聞いてきました。


 これは、徹底的に追求する気ですね。


 ボロを出さないように、うまく、かわさないといけません。


 僕は「ペットボトルを飲み終えてカラにしたところ」と答えました。


 こう言えば、下着姿を見られてないことがわかるので、大人しく引き下がるはずです。


 と思ったら、僕を鋭い眼光でにらんできました。


 うわっ、怖っ!


 僕は思わず、視線をそらします。


 ……あっ、やっちゃった。


 これじゃあ、見たと自白したようなものじゃないですか。


 これから飛んでくるであろう、彼女の罵声に怯えていると、僕が視線を向けている先、登山道わきの茂みで、なにか黒いものが動きました。


 なんだろうと思って、よく目を凝らして見てみると……。


「……クマ!」


 驚きのあまり、思わず声を出してしまいました。


 僕の後ろから「えっ、クマ?」という八重城さんの声が聞こえました。


 彼女も、僕の声でクマの存在に気づいたようです。


 茂みから出てきたクマは、登山道の真ん中で立ち止まったまま、僕たちのほうを見ています。


 僕たちとの距離は三十メートルくらいでしょうか。


 なんで、この山にクマがいるんでしょうか。


 本来、この山、というかこの地域には、クマはいないはずです。


 事前のレクチャーでも、そう言ってました。


 だからこそ、僕たちはハイキングにきたのですが……。


 そういえば、クマはエサが不足すると、エサを探すために行動範囲が広くなるとか。


 じゃあ、このクマはほかの地域から、エサを求めにやってきたクマなのかも……。


 おっと、今はそんなことを考えている場合じゃありません。


 今、考えるべきことは、この事態にどう対処するか、です。


 僕は、レクチャーされていた、クマに遭遇した場合の対処法を思い出していました。


 大丈夫です、対処法はしっかり覚えてます。


 八重城さんも対処法は覚えてるはずですが、念のため、彼女にも声をかけておくことにします。


「そのまま動かないで。クマに背中を見せて、走って逃げたりすると、追いかけてくるから」


 そう言って、八重城さんのほうを向くと、彼女がいません。


「え?」


 少し先に、登山道を一目散に駆けのぼる、彼女の後ろ姿が見えました。


 八重城さんはすでに、この場から逃げ去っていたのでした。


 僕を置き去りにして――。


 振り返ると、彼女の逃げる姿に触発されたのか、さっきまで立ち止まっていたクマが、僕のほうへ突進してきます。


「うわあああっ!」


 叫ぶと同時に、僕は駆け出しました。


 叫び声が聞こえたからなのか、前方を走っている八重城さんが僕のほうを振り返りました。


「うそっ! なんで無事なの!」


 追いかけてくる僕を見て、そんなことを言ってます。


 今の発言で確信しました。


 八重城さんは、僕をクマのエサにして、自分だけ生き延びるつもりだったようです。


 どちらかが、クマのエサになるまで終わらない恐怖のレースは、こうして幕を開けたのです。




     ☆




 クマが僕を追いかけてきます。


 クマは百メートルを七秒台で走ることができるので、本気で追いかけられたら、人間は逃げ切ることができません。


 今、僕は八重城さんの後ろを走っていますが、これは非常にまずい状況です。


 このままでは、僕のほうが先に食べられてしまいます。


 助かるには、なんとかして、彼女の前に出ないといけません。


 僕は必死に八重城さんに追いつこうとしますが、彼女も全力で走っているらしく、なかなか、追いつけません。


 八重城さんとの壮絶なデッドヒートの末、ようやく、僕は彼女の隣に並ぶことができました。


 僕に並ばれた八重城さんが叫びます。


「あんたは私の後ろにいなさいよ!」


「勝手なこと言うな! なんで、僕が後ろにいなきゃいけないんだよ!」


 僕はそう言い返すと、そのまま八重城さんを追い抜こうとしました。


 その瞬間――。


「あぶなっ!」


 僕はつまずいて転倒しそうになりました。


 ――ですが、間一髪、こらえます。


 こんな状況で転倒したら、クマのエサになるのは確実です。


 僕は、なににつまずいたかをはっきりと見ました。


 地面に飛び出た石でもなく、木の根っこでもありません。


 ――八重城さんの足でした。


 追い抜こうとした僕に、八重城さんが足を引っ掛けたのです。


「なにするんだよ! 転ぶじゃないか! 僕を殺す気か!」


 僕は彼女の後ろを走りながら、怒鳴ります。


「あんたが私を抜こうとするからでしょ! 後ろにいなさいって言ってるでしょ!」


 八重城さんは、意地でも僕を抜かさない気のようです。


 いや、それどころか、彼女の性格からすると、自分が助かるために、あえて僕を転ばせて、クマのエサにしようと考えているのかもしれません。


 僕が食べられてしまえば、自分のしたことも隠蔽できるし、一石二鳥ですから。


 ――ああ、そうですか。


 そっちが本気で妨害するなら、こっちも本気を出すことにします。


 やられたときは、しっかり、やり返しますから!


 一方的に、やられてばかりなんていませんから!


 再び、僕が追い抜こうとすると、八重城さんは、またも足を掛けてこようとします。


 その瞬間――。


 僕は狙いすまして、彼女の足の甲を靴のかかとで思いっ切り、踏みつけました。


「ふんっ!」


「ぎゃあっ!」


 足を踏まれた彼女が、悲鳴をあげます。


 ――やりました!


 もとはといえば、そっちが最初に仕掛けてきたんですから、反撃されても、文句は言えませんよね?


 自業自得というものです。


 足を踏まれて痛いのか、八重城さんの走る速度がみるみるうちに遅くなって、彼女の姿が僕の視界から消えていきます。


「ま、待って、い、行かないで――」


 僕のすぐ後ろで、男に捨てられた女が言うような未練がましいセリフが聞こえますが、待つわけにはいきません。


 八重城さんを追い抜いて、これで身の安全が確保できたと僕が思った瞬間――。


 彼女が取った行動は、人間、命のためなら、なんでもするという、見本みたいな行動でした。


 追い抜かれた八重城さんは、僕の背負っているリュックを掴んだかと思うと、


「あんたが死になさいっ!」


 そう叫んで、そのまま、勢いよく後ろへ引っ張ったのです。


「うわあっ!」


 全力で走っている最中に、こんなことをされたら、たまりません。


 後ろに引っ張られた僕は、大きく体勢を崩し、地面に転がりました。


 地面に体のあちこちをぶつけながら、僕は思いました。


 こんなことをするんなら、転ぶとき、彼女の体も掴んで、道連れにしてやればよかった、と。


 まあ、今頃、そう思っても、もう遅いのですが――。




     ☆




 地面にうつぶせ状態になった僕が起き上がろうと、顔を上げると、前方にクマが見えました。


 クマはまっすぐ、僕のほうに向かって突進してきます。


「ひゃあああああ――――!」


 絶望的な状況に、僕は思わず絶叫します。


 クマは転倒した僕をターゲットにしたようです。


 そりゃ、当然ですよね。


 走って逃げる獲物より、動かない獲物を狩るほうが簡単なんですから。


 そ、そうです、今こそ、出発前に渡されていた、クマ撃退スプレーを使うときです!


 スプレーは――。


 ああっ、どうせ使わないだろうと思って、リュックの中に入れたままです!


 僕は慌てて、背中に手を回します。


 な、なーいっ!


 リュックがないことに今、気づきました!


 後ろから勢いよく、引っ張られたのと、地面に転がったせいで、リュックがすっぽ抜けて、どこかへいってしまいました。


 こうなると、僕がこの場でするべきことは、身を守るか、または攻撃して撃退するかのどちらかです。


 身を守るのなら、うつぶせになって、クマの攻撃をやり過ごす必要がありますが、本来なら、プロテクターがわりになってくれるリュックがないので、クマの攻撃をまともに背中で受けることになります。


 僕はクマが立ち去ったあとに、血まみれになって倒れている、自分を想像します。


 あわわわ、想像するだけで、急速に体中から力が抜けていきます。


 残るは、攻撃して撃退ですが、レクチャーでは身の守り方とスプレーの使い方を教わっただけで、クマを攻撃する方法なんて教わっていません。


 クマは、もう数メートル手前まできています。


 僕に襲いかかってくるまで、あと二、三秒といったところ。


 僕の十六年の人生を締めくくるべく、脳裏には、人生の思い出が走馬灯のように浮かんでは消えていきます。


 ま、待って、まだ、締めくくらないで。


 そんな中、僕は、子供の頃に見たテレビ番組で、動物の専門家が語っていた、ある言葉を思い出しました。


『万一、山とかでクマに襲われたときは、鼻を攻撃するんですよ。鼻はクマの弱点です。鼻を攻撃すれば、クマは驚いて逃げていきますよ』


 子供でもわかる、あまりにも現実離れしたことを専門家が大真面目に語っているので、当時の僕は、ツッコミを入れながら、笑い転げて見ていた記憶があります。


 もう、この専門家のアドバイスに賭けるしかありません!


 僕は意を決すると、うつぶせの姿勢から体を反転させ、クマのほうに足を向けて、地面に仰向けの姿勢をとります。


 そして、両足を曲げて、限界まで足を縮めます。


 クマが僕に襲いかかった、その瞬間――――。


 縮めておいた足を思い切り伸ばし、クマの鼻めがけて、両足揃えの渾身のキックを放ちました。


 鈍い音がして、僕のキックがクマの鼻にヒットします。


 と、同時に、僕は衝撃で吹っ飛びます。


 地面に突っ伏した僕が頭を起こすと、クマも吹っ飛んで、ひっくり返っているのが確認できました。


「当たった!」


 僕は興奮して思わず、叫びました。


 でも、渾身のキックをくらわせたにも関わらず、すぐにクマは起き上がります。


 キックされた鼻が痛いのか、しきりに手で鼻を撫でているようです。


 逃げる気配はありません。


 ――逃げないじゃん!


 机上の空論をのたまう専門家の言葉を信じてしまったことを後悔しましたが、もはや手遅れです。


 僕にはもう、怒り狂ったクマに食べられてしまう未来しか見えません。


 長く苦しむのはイヤだから、体のあちこちにかぶりつくのはやめて欲しいです。


 こちらの希望としては、ひと思いに頭にかぶりついて、瞬時に息の根をとめて欲しいです。


 そんなふうに僕は、自分を食べるときのマナーを心の中でクマにリクエストします。




     ☆




 ガサッ。


 突然、クマは茂みに入って姿を消しました。


「――――え?」


 十秒、二十秒、それ以上たってもクマは現れません。


 ようやく、なにが起きたのか、事態を把握できました。


「に、逃げた?」


 僕の渾身のキックを鼻にくらったクマは、そのまま近くの茂みに入り、立ち去ったのでした。


「はぁぁ――――――」


 全身の力が抜けました。


 自分の足を見ると、ガクガクと震えているのがわかります。


 恐怖からの震えでしょうか、それとも、クマを蹴ったときの衝撃で足を痛めたせいでしょうか。


 気づくと、僕を犠牲にして逃げたはずの八重城さんが、近くまで戻ってきていました。


「ふう。怖かったわね」


 彼女がため息まじりに言いました。


 僕は、いろいろ言いたくなるのを我慢して、震える足で立ち上がって、深呼吸して息を整えます。


「怖かったじゃないよ! 他人を犠牲にしてでも、自分だけは生き残ろうとする、八重城さんのほうが怖かったよ! 足を引っ掛けたり、後ろに引き倒したりして! 死ねとか言ってたし、僕を殺す気満々だったでしょ!」


 八重城さんは「はあ?」と言って、怪訝そうな表情をします。


「なに言ってんの。あんたが先に行ったら、私が喰われるでしょ。そんな顔してても男なんだから、身を挺して女を守りなさいよね。私のような美少女を命にかえて守れたのなら、今まで生きてきた甲斐があるというものでしょ!」


 恐ろしく、自己中心的なことを言ってきます。


 僕、こういう人をなんていうか知ってます。


 サイコパスっていうんですよね。


「もとはと言えば、八重城さんが背中を見せて、走って逃げ出したから、クマが追いかけてきたんじゃないか! 八重城さんが原因なんだよ! 八重城さんさえ逃げ出さなければ、うまくやり過ごせたかもしれないのに!」


 八重城さんと言い争っていると、引率の先生がこっちのほうへ歩いてきました。


 いつまでたっても僕たちが登ってこないから、探しにきたみたいです。


 僕が事情を説明しようとすると、八重城さんは僕の前に手を出して、喋るのを制止します。


「なにを――」


「あなたは黙ってて。話がややこしくなるから」


 八重城さんは、クマが出たことと、クマはすぐに茂みの中に姿を消したということを先生に伝えました。


 …………。


 あれっ、話はそれだけ?


 僕たちがクマに追いかけられたことと、一番肝心な、僕がクマに襲われたことが、すっぽりと抜けてます。


 話を聞いた先生は、慌てたようすで、ほかの先生とスマホで連絡をとりはじめました。


「なんで事実を伝えないんだよっ」


 僕は小声で八重城さんに尋ねます。


「そんなこともわからないの? いい? クマを目撃しました、すぐ消えました、だけだったら、直ちに校外学習を中止して、引き上げるだけですむでしょ。生徒が襲われたなんて言ったら、引率の先生の責任問題にまで発展するわよ。場合によっては、誰かクビになるかも。あなた、そんなに先生の処分を望んでるの?」


「そ、そんなわけないだろっ」


 そんな後味の悪い結果になるのはゴメンです。


「そうでしょ? それはイヤでしょ? だから余計なことは、言わないのが一番いいのよ」


 なんでこういうときだけ、他人に対して、思いやりのあることを言ってくるんでしょうか。


 ……サイコパスのくせに。


「クマが出たことさえ伝えておけば、今後、山への立ち入りが禁止されるはずだから、人が襲われるとかの被害が出ることはないわ。それで十分じゃない。あなたが余計なこと言ったら、問題が大きくなるのよ」


 うーん、なんだか、うまく言いくるめられているような気がしないでもありません。


 でも……、納得できる点もあります。


 八重城さんがこっちをにらんでいます。


 彼女の「余計なこと言うんじゃないわよ」圧がすごいです。


「……わ、わかったよ。じゃあ、八重城さんが先生に説明した通りでいいよ」


「わかればいいのよ」


 そう言うと、八重城さんは腕を組んで、勝ち誇ったような顔をしました。


 そんな彼女を見ていると、僕のほうが間違ってるみたいに思えて、妙にモヤモヤします。


 ただ、冷静になって考えてみると、今回のことは、僕と八重城さんしか知らないことだし、結果的に僕の命は無事で、大きな怪我もなかったから、彼女の言う通り、余計なことは言わずに、さっさと幕引きにする、それがやっぱり「一番いい答え」のような気がしてきました。


 ……自分の徹底した「事なかれ主義」に、われながら呆れてしまいますね。


 クマが出たということが、ほかの先生にも伝わったらしく、すぐに校外学習は中止となり、急遽、僕たちは学校へ戻ることになりました。


 なにはともあれ、生きて帰れてよかったです。




     ☆




 八重城です。


 ちょっと、ちょっとおおおっ!


 この話、なんなのよっ!


 私、完全に頭のおかしい女の子じゃない!


 もしかして、私って、一昔前にはやった、暴力ヒロインって位置づけなの?


 こんなの私じゃない!


 私は正統派ヒロインがいいの!


 こんな活躍の仕方はいーやー(ジタバタ)。


 …………。


 はぁはぁ。


 しかも!


 しっかり、あの男子に下着姿を見られてるじゃない!


 それなのに、見てないとウソをつくとか。


 おーのーれー、あの男子、許すまじ!


 私の下着姿を見た代償は、しっかり払わせてやるから!


 覚悟してなさいよ!

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