第3話 ハイキング
五月中旬。
橋本です。
僕は今、貸切バスに乗って、クラスメイトと一緒に目的地へと移動してる最中です。
目的地は、市街地の近くにある、学校が所有する山。
今日はそこで、僕たち、七本木学園高校の一年生は、校外学習のハイキングを行うのです。
まあ、一年生といっても、うちの学校は今年、開校したばかりだから、一年生しかいないんですが。
◇
僕たちを乗せたバスが、山のふもとにある駐車場にとまりました。
到着したようです。
駐車場には、すでに八台のバスがとまっています。
バスから降りた僕たちは、先生の指示に従い、ほかの生徒と同じように、駐車場に整列します。
ハイキングの服装は自由ということだったので、生徒はみんなそれぞれ、着ているものが違います。
僕は、Tシャツとマウンテンパーカーにチノパン、という格好ですが、もっとカジュアルな格好をした生徒もいれば、本格的な登山用の格好をした生徒もいます。
全員に共通しているのは、キャップを被って、リュックを背負っているということだけです。
駐車場に整列している僕たち全員に、クマ撃退スプレーとGPS発信機が配られました。
事前調査でこの近辺にクマはいないということだったので、クマ撃退スプレーは持っていても使うことはないはずですが、万一のためというわけです。
GPS発信機は、生徒の位置を把握するためのものらしいです。
九台のバスがずらりと並んだ駐車場で、先生が今日のスケジュール、注意事項について説明をしています。
説明が終わると、一組が出発し、ハイキングがはじまりました。
僕のいる九組は、最後の出発となります。
◇
登山道は、大人四人が横に並んで歩けるほどの幅があって、ある程度の舗装がされているので、山歩きに不慣れな僕たちでも、スムーズに歩けるようになっています。
僕はその登山道を一人で黙々と歩いてます。
みんなが友達同士でお喋りしながら、楽しそうに歩いてるのとは対照的です。
出発してから、一時間ほどたちますが、ずっとこの状態です。
誰も僕に話しかけてこないし、僕も、誰かに話しかけることはしていません。
なんでかって?
いや、だって、僕、その、ゴニョゴニョ……。
…………。
つ、つまり、友達がいないんですよ。
ぼっちなんです。
もちろん、好きでぼっちになったわけじゃありません。
入学早々、友達づくりで慌てることはない、と思ってのんびり構えていたら、いつの間にか、ぼっちになっていたんです。
小学校、中学校と、今まで、ぼっちだったことはなかったので、友達づくりを甘くみていたのかもしれません。
クラスでは、もう友達グループが完全にできあがってるので、僕がこれから、新たに友達をつくるのは難しいんじゃないかな、と思います。
こういう校外学習って、いつもと違うことが体験できるのはいいんですが、僕みたいな、友達いない人にとっては、苦痛なんですよね。
スケジュールでは、頂上まで登ったら、そこで、持ってきたお弁当を食べることになっています。
でも、僕は友達がいないから、そのときは一人です。
そして、さらにそのあと、自由時間もありますが、このときも一人です。
今日は、ぼっちの僕にとっては、つらい一日になりそうです。
◇
あんまり、トボトボ歩いてたものだから、みんなとだいぶ距離が離れてしまったようです。
追いつこうと思って、僕が急ぎ足で歩いていると、途中で、岩に腰かけて休んでいるロングヘアの女子と出くわしました。
クラスメイトの渡辺さんです。
彼女は、ピンクのアウトドアジャケットを着て、レギンスとベージュのショートパンツを履いています。
スポーツドリンクの入ったペットボトルを手にしているので、水分補給をしているようです。
渡辺さんはクラスでも、というか学年でも、目を引くほどの美少女です。
ただ、どういうわけか、友達と一緒にいるのを見たことがありません。
いつも一人です。
彼女のまわりには、誰もいないから、今日も一人、ということなんでしょう。
渡辺さんは僕が見ていることには、気づいていないようです。
僕は立ち止まって、考えました。
このまま進むと、彼女の前を通ることになるけど、無言で通り過ぎるのは変ですよね?
せめて「やあ」とか「よお」みたいな声はかけるべきだと思うんですが、僕は彼女と一度も話したことがないし、面識のない相手に、こういう声をかけるのは、ちょっとなれなれしいような気がします。
じゃあ「こんにちは」って言おうかと思ったけど、これだと他人行儀すぎて、クラスメイトにする挨拶じゃないような気がします。
うーん……。
僕が、そんなつまらないことで悩んでいると、渡辺さんが突然、上着を脱ぎはじめました。
かと思ったら、その下に着ているインナーも脱いで、彼女はあっという間に、上半身、ブラだけの姿に――。
えええええええっ!
なっ、なんで脱いだの?
っていうか、み、見てしまいました!
ピンク色のレースのブラでした!
しかも、かなり大きいです!
グレープフルーツが二つ並んでいる、みたいな!
インナーを脱いだときなんか、ブラをつけてるのに、胸がぶるんと揺れたほどです。
彼女はそのあと、胸の谷間をタオルで、念入りに拭いてました。
やっぱり、胸の大きな女の子は、そこに汗をよくかくんでしょうか。
これだけ胸が大きいと、いわゆる「寄せて上げる」とかの小細工をしなくてもすむんでしょうね。
ウエストもくびれていて、すごく、その、綺麗でした。
渡辺さんはそれから、別のインナーを着たので、どうやら着替えがしたかったみたいです。
その後、彼女は何度かペットボトルを口にして、カラになったペットボトルを隣の岩に置いてあるリュックの中にしまいました。
……大変なものを見ちゃいました。
あとで反動がこないといいけど。
そ、そうだ、僕が見ていることに気づかれたら、えらいことになります。
気づかれてない今のうちに、きた道をUターンして戻って、出直したほうがいいかも、なんて考えていたら――。
休憩を終えて、岩から下りた彼女と目が合ってしまいました。
はわっ!
渡辺さんが僕を見て、ギョッとしたような表情をしました。
やっぱり、僕がいることに、気づいていなかったようです。
僕たちのクラスは九組で、最後だし、みんなは先に行ってしまったし、もう誰もこないと思って、油断していたんでしょうね。
彼女はすぐに真顔になると「……ねえ、見た?」と僕に聞いてきました。
ゴクっ……。
これは当然、着替えを見たか、という意味ですよね?
もし「見た」って言ったら、どうなるんでしょうか。
……嫌な予感がします。
見たのは事実ですが、ここで正直に「見た」というほど、僕は、危機管理能力が低い男ではありません。
僕は「えっ、なにを?」と返します。
すると彼女は、すかさず「あなたがきたとき、私はなにをしていたかしら?」と言い直して聞いてきました。
これは、徹底的に追求する気ですね。
ボロを出さないように、うまく、かわさないといけません。
僕は「えっと、ペットボトルをリュックにしまっていたけど」と答えました。
こう言えば、下着姿を見られてないことがわかるので、渡辺さんは、大人しく引き下がるはずです。
と思ったら、僕を鋭い目でにらんできました!
うわっ、こわっ!
えっ、バレた?
いや、そんなはずは……。
証拠はないんだから、これはただ、僕を怪しんでいるだけだと感じつつも、後ろめたさから、思わず、視線をそらしてしまいます。
……あ、やっちゃった。
これじゃ、見たと自白したようなものです。
僕は罵声を浴びせられると思い、反射的に身構えます。
すると、僕が視線を向けている先、さっき通ってきた登山道わきの茂みで、なにか黒い大きなものが動きました。
なんだろうと、目を凝らしてみると……。
「……クマ!」
驚きのあまり、思わず声を出してしまいました。
僕の後ろから「えっ、クマ?」という渡辺さんの声が聞こえました。
彼女も、僕の声でクマの存在に気づいたようです。
茂みから出てきたクマは、登山道の真ん中で立ち止まったまま、僕たちのほうを見ています。
大きさは、人の大人くらいです。
全身、真っ黒で、胸のところに白い模様みたいなのが見えます。
ツキノワグマというやつです。
ヒグマと比べると、それほど大きくありませんが、クマには変わりないので、もちろん、人間が勝てる相手ではありません。
僕たちとの距離は三十メートルくらいでしょうか。
なんで、この山にクマがいるんでしょう。
本来、この山、というかこの地域には、クマはいないはずです。
事前のレクチャーでも、そう言ってました。
だからこそ、僕たちはハイキングにきたのですが……。
そういえば、クマはエサが不足すると、エサをさがすために行動範囲が広くなるとか。
じゃあ、このクマはほかの地域から、エサを求めにやってきたクマなのかも……。
おっと、今はそんなことを考えている場合じゃありません。
今、考えるべきことは、この事態にどう対処するか、です。
実は僕たちは、ハイキングにくる前に、万一の場合に備えて、山でクマと遭遇した場合の対処法をレクチャーされていました。
クマと遭遇した場合、背中を見せて逃げるのは厳禁。
背中を見せて逃げるとクマは追ってくるから、逃げるときは、ゆっくり、後ずさるようにしなければならない、と。
大丈夫です、対処法はしっかり覚えてます。
渡辺さんも対処法は覚えてるはずですが、念のため、彼女にも声をかけておくことにします。
「そのまま動かないで。クマに背中を見せて、走って逃げたりすると、追いかけてくるから」
そう言って、渡辺さんのほうを向くと、彼女がいません。
「え?」
少し先に、登山道を一目散に駆けのぼる、彼女の後ろ姿が見えました。
渡辺さんはすでに、この場から逃げ去っていたのでした。
僕を置き去りにして――。
振り返ると、彼女の逃げる姿に触発されたのか、さっきまで立ち止まっていたクマが、僕のほうへ突進してきます。
「うわあああっ!」
叫ぶと同時に、僕は駆け出しました。
叫び声が聞こえたからなのか、前方を走っている渡辺さんが僕のほうを振り返りました。
「うそっ! なんで無事なの!」
追いかけてくる僕を見て、そんなことを言ってます。
今の発言で確信しました。
渡辺さんは、僕をクマのエサにして、自分だけ生き延びるつもりだったようです。
どちらかが、クマのエサになるまで終わらない恐怖のレースは、こうして幕を開けたのです。
◇
クマが僕を追いかけてきます。
クマは百メートルを七秒台で走ることができるので、本気で追いかけられたら、人間は逃げ切ることができません。
今、僕は渡辺さんの後ろを走っていますが、これは非常にマズい状況です。
このままでは、僕のほうが先に食べられてしまいます。
助かるには、なんとかして、彼女の前に出ないといけません。
必死に走って、なんとか渡辺さんに追いつき、隣に並ぶと、彼女が僕に向かって、叫びました。
「あんたは私の後ろにいなさいよ!」
「勝手なこと言うな! なんで、僕が後ろにいなきゃいけないんだよ!」
僕はそう言い返すと、そのまま渡辺さんを追い抜こうとしました。
その瞬間――。
「あぶなっ!」
僕はつまずいて転倒しそうになりました。
――ですが、間一髪、こらえます。
こんな状況で転倒したら、クマのエサになるのは確実です。
僕は、なににつまずいたかをはっきりと見ました。
地面に飛び出た石でもなく、木の根っこでもありません。
――渡辺さんの足でした。
追い抜こうとした僕に、渡辺さんが足を引っ掛けたのです。
「なにするんだよ! 転ぶじゃないか! 僕を殺す気か!」
僕は彼女の後ろを走りながら、怒鳴ります。
「あんたが私を抜こうとするからでしょ! 後ろにいなさいって言ってるでしょ!」
渡辺さんは、意地でも僕を抜かさない気のようです。
いや、それどころか、彼女の性格からすると、妨害のためじゃなく、自分が助かるために、あえて僕を転ばせて、クマのエサにしようと考えているのかもしれません。
僕が食べられてしまえば、自分のしたことも隠蔽できるし、一石二鳥ですから。
――ああ、そうですか。
そっちが本気で妨害するなら、こっちも本気を出すことにします。
やられたときは、しっかり、やり返しますから!
一方的に、やられてばかりなんていませんから!
再び、僕が追い抜こうとすると、渡辺さんは、またも足を掛けてこようとします。
その瞬間――。
僕は狙いすまして、彼女の足の甲を靴のかかとで思いっ切り、踏みつけました。
「ふんっ!」
「ぎゃあっ!」
足を踏まれた彼女が、悲鳴をあげます。
――やりました!
もとはといえば、そっちが最初に仕掛けてきたんですから、反撃されても、文句は言えませんよね?
自業自得というものです。
足を踏まれて痛いのか、渡辺さんの走る速度がみるみるうちに遅くなって、彼女の姿が僕の視界から消えていきます。
「ま、待って、い、行かないで――」
僕のすぐ後ろで、男に捨てられた女が言うような未練がましいセリフが聞こえますが、待つわけにはいきません。
渡辺さんを追い抜いて、これで身の安全が確保できたと僕が思った瞬間――。
彼女が取った行動は、人間、命のためなら、なんでもするという、見本みたいな行動でした。
追い抜かれた渡辺さんは、僕の背負っているリュックを掴んだかと思うと、
「あんたが死になさいっ!」
そう叫んで、そのまま、勢いよく後ろへ引っ張ったのです。
「うわあっ!」
全力で走っている最中に、こんなことをされたら、たまりません。
後ろに引っ張られた僕は、大きく体勢を崩し、地面に転がりました。
地面に体のあちこちをぶつけながら、僕は思いました。
こんなことをするんなら、転ぶとき、彼女の体も掴んで、道連れにしてやればよかった、と。
まあ、今頃、そう思っても、もう遅いのですが――。
◇
地面から起き上がろうとして顔を上げると、前方にクマが見えました。
クマはまっすぐ、僕のほうに向かって突進してきます。
「ひゃあああああ――――!」
僕は思わず絶叫します。
クマは、地面に倒れている僕をターゲットにしたようです。
そりゃ、当然ですよね。
走って逃げる獲物より、動かない獲物を狩るほうが簡単なんですから。
そ、そうです、今こそ、出発前に渡されていた、クマ撃退スプレーを使うときです!
スプレーは――。
ああっ、どうせ使わないだろうと思って、リュックの中に入れたままです!
地面にへたり込んでいる僕は、慌てて、背中に手を回します。
な、なーいっ!
リュックがないことに今、気づきました!
後ろから勢いよく、引っ張られたのと、地面に転がったせいで、リュックがすっぽ抜けて、どこかへいってしまいました。
こうなると、僕がこの場でするべきことは、身を守るか、または攻撃して撃退するかのどちらかです。
身を守るのなら、うつぶせになって、クマの攻撃をやり過ごす必要がありますが、本来なら、プロテクターがわりになってくれるリュックがないので、クマの攻撃をまともに背中で受けることになります。
僕はクマが立ち去ったあとに、血まみれになって倒れている自分を想像します。
あわわわ、想像するだけで、急速に体中から力が抜けていきます。
残るは、攻撃して撃退ですが、レクチャーでは、身の守り方とスプレーの使い方を教わっただけで、クマを攻撃する方法なんて教わっていません。
クマは、もう数メートル手前まできています。
僕に襲いかかってくるまで、あと二、三秒といったところ。
僕の十六年の人生を締めくくるべく、脳裏には、人生の思い出が走馬灯のように浮かんでは消えていきます。
ま、待って、まだ、締めくくらないで。
そんな中、僕は、子供の頃に見たテレビ番組で、動物の専門家が語っていた、ある言葉を思い出しました。
『クマが襲ってきたら、鼻をパンチかキックして追い払うんですよ。鼻はクマの弱点です。鼻を攻撃すれば、クマは驚いて逃げていきますよ』
子供でもわかる、あまりにも現実離れしたことを専門家が大真面目に語っているので、当時の僕は、ツッコミを入れながら、笑い転げて見ていた記憶があります。
もう、この専門家のアドバイスに賭けるしかありません!
僕は意を決すると、地面に仰向けの姿勢をとって、クマのほうに足を向けます。
そして、両足を曲げて、限界まで足を縮めます。
クマが僕に襲いかかった、その瞬間――――。
縮めておいた足を思い切り伸ばし、クマの鼻めがけて、両足揃えの渾身のキックを放ちました。
鈍い音がして、僕のキックがクマの鼻にヒットします。
と同時に、僕は衝撃で吹っ飛びます。
地面に突っ伏した僕が頭を起こすと、クマも吹っ飛んで、ひっくり返っているのが確認できました。
「当たった!」
僕は興奮して思わず、叫びました。
でも、渾身のキックをくらわせたにも関わらず、すぐにクマは起き上がります。
キックされた鼻が痛いのか、しきりに手で鼻を撫でているようです。
逃げる気配はありません。
――逃げないじゃん!
机上の空論をのたまう専門家の言葉を信じてしまったことを後悔しましたが、もはや手遅れです。
僕にはもう、怒り狂ったクマに食べられてしまう未来しか見えません。
長く苦しむのはイヤだから、体のあちこちにかぶりつくのはやめて欲しいです。
こちらの希望としては、ひと思いに頭にかぶりついて、瞬時に息の根をとめて欲しいです。
そんなふうに僕は、自分を食べるときのマナーを心の中でクマにリクエストします。
◇
ガサッ。
突然、クマは茂みに入って姿を消しました。
「――――え?」
十秒、二十秒、それ以上たってもクマは現れません。
ようやく、なにが起きたのか、事態を把握できました。
「に、逃げた?」
僕の渾身のキックを鼻にくらったクマは、そのまま近くの茂みに入り、立ち去ったのでした。
「はぁぁ――――――」
全身の力が抜けました。
自分の足を見ると、ガクガクと震えているのがわかります。
恐怖からの震えでしょうか、それとも、クマを蹴ったときの衝撃で足を痛めたせいでしょうか。
気づくと、僕を犠牲にして逃げたはずの渡辺さんが、近くまで戻ってきていました。
「ふう。怖かったわね」
彼女がため息まじりに言いました。
僕は、いろいろ言いたくなるのを我慢して、震える足で立ち上がって、深呼吸して息を整えます。
「怖かったじゃないよ! 他人を犠牲にしてでも、自分だけは生き残ろうとする、渡辺さんのほうが怖かったよ! 足を引っ掛けたり、後ろに引き倒したりして! 死ねとか言ってたし、僕を殺す気満々だったでしょ!」
渡辺さんは「はあ?」と言って、怪訝そうな表情をします。
「なに言ってんの。あんたが先に行ったら、私が喰われるでしょ。そんな顔してても男なんだから、身を挺して女を守りなさいよね。私のような美少女を命にかえて守れたのなら、今まで生きてきた甲斐があるというものでしょ!」
恐ろしく、自己中心的なことを言ってきます。
僕、こういう人をなんていうか知ってます。
サイコパスっていうんですよね。
「もとはと言えば、渡辺さんが背中を見せて、走って逃げ出したから、クマが追いかけてきたんじゃないか! 渡辺さんが原因なんだよ! 渡辺さんさえ逃げ出さなければ、うまくやり過ごせたかもしれないのに!」
渡辺さんと言い争っていると、引率の先生がこっちのほうへ歩いてきました。
いつまでたっても僕たちが登ってこないから、さがしにきたみたいです。
僕が事情を説明しようとすると、渡辺さんは僕の前に手を出して、喋るのを制止します。
「なにを――」
「あなたは黙ってて。話がややこしくなるから」
渡辺さんは、クマが出たことと、クマはすぐに茂みの中に姿を消したということを先生に伝えました。
…………。
あれっ、話はそれだけ?
僕たちがクマに追いかけられたことと、一番肝心な、僕がクマに襲われたことが、すっぽりと抜けてます。
話を聞いた先生は、慌てたようすで、ほかの先生とスマホで連絡をとりはじめました。
「なんで事実を伝えないんだよっ」
僕は小声で渡辺さんに尋ねます。
「そんなこともわからないの? いい? クマを目撃しました、すぐ消えました、だけだったら、直ちに校外学習を中止して、引き上げるだけですむでしょ。生徒が襲われたなんて言ったら、引率の先生の責任問題にまで発展するわよ。場合によっては、誰かクビになるかも。あなた、そんなに先生の処分を望んでるの?」
「そ、そんなわけないだろっ」
そんな後味の悪い結果になるのはゴメンです。
「そうでしょ? それはイヤでしょ? だから余計なことは、言わないのが一番いいのよ」
なんでこういうときだけ、他人に対して、思いやりのあることを言ってくるんでしょうか。
……サイコパスのくせに。
「クマが出たことさえ伝えておけば、今後、山への立ち入りが禁止されるはずだから、人が襲われるとかの被害が出ることはないわ。それで十分じゃない。あなたが余計なこと言ったら、問題が大きくなるのよ」
うーん、なんだか、うまく言いくるめられているような気がしないでもありません。
でも……、納得できる点もあります。
渡辺さんがこっちをにらんでいます。
彼女の「余計なこと言うんじゃないわよ」圧がすごいです。
「……わ、わかったよ。じゃあ、渡辺さんが先生に説明した通りでいいよ」
「わかればいいのよ」
そう言うと、渡辺さんは腕を組んで、勝ち誇ったような顔をしました。
そんな彼女を見ていると、僕のほうが間違ってるみたいに思えて、妙にモヤモヤします。
ただ、冷静になって考えてみると、今回のことは、僕と渡辺さんしか知らないことだし、結果的に僕の命は無事で、大きな怪我もなかったから、彼女の言う通り、余計なことは言わずに、さっさと幕引きにする、それがやっぱり「一番いい答え」のような気がしてきました。
……自分の徹底した「事なかれ主義」に、われながら呆れてしまいますね。
クマが出たということが、ほかの先生にも伝わったらしく、すぐに校外学習は中止となり、急遽、僕たちは学校へ戻ることになりました。
なにはともあれ、生きて帰れてよかったです。
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