魔女のレンズ 〜砂礫の国の魔女の話〜
七緒ナナオ
第1話 砂漠の魔女と天候予知
「いつ見ても綺麗。このまま
ほう、とこぼれる囁きは熱い。
アーティカは、蛍石を磨いて作ったレンズを愛しそうに眺めて、ため息を吐いた。
レンズを見つめる双眸は、色混ざりのないクリアブルーの蛍石より濃く神秘的な瑠璃色で、上向く睫毛に縁取られている。腰まで伸びる波打つ髪は、夜の海を思わせる藍黒だ。
あと数ヶ月で二十歳になろうとしている若い肌は、豊かな麦畑を思わせる褐色で、香油を塗り込まれたからか艶めいている。けれどその全貌は薄絹作りのガウンで包まれ隠されていた。
「ああ、本当に綺麗。世界で一番、綺麗だわ」
小さくてまぁるい蛍石レンズを眺めていると、ガウンの下に身につけた
アーティカは、これがただの現実逃避に過ぎないことを百も承知していた。それがわかっていながら、レンズを眺めることをやめられない。
レンズを通して視る世界は、アーティカの興味を惹きつけて止まない。
ときにはその輪郭を拡大させて、ときには逆転させて、ほんのりと色付く世界は希望ある未来を垣間見ているかのようで、美しい。
レンズは、いい。とても、いい。
アーティカがいる場所が、交易都市バルガの奴隷商館の
「姫様、そろそろお召し物を整えましょう。それとも化粧をいたしますか?」
アーティカの身分が、まだ王女であったときからの女召使であるサリアが言った。
サリアはアーティカより二つ年上だ。三年前に砂礫の帝国ディマシュカに祖国を攻め滅ぼされ、二年半ともに逃亡生活を送り、その後奴隷落ちした今でも、アーティカを姫様と呼んで世話を焼いてくれている。
「うん、そうね……うん」
うっとりとレンズを眺めているアーティカは、サリアの言葉に空返事で頷いた。
ここは、アーティカ以外にも身支度をしている女たちがひしめく女性部屋。白粉と香油の香りが漂う部屋で、行く先が奈落であるとわかっていても身支度をする。
窓際の化粧台と向き合っていたアーティカは、現実から逃げるかのように手の中のレンズをころりと転がし、宙空に掲げた。
手のひらにすっぽりと収まるレンズを透かして、数多の星が輝く窓の外を見る。
レンズを通して視た夜の砂漠に、灼熱と砂塵を巻き上げながら迫り来る嵐を視た。
砂嵐が来る。
熱風とともに、
「サリア、わたしを着飾っても意味がないわ。今夜はもう、どこにも行けない」
夜の砂嵐は危険だ。熱風を伴う死の嵐なら尚のこと。巻き込まれれば乾涸びて、砂漠の砂に成り果てる。
アーティカは顔を上げて、レンズをぎゅっと握った。
もう、着飾らなくていいんじゃない? そう訴える瑠璃色の目には、期待と不安が入り混じっている。
けれどサリアは眉間に皺を寄せて、肩が上下するほど大きく息を吐き出した。
「姫様、またその丸い
「読書石じゃないわ、レンズと呼んで。これは書物の文字を拡大させるだけの石じゃない。わたしが磨いて造ったレンズよ」
「はいはい、そうでしたね。レンズを通して未来を視たのですか?」
「未来じゃないわ、天気予知よ」
アーティカは魔女だ。常人には持ち得ない不思議な技を持っている。けれど魔女であっても、アーティカは自国の滅亡を防ぐことができなかった。
魔女としてのアーティカができることといえば、レンズを通して未来や過去を視ることだけ。そして、レンズで観測した未来は確定してしまう。
どう足掻こうと、アーティカの力では観測した未来を変えることまでできない。
結局、無力な魔女なのだ。アーティカが感傷に浸っていると、サリアがパチンと両手を合わせた。
「さ、準備を進めましょう。姫様はこれから、砂礫の帝国ディマシュカの
「後宮という名の
「姫様。私は姫様が、不思議な力を持っていることを知っております。ですからきっと、砂嵐も来るのでしょう。それでも支度はしなければ」
「……そうね、誰だって鞭で打たれたくはないものね」
仕方がない、と首を振りながら、アーティカは諦めたようにため息を吐いた。
アーティカもサリアも今の身分は奴隷である。偶然ふたりを捕らえて奴隷に貶めた主人は短気で、些細なことでも鞭を打つ。
三日前もアーティカは、ぼうっと本を読んでいたことを咎められて鞭打たれたばかりだ。あの時の痛みを思い出して、アーティカはブルリと身体を震わせた。
だからアーティカは、サリアにされるがままに化粧を施し、着飾った。
両の目蓋に乗るのは
ガウンを脱いだ身体には、
鏡に映るアーティカは、青い宝石のように美しかった。けれど、アーティカは飾られた自身の姿を、虚無を見るような目で眺めていた。
すると、である。
「準備はできたかな、お姫様方。ふむ……これは高く買っていただけそうだ」
部屋の扉を開けて入ってきたのは、アーティカたち奴隷の主人マルワーンだ。
腰に丸くまとめた長鞭を下げ、下卑た鋭い眼光でアーティカや他の女奴隷を値踏みしている。でっぷりとした腹回りの肉が、壮年に差しかかったマルワーンが商人として優秀な部類であることをあらわしていた。
誰もが皆、床に伏して頭を下げている中で、アーティカだけが顔を上げていた。
「ご主人様、砂嵐がやって参ります。死の嵐です」
「……なんだって? 砂嵐?」
マルワーンは怪訝な表情を浮かべるも、すぐにアーティカの進言を笑い飛ばした。
「ははは、妄言はよせ。いくらお前が魔女でも、
「わたしが呼ぶのではなく、来るのです。あなたも砂漠の民なら、嵐が突然やってくることをご存知でしょう?」
「口を慎め、たかが女奴隷が偉そうに。いいか、今のお前はただの女奴隷だ!」
アーティカの訴えは届かなかった。マルワーンの顔が途端に赤く染まり、腰に下げていた長鞭の戒めを解いた。
ひゅわんと鞭をしならせて、マルワーンがアーティカを打つ。腿を打たれたアーティカの喉が悲鳴を上げた。
「あぁっ……!」
サリアが飾り付けてくれたコインが千切れ、床に散らばった。薄衣のドレスは裂けて、赤い痣が浮かぶ肌が見え隠れしている。
アーティカは、青褪めていくサリアの顔を見ながら、奥歯を噛み締めた。そうして気丈に顔を上げ、鞭を恐れず訴える。
「死の嵐が来るのです。今夜、後宮に向けて出立したら、巻き込まれてしまいます」
アーティカの瑠璃色の視線が、マルワーンを鋭く射抜いた。
祖国が滅びを迎えた日。帝国に蹂躙されゆく王都を、アーティカはなす術もなく見守ることしかできなかった。
ここでアーティカが諦めてしまっては、救える命がまた失われる。亡国の王女としての自覚が、アーティカを奮い立たせていた。
けれど、アーティカの訴えは無惨にも、マルワーンのため息ひとつで消し飛んだ。
「駄目だ、駄目だ。皇帝陛下がお望みなのだ、予定を変えることはない。まったく……魔女だかなんだか知らないが、どうして陛下はこんな気味の悪い女を望むのか」
首を横へ振るマルワーンに、なおも食い下がろうとアーティカが腰を浮かした、その時だった。
部屋の扉のその向こう。商館の玄関方向から複数の男たちが言い争うような騒めきが聞こえてきたのだ。
アーティカたちがいる部屋に、徐々に近づいてくる喧騒を疎ましく思ったらしいマルワーンが、扉の向こうを怒鳴りつけた。
「何事だ、うるさいぞ!」
「い、異端審問官です! 異教の異端審問官が魔女を寄越せと!」
「なんだと?」
「あっ、いけません審問官様! この部屋は商品の管理部屋で……」
酷く青褪めた顔をした下男の制止を聞かずに、部屋へ押し入ってきたのは、まばゆい容姿の異端審問官たちだった。
誰もが皆、背が高く、髪も目の色も明るい。砂漠の民が持ち得ない白さは異教の民の象徴だ。白く輝いているのは容姿だけではなく、衣服も同じ。
立襟の白いコートに金糸で刺された刺繍。磨いた
「サリア、異端審問官ですって……はじめて見たわ、綺麗ね」
「しっ。姫様、お静かに! 精霊や魔術を否定する野蛮な異教の
「でも、美しいわ。もっと怖くておぞましい人たちだと思っていたのに」
アーティカたち砂漠の民が伝え聞いている異端審問官は、
黒い服に身を包み、自分たちが信じる神以外の存在を認めない。魔女などもってのほかで、捕らえた端から処刑する。
そう聞いていたのに、アーティカの前にあらわれた彼らは白く、美しい。特に、彼らの先頭に立つ審問官は、誰よりも神秘的な輝きを放っていた。
癖のない金髪は少し燻んでいるけれど、憂うように垂れ下がる碧眼を際立たせているかのよう。背筋だってピンと伸びている。
歳は一番若く、アーティカより少し上くらいに見えるけれど、きっと、彼が審問官たちの長だ。
こんなに美しい人間が、本当に
アーティカは自分が魔女であることも忘れて、魔女の天敵である異端審問官を食い入るように見つめていた。
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