第1話 半端者じゃなく、成り損ないとして

 学校から徒歩圏内というのはなんと楽なことか。無駄に電車に揺られることもなければ、この暑い中バス停でバスを待つこともない。朝も少しくらい寝坊したって、急げば間に合うのだから引っ越しは大成功だ。

「ただいま」

 ドアを開けても返事はない。看護師である母、金子きんす 真里まりは今日から一週間、夜勤だと言っていた。部屋に荷物を置いてからリビングに行くと一枚の置手紙が。


                  颯へ

                お帰りなさい。

             可愛い♡可愛い♡颯の母さんは

             今から夜勤に行ってきます。

             テストで疲れているだろうから

       久しぶりに母さんが愛情たっぷりの夕飯を作っておきました。

          冷蔵庫に入っているので温めて食べてください。

              代わりに洗濯物よろしくね♪


                   PS.

            テストの結果は必ずすること


 文字の周りをハートやらで無駄に可愛くする癖は昔から。学校に提出する手紙に♡を書こうとしたことも今では懐かしい思い出だ。やたらと自己肯定感が強いことに対するツッコミをするよりも危険な文を見つけ、颯は急いでキッチンの冷蔵庫を開ける。

 (終わった…)

 皿に乗っているのはハンバーグ…だと思われるもの。形に関しては目をつむれる。問題は色だ。黒い。異常なほど黒い。もはや炭じゃないか?颯は恐る恐るラップをはがし、黒い物体を箸でつつく。コンコン、と食べ物から出るはずの無い音に苦笑い。何とか半分に切り離すと中はきれいなピンク色。言い方を変えれば生だ。おまけに、付け合わせに作られたサラダの上に何故、生卵が乗っているのだろうか。しかも殻入りで。

「何をどうしたらこうなるんだよ…」

 颯はため息をつき、頭を抱える。真里は言わずもがな料理が苦手だ。火を使えば丸焦げにし、包丁を使えばまな板ごと切る騒ぎ。昔はうどんを茹でたはずなのに小麦粉の塊が出てきた。おかげで分担していた家事も、料理だけは颯の担当となった。

 忙しい母が息子の為にと善意でやってくれるのは感謝するが、出されたものを見れば苦行でしかない。一先ず、これはゴミと考えて冷蔵庫の中を確認する。材料さえあれば何かは作れるだろう。そう考えるも冷蔵庫の中は空っぽ。テストで忙しく、買い物にも行けていなかった。時刻は午後5時半。何も作らずこのままふて寝するか。そう考えるも颯の腹は食べ物を欲して声を上げる。

 颯がここまで買い物を渋るのも仕方がなかった。学校までは徒歩圏内というこのアパートもコンビニ、スーパーまでは少し遠い。徒歩で行こうものなら片道30分はかかる。

 悲運にも愛用の自転車はこの前パンクし修理に出したばかりで、返ってくるのは2日後。やっぱり、引っ越しは失敗だったかもしれない。

「はぁ、仕方ないか…」

 意を決して颯はキッチンから出ると自室に行き、財布とスマホを取りに行く。窓の外を見ると綺麗な夕焼けが広がっており、ベランダに干してある洗濯物が雨に濡れることはない。買い物帰りでいいだろう。颯は今日何度目かもわからないため息をつきながら家を出た。


 スマホに連動したBluetoothのイヤホンから音楽を流し、颯は何とかこの30分を誤魔化す。自転車が戻ってくるまでの2日分の材料まで必要だろうと考えて、コンビニではなくスーパーを目指すことにした。何が悲しくてこんなこと。どれだけ誤魔化してもこの気分だけは下がったままだ。

「えーっと…こんなもんか」

 カゴに入ったものを確認してレジに向かう。重い食材は帰りを考えて諦めるしかなかった。

「全部で3,260円になります」

「これで」

「740円のお返しになります。ありがとうございましたー」

 店員にお金を渡して買ったものを袋に詰めていく。とんだ出費だ。生活費は真里が管理している為、後で上乗せして請求しよう。袋を持ってスーパーを後にする。これから30分、また歩かなくてはいけない。タクシーやバスでも使いたいところだが、財布の中は心もと無い。先ほどまで明るかった空も暗くなり始めていた。すれ違う人々も学生ではなくスーツを着た社会人が多い。

『聞いた?昨日、青木さん療養施設に入ったんですって』

『聞いたわ。旦那さんのDVが原因だったんでしょ?そんな風には見えなかったけど、嫌よねぇ。家はだったから良かったけれど、浄化区域は大変だったんでしょ?本当、困るわ』

 すれ違う主婦から聞こえる会話にまたか、と思う。

 いじめにパワハラやDV、SNSでの罵詈雑言にブラック企業。その他、諸々。そんなものが蔓延る現代に突如現れた新しい病。自分の周りに黒い煙が現れ、黒い煙に包まれた者はソレに意識を乗っ取られ、暴徒化するという。

 耐えきれなくなった心の闇が具現化して起こるその病は『心闇病こあんびょう』と言われ、現代社会では風邪の次に多いと言われている病だ。暴徒化した者の煙を吸うと感染するらしく、浄化という治療をしないと2、3日のうちに自分も発症するという厄介な性質まで持っている。

 そんな心闇病は今だ謎が多い。一般の病院では扱えないらしいそれを管理、治療しているのが心闇管理局こあんかんりきょくと言われる施設。政府公認の独立機関で心闇病患者の治療に研究。療養、更生と全てを担う施設だ。多分、政府の次くらいに大きい施設なんじゃないか。ちなみに、真里は心闇管理局内にある療養施設の看護師として働いている。

 真里のおかげで心闇病に対して人より詳しいとは思うが、全てを理解しているわけではない。療養施設で働く真里は多くを喋らない。というのも、患者のプライベートに係わるということで口外禁止となっているから。話すのは新しい感染方法や人手不足の悩みのみ。仕事が仕事な為に休日は週3日。手当も充実していて給料も良い。それでも人が足りないのは心闇病の感染リスクが高いから。

 心闇病患者は法律で守られてはいるが、そうとはいかないのが人間だ。迷惑がって腫物扱い。そしてそれは心闇管理局で働く者にも否応なしに向けられる。今ではそれなりに収まっているが、最初は酷いものだった。そのせいで颯達は前のアパートを追い出され、療養施設で働く人々の多い今のアパートに引っ越したのだ。

 (…これじゃ、どれだけ治療しても無くならない)

 真里は性格的に今の仕事が合っているらしいが、颯を気遣って一度は辞めようとした。颯としてもここまで育ててくれた恩もあるし、真里を誇りに思っているので少しくらい嫌味を言われようが気にしない。むしろ、人が変わっていかねばならない。颯はそう思いながら主婦の会話を遮るようにイヤホンを耳にかけた。



 だからこそ、聞き逃してしまった。






「あああああああああぁぁあああああぁああああアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!」






            叫ぶ、男性の声を。








 

 今日も、上手くいかなかった。結局私は、あの会社にとって意味のない人間なのだ。それでも、この仕事を辞められないのは編集という仕事が、自分にとっての憧れだったから。

 (でも、それももうわからない…)

 (私は、何になりたかった?)

 『ぼくの将来の夢は編集者です。何故ならぼくのお父さんが漫画家さんだからです。漫画は、漫画家さんと編集者という、漫画家さんをお手伝いしてくれる人によって作られます。ぼくは将来編集者になって、お父さんの漫画のお手伝いをしたいです』

 そう、自信満々に言っていたのはいつの頃だったか。父は過労で首を吊り、母は朝から晩まで働き詰めとなった。やっと入社した編集部も自分の希望とはいかず、気付けば廃刊ぎりぎりのオカルト誌。上司にはパワハラまがいの罵詈雑言。読者は遂に冷やかしだけになっていた。

 (私は…)

「かわいそうな子。認めてもらえず、周りは悪い人ばかり。とてもかわいそうな子」

「え?君、は…」

 目の前には白いワンピースを着た少女。周りの人には見えていないのか、少女に目もくれない。それでも人々は自然と少女を避けて歩いている。

「あぁ、かわいそうな私の坊や。もう苦しまなくていいのよ。母の体にお戻りなさい」

 少女は男性に近付いた。男性の身体は自然と膝をついて頭を下げる。まるで、目の前の少女は神か仏か。頭が上がらない。いや、はいけない。それが正解だと、摂理だと、本能的に感じている。

 そっと、少女が男性の頬に手を添え顔を上げる。微笑む顔はまるで聖母のようで。母の腕に包まれればもう、何もかも許され、救われる。男性は全ての考えを放棄し、母の身体に縋りついた。

 

「さあ、目覚めなさいおやすみなさい


                  ドクン。


 心臓から何かが身体をぶち破ろうと蠢き出す。虫が蠢くようなその感覚に吐き気がして手で口を覆う。

「うっ、あっ、おぇおぇええええええ‼」

 両の手を使っても間に合わず、口から何かが出てくる。それをきっかけに身体からも黒いが。

 (何だ…こレは)

 意識が朦朧としてくる。縋りついていたはずの母も居ない。何が起きているかもわからないまま、黒い何かに身体を覆われていく。腕についたソレを払いのけようとするも間に合わない。

 (イやだ。こワイ。こわイ。こワいコワい怖いこわいコワイ恐いこわいこわいこわいこわいこわいこわい‼)

            何も考えられなくなるのがこわい。


            何もわからなくなるのがこわい。


            身体から出てくる何かがこわい。



             自分が、自分でなくなるのが、



こわい。こわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわい

 ここここここkkkkkkkk

                                わわわわわわわわわ

                      いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいイイイイイイイ



              (ちょ、う………?)



 最後に心臓から出てきたソレは黒い蝶のような、鳥のような。



 

 私はソレと目が合ってからのことを、覚えていない。









 何度目かのサイレンの音で颯はやっとイヤホンを耳から外す。ずいぶんと近くで鳴り響くサイレンに首を左右に動かせば、周囲に人が居ないことに気が付いた。

 (何で今まで気付かなかった⁉まずい、サイレンの音からしてここ、避難区域か‼早く家に‼)

 上空に黒い煙は確認できない。ということはまだ初期段階。周囲の者は建物の中に入ったのだろう、室内に煙が入らないように窓のシャッターを急いで閉める男性が見える。颯も手で口を押えつつ家への帰路を走りだす。

『ただいま、心闇病患者が重病化致しました。外出されている方は直ちに屋内に避難し、窓のシャッターを閉め、窓から離れて下さい。もう一度繰り返します。ただいま、心闇病患者がー………』

 暗くなった道では前から来るのか後ろから来るのか見当がつかない。おまけに逃げ込める店もなく、颯はアパートまでひたすら走る。家の明かりが消えた世界では、光の弱い街灯だけが頼りだ。

「きゃぁああああああああああああああああ‼」

 前方から人々が走ってくる。どうやら心闇病患者は帰路にいるではないか。颯は反射的に壁際に移動する。人々は必死なようで颯に目もくれない。この流れに乗ろうにも割り込む方が危険だ。人々が走り去るのを待つしかないだろう。

 (くっそ‼何でこういう時に‼)

 テストが終わって、やっとゆっくりできると思ったのに。暗闇の空に異常な黒を見つけ、本格的に逃げねばと感じる。

 「きゃっ‼」

 小さな悲鳴に目を向ける。視界には人びとの流れに押されて転んでしまった少女が。立ち上がろうとするも足を痛めてしまったのか、立ち上がれずにその場でもがいている。周りの者は逃げることに夢中で少女に気付いていない。少し遠くに顔を向けると、心闇病患者が視界に入る。初めて目にした心闇病患者は黒い煙に包まれ、あれは人なのかと驚いた。

 目は飛び出し、口からは黒い泥のようなものを垂れ流している。見える肌は黒ずみ、心闇病患者特有の煙が覆っている。化け物。そう思うソレに恐怖を感じる。化け物はふらふらと左右に揺れながらこちらに近付いてくる。狂ったように笑うソレは少女を見つけると、一心不乱に走り出した。

「あひゃははははハハはははhははははははハハハhhhハハは!!!!!!!!!」

「っ‼くそっ‼」

 持っていた荷物を投げ捨てて颯は走り出す。人の波を必死にかき分けて少女に近づく。人々のように逃げることが正解だ。ヒーローになれるような性格ではもうないし、颯自身もそんな立派な人間じゃないと思っている。しかし、視界に入った少女を見捨ててまで、逃げることなんて出来なかった。

「あっはははひゃはははは‼」

「ひっ‼だ、だれか‼」

「ふっざけんなっ‼」

 少女の前で止まる化け物。泣きじゃくり、助け求める少女。そのまま少女に覆いかぶさろうとする化け物に間一髪、颯は蹴りを入れ吹き飛ばす。黒い煙が触れることなんて、気にしている場合ではなかった。

「大丈夫?口、押えられる?」

「ひっぐ…うっ、うん」

 少女に口を手で押さえるように指示をする。あれだけ近付かれたのだ、煙を吸ってはいるだろうが、これ以上吸わせないためにも口を押えさせる。少女を抱き上げて走り出そうとするが片足がぐんっ、と引っ張られてバランスを崩しそうになった。颯は足に目を向けると、蹴った方の右足に絡みつく煙。足を動かし振り払おうとするも煙は植物のように颯の足に絡みついたまま離れない。

 (マジかよ⁉)

 一刻も早くこの場から逃げ出さねばならないのに動けない。テレビや母の話でしか聞いたことなかった心闇病は実際とは全く違って、颯一人にはどうすることも出来なかった。ついにバランスを崩し、颯はその場に倒れこむ。

「あひっいイィだぁぁアあああイなアああaaaaaあアアあははっははははははははは‼」

 颯に蹴られた男性が立ち上がる。飛び出た目がギョロリとこちらを向いた。ずるずると身体を動かし近付く化け物に、もう駄目だ。そう理解する。何も、出来なかった。少女を守ることも、助けることも。

 (自分は、無力だ)

 せめて、少女の目に最後に映るものが、目の前のものじゃないように。少女の頭を後ろから支えて、自身の胸に押し付ける。見えないように、見せないように。自分の代わりに、何も、知らないように。

 化け物が目の前に来る。化け物の視界には怯えきった自分が映っている。ニタリと笑った化け物が手を伸ばす。颯は、目を閉じた。

 (最後くらい、不味くても母さんのハンバーグ、食べておけばよかったな……)

 


「肩、借ります」

 


 トン。軽い衝撃と凛とした声。数秒後に、ドンッ‼という何かが突き飛ばされた音。何が起こったのかわからず、颯は恐る恐る目を開ける。

 目の前に立つは、少女だ。黒い服に身を包んだ少女。闇の中で淡く光る白いツインテールが、靡いている。

「患者を発見。逃げ遅れた民間人2人を確認。治療の許可を。--はい。……早乙女隊隊員、早乙女 ミオ。これより治療を開始します」

 少女は耳に付けたインカムに話しかける。通信を切ると太ももに付けられたホルスターからハンドガンを取り出し、緑に光るスライドを引く。

「よろしくね、ツクヨミ」

『対象を確認致しました。指示に従います、ミオ』

 颯の目の前に居たはずの化け物は数メートル先に倒れており、少女が蹴飛ばしたのだろうか。現状を理解出来ていない颯は腕に抱いた少女共々口を開けたままだ。

 いや、一つだけわかることがある。

 (これが、心闇治療者‼…というか今、早乙女 ミオって言わなかったか⁉)

 改めて目の前の少女を確認すると、フードの付いた黒いジャケットに少女の動きに合わせて揺れる黒いミニスカート。ジャケットには心闇治療者の証である『左手に桜』のマーク。右の太ももにはハンドガンを入れるホルスター。黒いロングブーツには邪魔にならないくらいのヒールが付いている。そして、黒一色に対極する白いツインテール。颯はつい最近、それを見た。うさぎのキーホルダーを落とした少女。外の光を透過しそうなほどの色素の薄い二つ髪。目も合わせられない程の人見知り。目の前の少女は、そんな彼女と同じ名を口にした。

 (これが⁉いやいやちょっと待て、コミュ障どこ行った⁉)

 ミオと名乗った少女は心闇病患者と適度な距離を取りつつ、その手に持つハンドガンから銃弾を放つ。放たれた銃弾は患者の身体を貫通し、黒い液体が飛び散る。一連の行為が意味するものに颯は大声を出す。

「お、おい‼アンタ、何してんだ‼その人のこと殺す気か‼」

 心臓は避けているにしても、流れ出る黒は止まらない。颯の考えが合っていれば、目の前のミオはためらいもなく、患者を殺そうとしている。

 その時だった。あらぬ方向に首を回し、ギョロリとこちらを向く心闇病患者。纏っていた煙が薄くなっており、男性だと認識できる。颯達を認識すると手を伸ばす。そこから煙が鋭い槍のような形状になって、颯たちの元に伸びてくる。

「あっぶねぇ‼」

「きゃあ⁉」

 颯は何とか身体を横に転がし攻撃を避ける。気付けば足に絡みついていた煙も消えていた。急いで身体を起き上がらせ、体勢を整える。

「っ‼ツクヨミ‼」

『かしこまりました』

「なんだよこれ⁉」

 ミオはこちらに銃口を向けると引き金を引く。颯の足元に着弾した銃弾は、そこから颯達を囲むように円を描くと上に広がり、半円のドーム状となる。外の景色は見えるようで、心闇病患者が地面に手を付きながら立ち上がろうとしている。しかし、ボロボロの身体では立ち上がることも困難だろう、力が入っていない。

「あ、ぐっ…はっ、は……」

「これで私の治療は終わりです。後は施設での治療となります。お疲れ様でした」

 バンッ、と。心闇病患者に近付いたミオが男性に銃口を向けて引き金を引く。バタンと倒れた男性から煙が消えていく。殺してしまったのか、そう思ったが男性の身体が微かに上下しているのを確認できて、寝ているだけだと理解する。

「こちらミオ。重症者の治療が終わりました。民間人の保護と浄化をお願いします」

『お疲れさまでした、ミオ』

「ツクヨミもお疲れさま。ゆっくり休んでね」

 インカムに話し終わるとハンドガンから声がする。そういえば、焦っていて気付くのに遅れたが、時々聞こえていた声はハンドガンから聞こえていた。そんなファンタジーなんてと思うが実際に颯にも聞こえるし、ミオは何食わぬ顔でハンドガンに話しかけている。

 ホルスターにハンドガンを入れると、颯達を覆っていたドームも消える。空には星が広がり、心闇は消えたのだと安心した。一度息を吐いたミオはくるりと向き直ると、颯たちの方へと歩いてくる。

「お二人とも、大丈夫でしたか?今から簡易的な検査をさせ、て……え?…きん、す…君?」

「あー…どうも?」

 はっきりとこちらを認識すると、サァーと顔色が悪くなるミオ。どうやら目の前の早乙女 ミオは、颯のよく知る早乙女 ミオだった。

 

 それからはお互いに酷かったと思う。

「あっ、う、えと、あぅ……」

「……えっと、先ずは簡易、検査?してくれるんだよな?」

「はっ、はい‼ご、ごめんなさい。えっと、あぅ、あ、い、妹さんからお、行います…」

「…妹じゃないっスね」

「あぁあああ‼ご、ごめんなさい‼」

 先ほどまでの凛々しさは何処に消えたのか。ミオは左右に目を動かし右往左往としている。声をかければ驚かれるし、訂正すれば両手で顔を覆う。颯は腕から離した少女と目を合わせた。

 検査は少し特殊だったが簡単だった。ミオは腰に付けられたポーチから小さな機械を取り出すとてきぱきと操作する。

「ここに左手を置いてくれる?」

 卵状の機械は上部に小さな丸が、下部にガラスドームが付いており、ガラスの中では青い雲のような何かが動いている。ミオは少女の前にしゃがみ込み、ガラスドームをコツコツと爪でつつく。恐る恐る少女は左手を乗せた。『少しだけそのままにしててね』そう言うとミオは機械を持っていない方の人差し指に歯を立てる。プツリと裂け、血が流れると人差し指ごと機械の上部に付いた丸に押し付ける。ピーッ、と機械音が鳴るとガラスドームの中の青い雲が光り出す。数秒程すると色が変わり光が消えた。

「はい、おしまいだよ」

「かなちゃん、ママの所戻れる?」

「うん。でも、黒い煙を少し吸っちゃったから、お薬が出ると思うんだ。かなちゃん、ちゃんと飲めるかな?」

「うん‼ちゃんと飲む‼ありがとう、お姉ちゃん」

「はい、お大事にしてね」

 ふふっ、と笑うミオに釣られる様にかなと自身を呼ぶ少女も笑う。

「お疲れ様です。浄化部隊、到着致しました」

「花奈!!!!!」

「ママ!!!」

「よかった…本当によかった。ごめんね、一人にしてごめんね」

 花奈の検査が終わると同時に黒いスーツを着た者たちが現れる。それをかき分けるように女性が飛び出してきた。花奈も女性の声を聴くとそちらに走り出し、勢いよく抱き着いた。

 花奈の母親だっだその女性は花奈を抱きしめると、崩れ落ちるように泣き出す。よかった、無事に親子は再会できた。そう思い胸を撫でおろす颯。花奈は興奮気味に先程のことを話しており、こちらを振り向く。花奈の母は颯と目が合うと深々と頭を下げた。

「すみません、金子君。少しだけ待っていてもらっても大丈夫ですか?何処か不調な所があればすぐに言っていただけると助かります」

 ミオが声をかけてくる。その声は先ほどのように凛としている。いつの間にか、ミオの隣に立っていたスーツの男は颯を見ると頭を下げた。

「あ、あぁ…」

 呆気にとられる颯に一度頭を下げてからミオはスーツの男とその場を離れる。淡々と指示を出すミオに颯は驚いた。スーツの者たちは眠る心闇病患者を担架に乗せ車で運んでいく者、花奈親子に付きそう者、そして、残りの者はアタッシュケースから細長い物を取り出し、組み立てていく。それは全て繋がると僧侶が持つような錫杖で、動くたびにシャラシャラと音が鳴る。

「では、浄化を開始しますのでミオ様は緊急避難所の方へご移動をお願いします」

「はい、よろしくお願いします」

 スーツの男がミオに頭を下げる。それに頷いてから、ミオは颯の元に戻ってきた。

「すみません、お待たせしました。体調に変わりはありませんか?」

「あぁ、大丈夫。あれ、何やるの?」

「彼らは浄化専門の方々で、先程の方が空気中に撒いてしまった心闇を浄化するスペシャリストなんです。全てを取り除くことは出来ませんが、このままにすることも出来ませんから。浄化が始まってしまうので、緊急避難所の方へ移動しなくてはいけないのですが…動けそうですか?」

 そう言うとミオはジャケットに付けられたフードを被る。深く被ると白い髪も顔も隠れてしまい、誰だかわからなくなってしまう。

「いいけど、何でフード被んの」

「……私たち治療者は一番、心闇を身体に取り入れていますから」

「…ごめん。気付くべきだった」

「慣れていますから。気にしないで下さい」

 颯の質問に一拍おいたミオの返答は穏やかだった。自身の質問に颯は恥じる。自分だって、同じ様な思いをしたではないか。フードを深く被るのは、この世界で生きていく為の自己防衛なのだろう。窓のシャッターを閉めさせるのも、治療者を守る意味もある。現代において、彼らは善であり、悪にもなる存在。なんと不憫なものか。颯が謝罪すれば、微かに見える口元を微笑ませてからミオは歩き出す。颯もそれに続いて歩き出した。


「…早乙女、普段からそういう風に普通に話せばいいのに」

 会話のない重苦しい時間が嫌で颯がぼそりと呟けばミオは大きく肩を揺らし、フードのふちを握り締め下を向く。

「うぅ、その、シュウ以外の同級生と話すの、高校に入学してからで…ちゃんとお話し出来てるかいつも不安でして…」

「…え?マジで言ってんのそれ」

「ん?…はい」

 ミオの答えに開いた口が塞がらない。至極真っ当にミオが返事をするものだから、颯は頭を抱えそうになる。これでも十六年はお互い生きているはずだ。短い人生だがその中でも小学校や中学校があり、嫌でも同級生と話す機会はあっただろうに。会話したことがあるのは一人だけ。

 (そりゃあコミュ障にもなるわ…)

「お仕事中は、お仕事のことしか考えなくていいので上手に話せるんですが……あ、着きました。わぁ、結構人が居ますね。浄化部隊の邪魔にならないように、少し離れた所で検査しましょう」

「あー…はい」

 颯の驚きの理由を分かっていないミオに何も言うべからず。緊急避難所にはあの時、逃げて来た人々が浄化部隊の指示に従い診察されている。ミオと颯は人の居ないテントを借り、向かい合うように座った。

「では、花奈ちゃんと同じ検査を行いますね。ここに左手をお願いします」

 ミオは先ほどの機械を取り出す。颯は花奈が行ったように左手を置いた。ミオは先ほど噛んだ場所をまた強く噛み、血を流す。血の付いた指で機械を操作すれば同じように光った後、光が消えた。

「お疲れ様です。検査結果は……え?」

 機械を見たミオは目を見開く。カチャカチャと操作するが結果は変わらない。

「え、何かあったの?」

「…金子君、私が来る前って何をしていました?」

 顎に指を添え考えるミオに颯が首を傾げれば質問が返ってくる。颯はミオが来る前のことを説明した。花奈を助けたこと。その際、心闇病患者を蹴ってしまったこと。足に煙が巻き付き逃げられなくなったこと。必死だった為に詳しくは言えないが、覚えている範囲のことをとぎれとぎれに説明していく。

「蹴ったんですか⁉患者を⁉」

「だって必死だったんだよ‼しょうがねぇだろ‼」

「いや、その足で蹴ったんですよね?身体は何とも、なかったんですか?」

「………確かに。何ともなかったな」

 ミオの質問に今度は颯が顎に指を添える。必死すぎて気付かなかったが、自分は足で蹴った。ミオ達治療者のように特殊ではない颯が心闇病患者、しかも重症者に触れれば何が起こるかわからない。それこそ今頃、颯自身が重症者になっていたかもしれないのだ。しかし、煙に足を取られただけで何もなかった。その煙だって、花奈以上に吸い込んだはずである颯の身体に今現在、不調はない。

「検査結果を簡単に説明すると、金子君は何処もんです。普通であれば煙を吸っているので少しは陽性反応があるはずなんですが…。治療者でもなく、重症者と接触までしてるのに…」

 ミオはうーんと考えこむ。メンテナンスに出したばかりである為、機械の故障は考えられない。現に、花奈の時は正常に動いたのだ。一回、二回で壊れる代物ではないことはミオ自身が良く分かっている。

 颯を見るが不調さは感じられない。蹴ったという足を見ても、煙も無ければ何も異常が認められない。それに、煙が残っていれば自身の相棒であるハンドガンが反応するはずだが、相棒は何も語らない。あれだけあの場にいて検査結果は陰性。

 考えられることは自分達のように、心闇に対し耐性があるということだがミオのみで断言していいものか。インカムを使おうにもここは人が多く、電波が悪い。先程から何か受信しているが、ザーザーとノイズだらけで聞き取れない。

 

「ミオ、ここにいたんだね。無事でよかった」

 そんな時だった。後ろから安心するような声が聞こえた。


 走ってきたのだろうか、息が上がっている。ミオに声をかけた人物もミオと同じ治療者なのだろう、黒いジャケットに身を包み、フードを深く被っている。顔色は窺えないにしても安堵した声は本心だ。

(ん?この声、どっかで聞いたこと…)

 颯は何処だったかと考える。テレビでもYouTubeの動画でもない。もっと近くで聞いたことが……。

「シュウ。私は大丈夫だよ。そんなに心配しなくていいのに」

「駄目だよ、ミオは女の子なんだからもっと身体を大事にしなきゃ。…って、この指、またあの検査機使ったの⁉あれは血が必要だから使っちゃダメって言ったよね?」

 近付いてきた声は颯やミオと同じくらいの少年の声で、ミオの指から血が流れているのを確認すると持っていたハンカチで指を包み止血する。諭すような少年に対し、ミオは気にすることもせず普通に会話を続ける。

「シュウは心配性だね。でも、これが一番正確に出るから…あ、それよりも聞いて。彼、私のクラスメイトの金子 颯君なんだけれど……」

「それよりも?…自分の身体を二の次にしないでって、この前も言ったはずだよね?ミオ」

「う…そ、それはぁ……」

「次、同じことしたら僕と一緒じゃないと行動できないように隊長に言うからね。それで?どうしたの?」

「わ、わかったよぉ……気を付ける。そ、それでね……---」

 (過保護だな、こいつ……)

 ミオの肩に手を置いて諭すような怒るような声に颯は苦笑う。二人は颯と少し離れた場所に行き、話し合っている。時々こちらを向く、シュウと呼ばれた人物はミオの説明に驚いた声を出す。ミオたちの話が終わるまでどうすることも出来ない颯は落ち着いてきた頭でこれまでを振り返る。

 (女の子助けて、でも自分じゃ助けられなくて。結局助けられて。しかも、助けてくれたのがクラスメイトで…というか、何でこうなったんだ?確か飯買いに行ってて………)

 そこまで考えて颯は上を向く。

「あー………」

「ど、どうしました⁉何処か痛みますか?」

「え⁉あ、いや……その、腹、減ったなって…」

 いつの間にか近付いていたミオに驚き、椅子ごと倒れそうになるが颯は何とか持ちこたえる。心配そうに顔を近付けるミオから目をそらし、言いずらそうに颯は口を開く。冷静になった颯の身体は何も食べていないことに気付き、腹からは食料を求める音が鳴る。音を聞いたミオは目をぱちぱちとさせた後、口元を手で押さえながら震えた。

「笑うなよ…家帰ってからマジで何も食ってねぇんだって」

「ふっ、ご、ごめんなさっ…でも、ふふっ。何だか可愛くて。金子君、そんなこと言うように見えなかったから…」

 クスクスと笑うミオは随分と楽しそうで颯はムッとする。言い返そうと思ったが、近くで見るミオの顔が本当に楽しそうで颯もふっ、と笑ってしまった。

「な、何で金子君が笑うんですか‼」

「いや、早乙女、楽しそうだなって。アンタ、そうやって笑うんだな。初めて見た。可愛いじゃん」

「へあっ⁉」

 颯が笑いながらそう言えば、ミオはボンッと音が出そうなほどいきなり顔を赤くする。何事かと颯が首を傾げるとふいに殺気を感じ、ゾッとする。

「随分と楽しそうだね?金子 颯」

 ミオの後ろから声を掛けてきたシュウに颯の頭はサイレンが鳴る。見える口元は笑っているが、これは笑っていない。ミオに対して、過保護だと思っていたがこれは俗に言う同担拒否。颯は何とか誤解を解こうと口を開く。

「いやいやいや‼別に変な意味はなくてだな⁉ただ普通に感想を述べただけで…」

「へぇ?普通の感想で『可愛いじゃん』って出てくるあたり、随分と女たらしなんだね、君」

「はぁ⁉いや、だから、深い意味はなくて……」

「何?ミオが可愛くないって言いたいの?」

 (こ、こいつ、めんどくせぇええええええ!!!)

 颯は頭を抱える。これは、何を言っても無駄だ。可愛いと言えば理不尽に解釈され、可愛くないと言えば、シュウの駄々洩れる殺気のせいで何をされるかわからない。最悪、命の危険がある。何がどうしてこうなった。ミオに助けを求めようにも今だショートしたまま、顔を両手で覆っている。

「やぁっと見つけた。って、どういう状況?」

 どうしようかと今日、何度目かのため息をつこうとした時だった。テント裏にワンボックスカーが止まり、運転席から人が出てくる。スーツを着た男性は随分と若い青年で、修羅場のようなこの状況に一人、ぽかんと首を傾げていた。

 

 状況を理解した男性は一つに縛った毛量の多い髪を後ろ手に搔きながら苦笑いを浮かべる。

「あー………ごめんよ、ウチの隊のが迷惑かけたよね。初めまして、俺は早乙女さおとめ あきら。彼ら、ちょっっっとだけ個性的でね。まぁ、ここじゃ何だし金子君には一度、ウチに来てもらいたいんだけれど…どうかな?お腹空いてるって言ってたし、途中でコンビニ寄っていこう。ご飯奢るよ」

「マジすか。行きます。奢ってください」

「あはは、素直でいいね。ミオ、シュウ、後は浄化部隊に任せて俺達は帰ろう。二人もコンビニで好きなの買っていいからね」

 にこりと笑う男性は早乙女 彰と名乗る。穏やかな彰はミオとシュウの直属の上司であり、親のいないミオの親代わりらしい。提案に乗った颯は彰の運転するワンボックスカーに躊躇いも無く乗車する。知らない人には付いて行かない、という教えを真っ向から破っているが仕方ない。腹が減ってはなんとやら。颯の腹はもう、底をついている。手段なんて選んでいられなかった。

「二人とも、もう大丈夫だよ」

 颯の隣にシュウが座り、ミオは助手席へ座る。車を発車させ、人通りが少なくなった所で彰の指示に従い二人はジャケットを脱いだ。

「おま、天壽院てんじゅいん!!!?」

「うるさいんだけど、黙ってくれる?」

 颯は横を向き、驚いた。黒髪のマッシュヘアー、印象的でおしゃれな丸眼鏡。聞いたことある所じゃない。隣のクラスの有名人、心闇管理局総局長の孫であり、次期総局長。天壽院家の一人息子である天壽院てんじゅいん しゅう。成績優秀、頭脳明晰。王子様スマイルに性格の良さは◎。付いたあだ名はリアル王子様。と、親友が言っていた。颯自身も天壽院とは廊下で何度もすれ違って顔も声も覚えている。と言っても、いつも玉の輿を狙う女子が周りにいるイメージしかなかったが。

「まさかあの天壽院が過激派だったなんて……」

「何か言ったかい?金子 颯」

「ナンデモアリマセン……」

「ふふっ。二人とももう、仲良しさんなんだね‼」

 (何を見て仲良しと言ってるんだ!!!)

 颯に王子様スマイルを向ける柊の後ろにはどす黒いオーラが漂っている。苦い顔をしながら片言に返す颯。そんな二人を嬉しそうに眺めるミオにため息をつく。

「はいはい、ご飯を買う時間だよー」

 車がコンビニに止まり、颯達は外に出る。あの寒々しい空間から解放されたことに安心しつつ、コンビニに入って行く。

「遠慮せずに好きなものいっぱい買っていいからね。高校生っていっぱい食べれていいよね。俺なんて胃もたれ怖くてさぁ」

「いやいや早乙女さん、そんな年じゃないでしょ…」

「ミオと混ざるし彰でいいよ。いやぁ、32なんてもうおじさんだよ?おじさん」

「え…彰さん32なんすか。20代だと思ってました」

 商品を見ながら彰を見て驚く。彰は大学生だと言っても通るくらいの見た目をしており、32には到底見えない。母親のように若作りをしているようには見えないから、天性の才とでも言うべきか。

「あはは、良く言われるんだよね。でも身体の中は大分おじさんだよ」

「言うて母さんより若いっすよ、彰さん。こんなんでいいっす。奢りありがとうございまーす」

 彰の持つカゴにおにぎりやら好きなものを入れていき、最後彰に手を合わせてお辞儀をする。

「はいはい、子どもは大人に奢られておきなさい。ミオ達を見に行こうか。…そういえば、勝手に調べちゃったんだけれど、金子君のお母さまは心闇管理局内の療養施設に勤めているんだね」

 彰にカゴを持たせたままにするのはさすがに申し訳なく、颯はカゴを受け取る。そのままミオ達の方へ歩いて行く。いつ調べたんだと思ったが、政府の次に大きな施設だと思い出し、知らぬ間に調べられてもおかしくはないかと颯は納得した。

「あ、はい。2年前からお世話になってます」

「……2年前か。学校とか色々、大変だったでしょ。ごめんね、俺達がもう少し心闇について研究が出来ていれば…」

「いや、一番頑張ってるのは現場だってわかってますし、母親もあそこで働くのが性に合ってるみたいで。楽しくやってるそうです」

「そう言ってもらえると俺達治療者も嬉しいよ、ありがとう。ミオ、柊、もうレジ行くけど決まったかい?」

 彰と話ながら歩いていればミオと柊は雑誌を二人で眺め、楽しそうに話している。表紙を見るにファッション誌らしく、柊がミオに見やすいように雑誌を向けている。颯は自分との扱いの差に苦笑いしか起きない。

「あ、先生‼柊がね、今度このお洋服買ってくれるって」

 雑誌を見ると随分とかわいらしい洋服が。ピンクにリボンという、乙女ファッションのワンピースは確かにミオに似合いそうだが、金額を見てゾッとする。10万は優に超えているではないか。

「…娘さん、甘やかされすぎでは?」

「俺も毎回言ってるんだけどね…もう治らないというか、昔から柊はミオにだけは異常に甘くて。俺にもそれくらい優しくしてくれるといいんだけどなぁ……」

 (いや、そこ諦めるなよ…)

 最早開き直っている彰にため息をつく。これが当たり前なのだろう、彰はミオに『よかったね』と言うだけでカゴに荷物を入れるように指示をしている。

「ミオ、これだけでいいの?」

「うん。シホ姉がね、ご飯作ってくれて、一緒に食べるって約束したんだ‼」

「そ、そっっっかぁ……柊、一緒に居てあげてね。絶っっっ対一緒に居てあげてね‼」

「まぁ、話聞いた手前一緒に居ますよ。ミオに何があるかわからないですし」

 アイスココアだけしかカゴに入れなかったミオに彰が聞けば、楽しみだと笑うミオ。一瞬止まった彰はニコニコと嬉しそうなミオにため息を込めた返事を返した後、柊の両肩を支えながら心配そうな顔をする。それに対して柊もため息をついている。何も知らないミオだけは、ニコニコとしながら首を傾げているだけだった。

「そ、それじゃあお会計しようか」

 そう言った彰の声で皆動き、レジで会計を済ませると車に乗り込みコンビニを後にした。




 初めて来た管理局は遠くから眺めていた以上に大きく、颯は開いた口が塞がらない。

「その反応じゃ、管理局は初めてみたいだね。結構広いから迷子にならないように気を付けてね」

 管理局の中は颯の思った以上に綺麗で、テレビでよく見るような大手企業の窓口を思わせる。受付に座る女性がこちらを見ると急いで颯達の元へ駆け寄ってくる。

「お疲れさまでした、早乙女隊の皆さま。本日もお勤めご苦労さまでございます」

「はい。お疲れ様です。さ、皆行くよ」

 女性は彰達に深々と頭を下げる。彰が頭を下げたのを確認すると、ミオと柊もそれに倣って頭を下げる。頭を上げた女性は颯を見ると少し不思議そうにしたが、彰が颯の背を押し、そのまま歩かせる為何も言うことはなかった。


「さて。ここが俺達のホーム、と言うべきかな。早乙女隊の部屋へようこそ、金子君」


「何っつーんか、治療部隊の部屋って、もっとすげぇのかと思っていました。SFみたいな…」

 エレベーターに乗り、五階で降りると彰を先頭に、同じドアが並ぶ通路を進む。その中の一つに止まると彰はドアを開け、颯を中に入る。柊とミオが入り、ドアを閉めると彰は腕を広げた。

 部屋の真ん中には白いテーブルが設置されており、椅子が数脚付いている。他にも部屋があるらしく、この部屋を中心にドアが5枚ほど並んでいる。ドアプレートを見るに彰達、個々の部屋なのだろう。他にも部屋には一般家庭にあるような家具に観葉植物や切り花が飾ってあり、キッチンまで備え付けてある。さながら普通の家の変わりなく、SF映画に出てくるようなサイバーパンクな部屋を想像していた颯は呆気にとられてしまった。

「あはは。そんなに現代技術は進歩してないよ、金子君。だから心闇なんて病気が大流行してるんだし」

「彰さん、メタいっすよその発言…」

「まぁまぁ、俺は少し用事があるから。颯君はここでご飯でも食べて待っててくれるかい?わからないことがあればミオと柊に聞けばいいからさ。ミオ達も今日はお疲れ様。着替えたりしてゆっくり待ってて。颯君のこと、よろしくね」

「うん。行ってらっしゃい、先生」

 そう言うと彰は部屋を後にする。手を振って見送ったミオはアイスココアを白いテーブルに一度置くと、颯の元にまた戻ってくる。

「金子君、ご飯を食べる際はそこのテーブルを使ってください。レンジとか使いますか?」

「ありがと、使いたい」

「そこがキッチンになってます。レンジもそこに置いてあるので自由に使ってください。それと、そっちの扉がお手洗いです。直ぐに戻りますが、何かあったら言ってくださいね」

「わかった。色々とありがと、早乙女」

「いえいえ。では、ゆっくりしていてください」

 指でさしながらミオは部屋の説明をする。颯が感謝を述べればにこりと笑って自室に入っていった。

「随分とミオに懐かれているね、君。初対面だろ?」

「同じクラスだって早乙女が説明しただろ。まぁ、こんなに話すのは初めてだけど…」

「そりゃあ僕がそう育てたからね。やっぱり高校なんて行かせるべきじゃなかったな」

「お前やべぇ奴じゃん…」

「何か言ったかい?まぁいい。あの子に何かしたら許さないから。それじゃ、僕も一度部屋に戻るよ」

 (過激派怖ぇって‼)

 颯とミオを後ろから見ていた柊に話しかけられる。柊の言葉にゾッとしながらも、何も言わないことが正解だろうと思い颯は口を閉ざした。一人になった部屋は静かで、時計の動く音が小さく聞こえる。何はともあれ、まずはこの空腹を何とかするべきだろうと考えた颯は、温めが必要なものだけ持ってキッチンに向かう。

 キッチンの中も一般的なものが多く、颯の家と特に変わりはなかった。低い位置に置かれたレンジはミオの身長に合わせているのだろうか、颯が使うには少々使いにくい。温めが終わり、テーブルに並べておにぎりから手を付けていく。空腹だったからか、いつにも増して旨いと感動しつつ、家に居る時のようにスマホを開くも電源が入らない。

「どういうこと?」

 どうにか動かせないかと試みるも画面は暗いまま。考えられるは充電が無くなったか、先ほどの件で壊れたか。これ以上やっても無駄だろうと諦めて、颯は大人しく食事を取った。


「お待たせしました」

「おーおかえり…?って、俺が言っていいのかこれ」

 少し経てば部屋着に着替えたミオが現れる。ピンクのパーカーは察するに、柊の趣味だろう。テレビでしか見たことない高級ブランドのロゴに颯は乾いた笑みを向ける。返事をしてから自分の返答に疑問符を浮かべる颯にミオは笑って返した。

「柊はまだみたいですね。あ、すみません。スマホ、使えないですよね」

「あー。充電無くなったか壊れたかだし、気にすることねぇよ」

「いえ。多分、外に出れば正常に動くと思います。管理局の中は機密事項ばかりなので、一般のスマホは使えない仕組みになっているんです。私達のもほら、電源が入らないようになっています」

 テーブルの向かい側に座ったミオはコンビニで買ったアイスココアを開ける。テーブルに置かれた颯のスマホに目が行ったのだろう、声を掛けてからミオは自分のスマホを取り出す。何度電源を入れても動かないスマホは颯と同じ状況で納得する。

「それじゃあ何で連絡取ってんの?こんだけ広かったら、いちいち探すの大変じゃね?」

「基本的にはこのデバイスでやり取りします」

「スマートウォッチ的な?」

「そうですね、そんな感じです。治療時は邪魔なのでインカムが多いですけれど…」

 颯の質問にミオが腕を見せる。腕にはリストバンドのような太さの腕輪が付いており、ミオが触るとスマートウォッチのようにモニターが現れる。確かに、先程までは付けていなかったソレは治療時には邪魔そうな大きさだ。

「色々、大変なんだな。…というより、普通に話せてるじゃん、早乙女」

「金子君はお話しやすいといいますか。えぇと、その…実は、お話するの初めてじゃないというか……」

 颯はずっと思っていたことを口にすれば、ミオは歯切れが悪そうに眼をそらす。そんなミオの行為に少し考えて、そういえば放課後、落としたキーホルダーを拾ったことを思い出す。しかし、あの時だけでここまで話せるものになるのだろうか。

「え?あー。今日キーホルダー拾ったやつ?」

「キーホルダーは本当にありがとうございます。先生に貰ったものだから、大切にしているんです。ええと、その、ずっと前、ですね」

 ミオは頭を下げてから胸の前で指を弄る。何処か恥ずかしそうにしているのを見てから颯は考えるも、まったく思い出せない。印象に残りにくいと言ってもあれだけのコミュ障、忘れるだろうか。

「えっっっっと…覚えてなくてすんません」

「だ、大丈夫です‼その、私、入学式とか出れなくて…自分の教室もわからなくて。学校に着いたら、柊は女の子に囲まれてはぐれちゃって……」

「うっわ…最後のは容易に想像できる……」

「誰かに話そうにも初めての人しかいなくて…。困っていた所を、金子君が助けてくれたんです」

「俺、そんなことした?」

「はい‼今でも私、ずっと覚えてます‼」


 そう言って、ミオは嬉々として語り出した。

 


 柊がここまで女子に人気だとは思わなかった。気付けばミオは波に取り残され、廊下に立ち尽くす。手続きが遅くなってしまい、入学式に間に合わなかったのは仕方がなかったが、一度は学校を下見するべきだった。

 心闇管理局から出る時は治療時以外無く、自分は誰の目にも止まらない。今だ謎が多い心闇は差別され、軽蔑される。窓のシャッターに、人と会う時は自分を隠すように深く被らなくてはいけないフード。見つかってはいけない。知られてはいけない。覚えられては、いけない。それは差別され、軽蔑され、迫害されないように。何度も、何度も教え込まれたルール。『君は、特別な存在なんだ』だから、誰の目にも止まってはいけない。誰にも覚えられてはいけない。誰にも、そのを教えてはいけない。

 欲しい物は言えば貰えた。ぬいぐるみに絵本にお絵かき帳。優しい彰は何でもくれた。それでも、この箱庭の外に出ることだけは、許してくれなかった。本当に欲しいモノは、貰えなかった。

 窓の外には通りを歩く子ども達が。ランドセルを背負っていた子達は、何年か後の春には制服に身を包み、通りを歩いて行く。仲良く笑いあうあの子達が羨ましかった。というソレが、羨ましかった。好きな話で笑いあって、可愛い洋服を着て遊びに行く。窓の外を通るあの子達は、それが許されていた。それが普通だった。それが、当たり前だった。

 何度も何度も彰にお願いをしてやっと、高校だけはと許可が下りた。初めて袖を通した制服というものは、柊が買ってくれる洋服よりも特別で、何度も鏡を見返しては嬉しさに笑っていたのが懐かしい。

 さて、そろそろ意識を戻さなければ。そう思うも、ミオはその場から動けず呆然とする。学校というものは、ここまで多くの人が通い学ぶ所なのか。柊の隣を歩けば教室に付くだろうと思っていたミオは自分の安易な考えに肩を落とす。今の自分が出来ることは、人を避けながらその場に立ち尽くすことだった。

『ねぇ。そこ、通りたいんだけど。何してんの?』

『はぇ⁉す、すみません‼あ、う……え、えっと…。その、きょ、教室が、わからなくて……』

 後ろから声を掛けられ肩を揺らす。後ろを向けばミオよりもうんと大きな男子生徒が寝ぼけまなこで立っていた。通りやすいように身体を横にずらすが、男子生徒はミオの返答を待っているのか、その場に立ち止まったままミオを見ている。これを逃したら一生、教室にたどり着かないと本気で思ったミオは目を逸らしながらも言葉を紡ぐ。

 これがミオにとっては、柊以外の同級生との初めての会話だった。発音や言葉使いを考えている暇も無く、羞恥で赤く染まった顔にすら気付かない。そんなミオとは対照的に、声を掛けた男子生徒はミオの返答に目を丸くしている。

『は?マジで言ってんの?…………何組?』

『い、1年、2組、です……』

『同じじゃん。…クラスわからない奴初めて見た。はぁぁ。こっち、着いてきて』

 深いため息をついた男子生徒はミオの前を歩いて行く。呆れた顔の中に、優しくこちらを見つめる瞳と目が合った。この人は、心から優しい人なんだ。そう、思った。ミオは男子生徒の後ろを歩いて行く。ミオがはぐれないようにか、ゆっくりと歩く彼に気付かれないように笑う。良かった、初めて声を掛けてくれたのが彼で。


「-それで私、教室まで行けたんです‼あの時は感謝してもしきれなくて。金子君はとっても優しい人なんだなって感動しました‼」

 (いやいやいやいや‼俺、態度悪すぎだろ‼)

 嬉しそうに話すミオに、颯は頭を抱える。そんなことした覚えがない事もそうだが、何より自分の態度が悪すぎる。初対面に対する態度じゃないだろう。どんだけ寝起きの機嫌が悪かったんだ。普通であれば、怒られても当然の態度を優しいと表現したミオは、随分と箱入りなのが颯でもわかる。

「ミオ、それは怒っていいんだよ」

「柊、おかえり。どうして?金子君、とっても優しかったよ?」

「ただいま。うーん……ミオは優しすぎるね。それはミオの良さでもあるけれど、僕は心配だな」

「え?え?何で?」

 ガチャ、とドアを開けて自室から戻ってきた柊がミオに苦笑いを向ける。一度キッチンに向かうと冷蔵庫から取り出した飲み物をマグカップに移し、ミオの隣に座る。ミオは柊の言葉に困惑気味で首を傾げるだけ。

「まぁ、そんな態度取っておいて覚えてもいない奴の方が悪いと僕は思うけれどね」

「本っ当にすみませんでした‼」

「え?え?何で金子君が謝るんですか?え?何で?柊どういうこと?」

「ミオ、許さなくていいよ」

「えぇえ⁉何で?どうして私が謝られるの?あぁあ…頭を上げてください金子君‼」

 スッと目を細め、こちらを睨む柊にやってしまったと颯は後悔する。先ほど『何かしたら許さない』と言われたばかりではないか。それを土足で踏み抜いているにも程がある。テーブルに頭を付けながら謝罪する颯に、いい笑顔の柊を見てミオは手を挙げながら右往左往するしかなかった。

「ただいまー……って、またこれはすごい状況だね。仲良くしなきゃダメっていつも言ってるだろう?」

 そんな状況でドアを開けて入ってきた彰は、若干呆れながらも颯達を注意する。

「先生聞いて‼柊が金子君悪くないのに謝れって…」

「いや、あれは100パーセント俺が悪いんです。早乙女は悪くないです」

「ミオ、人様に指さしちゃダメって教えてるでしょ。何があったか知らないけれど、シホとお客さん連れて来たから入っていいかな?」

 パタパタと彰に近づきミオが柊を指さす。そんなミオに彰は指を降ろさせ、身体を少しずらす。外には白衣を着た女性にもう一人、人影が見える。

「シホ姉‼」

「お待たせミオミオ~。あぁ~このフィット感。落ち着くわ~」

 彰の後ろから入ってきた白衣の女性はミオよりも大きく、紺色に光る髪は首よりも短いショートボブ。整った顔をしているのに、初対面で変人とわかるのは彼女の着るTシャツと今現在の行為のせいだろう。

 彼女の着るTシャツには『減塩中。醤油はスプーン一匙分』と訳のわからない謎のプリントがされている。そしてミオに声を掛けると正面から抱き着き、胸に顔を埋め深呼吸している。もう一度言う、している。しかも後ろから回した手で胸を揉むことも忘れていない。

「シホ…お客さんの前だからやめてくれるかい?」

「いいじゃんかよ~あっさん。ミオミオだって嫌がって無いんだし、アタシの一日の疲れを癒す、唯一の時間なんだよ。邪魔すんなって」

「そんなことで疲れを癒さないで下さいって言ってるんですよ。ミオ、僕の後ろにおいで」

 女性の行為に頭を抱える彰に、女性はミオの胸に顔を埋めたまま悪態をつく。ミオも慣れているのか、ニコニコと笑顔のまま女性の頭を撫でている。そんな二人のもとに柊が行き、二人を引きはがす。

「若君は面白みが無いなぁ~。あんなに大きく育ったおっぱいがあったら、顔を埋めて揉みたくなるのが人間の性だろう?君もそうは思わないかい?少年」

「お、おれぇ!?い、いや、俺は、その…」

 引きはがされ、はぁとため息をついた女性は手を広げながら首を振る。一度、柊に睨まれた女性は颯の元まで歩いて行くと一指し指で頭を突く。突かれた颯はというと、目を見開きあたふたと口を動かす。

 そりゃあ颯だって、女子の胸には夢が詰まっていると思ったこともしばしば。しかし、グラビアアイドルとか女優とかでしか考えたことないし、そもそもこの状況で賛同でもすれば命の保証がない。

「シホ、いい加減にしなさい」

「うわぁあっさんこっわぁ…」

 はぁ、とため息をつきながら彰が声色を変える。ニコニコと笑っているが、笑顔を向けられていない颯でもわかる冷気に背筋を震わす。女性は颯からパッと離れ、近くにあった椅子に座る。

「もう良いですか?」

「すみません、ウチのがうるさくて。お待たせしました、どうぞ」

「いえいえ、仲が良さそうで。これなら安心できそうです。失礼しますね」

 ドアの外から女性の声がタイミングよく割って入る。彰が頭を下げながら外で待つ人物を中に招き入れる。颯は聞き慣れたその声に顔を向け、口を開いて驚いた。

「母さん⁉何でここに⁉」


「…アンタねぇ、母さんが作ったハンバーグ食べなかったってどういうことよ」

 

 そこには呆れた顔で颯を見る母、真里が立っていた。



「ー……という事で、颯君、君には俺達と共に治療部隊として患者を救って欲しいんだ。君はまだ学生だし、学生である治療者は学業が優先だから、君に負担は掛けないと約束しよう。もちろん、治療者として働くことになるから給料だって出るよ。ただし、絶対に安全だという保障は無い。最悪、死がないとも限らない仕事だ。危険が伴うことだから、慎重に考えてほしい」

 目の前に座る彰は、優しさを含めながらも真剣に颯の目を見て説明する。颯は正直、困惑していた。

 ミオと柊を先ほどの女性、早乙女隊専属の武甲担当、山下やました 詩帆しほに託し、部屋には颯、真里、彰がテーブルをはさんで座っている。彰がテーブルをスマホのように触れると画面が現れ、慣れた手つきで操作する。沢山あるフォルダの中から一つ選ぶとそれを拡大した。そこには颯の名前が書かれており、その他にも何やら書かれているが、颯にはわからない。彰いわく、颯の身体は心闇を取り込んでも自身で浄化できるようになっているようで、それはミオや柊のような治療者に多い体質だと言う。

 心闇の感染が拡大する中で圧倒的に足りないのはやはり治療者らしく、それでいて彼らには制約が多い。一日に治療できる人数は10人と決められ、心闇病の検査は1日3回。治療者になれるのは16歳から55歳と年齢も決められており、尚且つ学生は学業が優先。重病化した患者が暴れるようであれば自身がどうなるかもわからない。早期に治療できる患者も人手不足で目を瞑るしかないのが現状だ。

 ここまでくればわかるだろう。治療者の体質を持つ颯に彰は『治療者にならないか』と提案してきたのだ。しかし、颯は困惑を隠しきれない。この体質だって初めて知ったことだし、何かの間違いではないのかと思う自分もいる。そもそも、あの時何も出来なかった自分が、ミオのように立ち向かうことができるのだろうか。あらかじめ説明されていたらしい真里も表情が固い。

「…俺はミオ達に用があるので少し、席を外しますね」

 颯と真里の表情を見て、彰は席を立つ。気を使える彰はやはり、上に立つ者という素質があるのだろう。穏やかに一度笑ってから彰は部屋を出ていく。部屋の中は颯と真里だけとなり、颯は肩の荷が下りるのを感じた。

「…颯」

「母さん、俺…」

 やっと口を開いた真里に、颯も顔を上げる。自分はどうすればいいのか、颯は答えが出ないままだった。

 

「何で母さんが作ったハンバーグ、食べなかったのよ」

 

「……は?」

「だって母さん、颯がテストで疲れてると思って頑張って作ったのに…何で食べてないのよ。それにアンタ、洗濯物取り込んでから外出たんでしょうね?」

「いやいやいやいやちょっと待って。え?え?噓でしょ?今の流れで聞く所そこ?あんなに重い話してたのにハンバーグと洗濯物ってマジ?てか、あんなハンバーグ誰が喰えるか‼何で外側だけ焦げんだよ。最早炭だったわ‼同じフライパン使ってるのに熱伝導どうなってんだよおかしいじゃねぇか。後、洗濯物忘れたわごめんね‼」

 真里の話に開けた口が塞がらないまま、颯は早口でまくし立てる。

「はぁ?今夜は湿気が多いから早めに取り込んでほしかったのに…何してんのよアンタ‼」

「それはマジでごめんって‼って、話違うんだよな‼俺がここで働くかどうかの話してたんだけど⁉一人息子が治療者になるかならないかの重めの話してたよね⁉アンタ聞いてなかった⁉え?俺だけに聞こえてたのあの話‼」

「聞いてたわよ。別に母さん、どっちでもいいし。アンタが決めなさいよ」

 颯は真里の返答に目を丸くする。そんな颯を見て、呆れたようにため息をついてから真里はまた口を開く。

「そりゃあ何でうちの子がって思ってるし、今日のことだってアンタに会うまで心配で吐きそうだったに決まってるじゃない。…でもアンタ、昔から言ってたじゃない。ヒーローになりたいって」

「!!!!!」

 物心ついた時には真里と二人だけの家族で。仕事をして、家事をして、ばたばたと動き回る真里は疲れているだろうにそれでも、颯に見せる顔はいつも笑顔だった。いつしか、そんな母を助けられる人になりたい。幼い颯にはそれがテレビに映るヒーローと重なって、事あるごとに口にしていた。

『いつか母さんを守れるようなヒーローになりたい』

 それは小さい頃の儚い夢で。大きくなるにつれ、そんなことを言う同級生も居なくなって。母を助けたいなら勇敢なヒーローよりも、そこそこに頭の良く問題も起こさない子どもでいる方が都合が良くて。いつしか、そんな言葉さえ忘れてしまっていた。

「いい?颯。アンタの身体はアンタの物で、あたしの物じゃない。あたしの為に都合のいい子になる意味なんてないの。母親はね、腹を痛めて産んだ子が怪我しようが病気になろうが、真っ直ぐ元気に笑って生きてくれるなら…それでもう十分すぎる幸せなのよ。それにアンタ、ここでちゃんと決断しないと一生後悔するわよ。夢も追いかけない半端者になるなら、夢を追いかけた成り損ないになりなさい」

 真っ直ぐと颯の目を見つめる真里。自分のせいで、颯に諦め癖が付いているのに気付いたのは『ヒーローになりたい』と言わなくなった頃。大切で愛しい我が子が、人一倍幸せになってくれるなら。そう思って、精一杯やって来たつもりだった。しかし、いつからか息子は我が儘を言わず、家事を手伝うようになった。最初は、どれだけ嬉しかったか。その奥底にある本心に気付いた時、どれだけ後悔したことか。行きたい所だってあっただろうに、やりたいことだってあっただろうに。颯の為に。そう思ってやって来たことは、間違いだったのかと悩んだこともあった。やりたくないなら、やらなくていい。やりたいことがあるなら、その道に進めばいい。ただ、後悔だけは、諦めることだけは、もう絶対にしてほしくなかった。

「母さん…」

「アンタが後悔しなければ、母さんはどんな答えでもいいわよ」

 ニコリと笑い真里は颯の頭を撫でる。母であり、時には父のような真里の撫で方は少し荒っぽく、この年で撫でられることも相まって颯は恥ずかしそうに首を振る。

「おや、すみません。親子水入らずの所にお邪魔しちゃいましたね」

「ノックくらいしてくださいよ‼」

「あら、おかえりなさい。すみませんね、恥ずかしがり屋なんですようちの子。でも可愛いでしょ?」

 ガチャッ、と開けられたドアの外では彰が微笑ましそうにこちらを見ている。人に見られた恥ずかしさで顔をそむける颯に対して、真里は自慢げに颯を抱きしめ頭を撫で続ける。

「いやぁ、ノックしたんだよ?真里さん、いくつになっても自分の子どもは可愛いものですよね。同じ親としてわかりますよ、その気持ち」

 ニコニコと笑いながら部屋に入ってきた彰の手には黒いファイルが握られている。颯たちの向かいに座った彰は、ソレをテーブルに置くと『さて』と口を開いた。

「金子 颯君。君の選択を聞いてもいいかな」

 指を組む彰は終始穏やかで、どんな選択でも受け入れるつもりでいる。颯は真里から離れ、一呼吸置くと彰の目を真っ直ぐ見つめて口を開いた。


「これから、よろしくお願いします」

 

 彰に対して颯は深く頭を下げる。

 この選択が良いのか悪いのか、どうなるかなんてわからない。それでも、なりたかった”ヒーロー”に。これが最後のチャンスなのかもしれない。だったら、地面に這いつくばってでも、足掻こう。


 (半端者じゃなく、成り損ないとして)

 

 自分の道を間違わないように。

 

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No.30 白百足 @common-raven

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