かもとりゴンベエ
増田朋美
かもとりゴンベエ
その日は昨日まで暑かったと思われたのが、一気に寒くなった。みんな夏の服装は辞めて、一気に冬の服装になった。なんだかその間の季節というものがない。まあ確かに、すごしやすくなったのはいいのであるが、それでもまた寒いというのもまた過ごしにくい気候になるなというのは、また暑いのと同様嫌なものであった。
その日、杉ちゃんが一人で用事があって静岡駅から電車にのり、富士駅で電車を降りたところ。一人の女性が駅のホームで、なんだか魂の抜け殻みたいな顔をして、そこに立っていた。なんだか、とても美しい女性で、普通に暮らしている女性とはまた違うのかなと思われる人だった。でもなんでそんなふうに魂の抜け殻みたいに立ってるんだろう。そこがよくわからない女性だった。
「お前さん、おい、もしもし。そんなとこでぼったって何してんだよ。」
と、杉ちゃんが言うと、女性はびっくりした様子で杉ちゃんを見た。
「そんな顔するなよ。僕はただ、お前さんがなんでそんな顔して駅にぼっ立ってるんだか、理由を知りたいの。」
女性は、杉ちゃんにそう言われて、どうしようと言う感じの顔をしたが、
「はあ、その顔から見ると、僕が答えを言ってやる。お前さんは、電車に飛び込もうとしてた。違うかな?」
杉ちゃんに言われて、女性はがっかりした顔をした。
「ああ図星だあ。そりゃ無理だわな。こんなに人がいっぱいいるところで、電車に飛び込もうとするほうがまずいんだ。もし、それをするんだったら、秘境駅とか、そういうところでやるべきだったな。お前さん、なんかその顔だと、芸能人とか、そういう人に見えるけど、僕はテレビを見ないので、わからないんだよな。名前を教えてくれるかな?」
杉ちゃんに言われて、女性は
「それ、が、、、。」
と言った。
「なんだよ。」
杉ちゃんがすぐ言うと、
「それが思い出せないんです。」
と、彼女は言った。
「思い出せない?」
「はい、思い出せないんです。私、なんていう名前だったんだろうって。それに記憶が曖昧で、事務所を飛び出してここに来たことは確かなんですけど、私がどこから来て、なんて名前なのか全然思い出せないんです。」
そう彼女は言った。つまるところ、記憶喪失という症状なんだろう。
「じゃあ、お前さんは、どこからきて、お前さんの名前も何も覚えてないんか?」
「はい。なんか何馬鹿なこと言ってるんだって感じですよね。でも、そうなんです。私、何も思い出せないんです。ここからどうやって帰ったらいいのかも、良くわからないんですよ。」
「じゃあ、事務所はどこにあるんだ?」
杉ちゃんが聞くと、
「それもわかりません。事務所を飛び出してきて、電車にのって、気がついたらここに来てました。ここがなんていう駅なのかも私はよく知らないんです。ただ、もう我慢ができなくて、それで事務所を飛び出して、適当に電車に乗って来てしまったという感じです。」
と彼女は答えた。
「そうか。じゃあ、覚えてないんだったら、帰るのも、難しいな。お前さんホテルに泊まる金もないでしょう。それで自殺しようと思ったんだね。よし、じゃあ、とりあえず、自殺をしようとした分は、体で払ってもらおうな。自殺というのは、いけないことだからな。」
杉ちゃんがそう言うと、
「やっぱりみんなそう言うんですね。自殺は間違ってるとか、神様を裏切る行為だからしてはいけないとか、そういう事をいいますね。でも、私は、もうそうするしか助かる道がなかったんです。だから、こうするしか。」
そこだけは、彼女は覚えているらしかった。
「そうかも知れないけど、でもやっぱり生かされている以上、それを返納するのは行けないぞ。それはちゃんと体で払ってもらう。僕と一緒に、大渕に来てくれるか?ここから、バスで30分くらい。それでは、行こうな。」
杉ちゃんはそう言って、車椅子を動かしてエレベーターに向かった。彼女ももう周りに沢山の人がいるのに気がついて、杉ちゃんにつていくしか無いと思ったらしい。杉ちゃんについてきた。彼女が持っていたICカードで改札はなんとかクリアすることができた。二人はバス乗り場へ行き、富士山エコトピアと書いてある大型バスに、運転手に手伝って乗せてもらった。中には、車椅子の杉ちゃんがバスに乗るのを嫌がっているような人も見受けられたが、杉ちゃんはそんな事は平気だった。バスの運転手が、発車時刻の10分前に居るのは、こういう人間が乗るためだとこじつけていた。やがてバスは、発車時刻になり、運転手の発車しますという声にあわせて動き出した。バスは、しばらく富士市のまちなかを走っていたが、少し経つと田んぼばかりの景色になった。そして、大渕というところに来ると、森ばかりの風景にかわった。その中に、富士山エコトピアという施設が建っているのは、なんだか変な雰囲気だった。杉ちゃんたちは、富士かぐやの湯という銭湯の前でバスを降りた。
バスを降りて、杉ちゃんたちは、富士かぐやの湯を通り越すと、日本旅館のような和風の建物が見えてきた。西洋式の要素が一つもない、和風の建物だった。杉ちゃんはそこの正門をくぐってその建物の、玄関の引き戸をガラッと開けて、
「ただいま戻りました。女中を一人連れてきた。ほら、ずっと女中さんを募集しているが、すぐやめちまっただろ。だから、僕が富士駅から連れてきちゃったよ。名前は、覚えていないそうなので、そうだなあ、ゴンベエとでもしておこう。かもとりゴンベエね。それで通しておこう。」
とでかい声で言った。
「おかえりなさい。女中さんを連れてきたんですか?どんな人物なのですかね?」
応答したジョチさんは、そういったのであるが、杉ちゃんと一緒にやってきた女性を見て、
「あれ?あなたどこかで見たことのある顔ですね。」
と言った。
「本当?僕もそう思ったんだよ。だけど、僕は読み書きできないでしょ。だから、なんていうのかわからないもんでさ。まあとりあえずかもとりゴンベエと呼んでおこう。じゃあ、お前さんにしてもらうことは、まず床の水拭きと、庭の草取り、そして風呂掃除ね。それが終わったら、また指示を出すからよろしくね。」
と、杉ちゃんはそう彼女に指示を出した。杉ちゃんにそう言われて、彼女はもうここに居るしか無いとでも思ったのか、それともまた何か別の考えがあるのか不明だが、とりあえず、
「よろしくお願いします。」
と言った。
「じゃあ、こっちこそよろしく頼む。しっかり掃除してくれよ。」
杉ちゃんはそう言ってどんどん製鉄所の中に入ってしまった。製鉄所の利用者たちが、杉ちゃんが美女を連れてきたので、興味を持って居るようである。こちらにいらしてくださいとジョチさんは彼女を食堂へ連れて行った。利用者たちは、彼女が食堂にやってくると、勉強する手を止めて彼女を見てしまった。今は男性の利用者はいないが、女性の利用者でもハッとするほど彼女は美人だったのである。
「いやあねえ。富士駅で電車に飛び込もうとしてたんだよ。それで自分の名前も、どっから来たのかもわかんないそうなんだ。とりあえず切符は大丈夫だったんだが、どこの駅から乗ったのかも全くわかっていない。文字通り生きてるだけの状態だよ。でも自殺はいけないことだから、体で払ってもらうということで連れてきた。名前も思い出せないので、かもとりゴンベエと呼んでおこう。」
杉ちゃんの説明を受けて、ジョチさんは
「そうですか、聞きますが、本当にどこから来たのかも、あなたの名前も覚えてないんですか?」
とかもとりゴンベエさんに聞いた。
「はい、覚えてません。私はどうするべきなのかもわからないのです。ただ事務所を飛び出してきましたが、事務所がどこにあったかもわからないのです。」
とゴンベエさんは答える。
「はあ、、、。なるほど。それは多分解離性健忘とか、解離性遁走とかそういう症状に当たると思います。先生に見ていただきましょう。とりあえずあなたが覚えていることは、事務所を飛び出してきたということだけなんですね。」
ジョチさんが言うとゴンベエさんはハイと答えた。
「それでは、事務所で何があって事務所を飛び出して来たのか?もわからないんですか?」
「それもわかりません。本当に何もわかりません。あたし、どうやってここに来たのかもわからないんですよ。」
ゴンベエさんは、申し訳無さそうに言った。
「そうですか。かなり重症なようですね。少なくとも事務所ということと、あなたがその容姿をしているということは、芸能事務所と解釈して良いのではないかとも思うのですけど、それも思い出せませんか?」
「はい、覚えてません。」
杉ちゃんとジョチさんはゴンベエさんの言うことを聞いて、困った顔をした。
「そうですか。それでは仕方がありませんね。杉ちゃんの言う通り、ここで仕事をしてもらいましょうか。何もしないわけには行かないでしょうから。じゃあ、杉ちゃんの指示通りに、とりあえず床を拭いてください。」
「ありがとうございます。あたし、何でもしますから、よろしくお願いします。」
ゴンベエさんは、そう言ってくれたので、ジョチさんは床を拭いてくださいといった。利用者たちが、この謎が多いゴンベエさんを眺めている。彼女たちも、美人の女性であるゴンベエさんのような容姿であったらいいなと思っているのだろう。ジョチさんは関係ない人たちは、気にしないでいいですといったが、利用者たちにとってゴンベエさんを放置しておくのは難しかった。
ゴンベエさんは、とりあえず掃除用具入れから竹箒を取った。そして、製鉄所の床を、竹箒ではき始めた。
「バーカ、一体何やってるんだ?」
杉ちゃんに言われて、ゴンベエさんは
「ああ、お掃除ですが?」
と杉ちゃんに言った。
「馬鹿だなあ。床は、竹箒ではくもんじゃないよ。床は雑巾で拭くものでしょうが。」
杉ちゃんに言われて、
「床は、箒ではくものではないですか?」
ゴンベエさんは全く知らないような顔で、そう言っている。それを見て、利用者たちは変な顔になった。なんでそんな事を言うんだと言う顔をしている。利用者たちは何も知らないのという感じで彼女を見て、なんだかこの人、本当に変だなという感じの顔になった。
「お前さんは、床掃除をした経験なかったの?」
杉ちゃんがそう言うと、
「思い出せません。」
ゴンベエさんは涙をこぼして泣き出してしまった。こんなに美人なのに、そんな事もできないなんてと利用者たちはそう陰口を言っている。確かにそのような容姿であれば、そう言われてしまっても仕方ないだろう。利用者たちは、彼女のことを、友達になれないわねと言っていた。
すると、聞こえてきたピアノの音が止まった。そして、市松格子の銘仙の着物を着た水穂さんが、ゴンベエさんのところにやってくる。
「そういうことなら、僕と一緒にやりましょう。まず、掃除用具入れから、雑巾を取ってきてください。そしてそれを水道の水で濡らして、それを絞って拭けるようにしてください。」
「はあ!最高の美男美女だわ!」
思わずお調子者の利用者が水穂さんとゴンベエさんを見てそう言ってしまった。
「でも水穂さんが、げっそりと痩せているのが気になる。」
別の利用者はそう言っている。水穂さんにそういってもらって、やっと泣くのをやめてくれたゴンベエさんは、すぐに掃除用具入れに向かっていった。そして、急いで竹箒をしまい、一生懸命何かを探しているようだった。
「これです。」
水穂さんは、雑巾を一枚出して彼女に渡した。
「これを水で濡らして絞ってください。」
ゴンベエさんはそう言われた通り、雑巾を濡らした。しかし絞ると言うのがよく分からなかったので、水穂さんがこうやるんですと言って、手本を示した。水穂さんはそれを彼女に渡して、
「これで床を拭いてください。」
と、言った。ゴンベエさんはすぐに床を拭き始めた。まっすぐに拭くことはできなかったが一生懸命やっている。
「なんか変な人ねえ。名前も覚えてないばかりか、床の拭き方まで覚えてないとか。それでは、学校に行かなかったのかしら?学校へ行けば、掃除の時間というのはあって、そこで掃除の仕方とか学べると思うんだけど?」
と利用者が嫌味を込めていったのであるが、
「そんな事言ってはいけません。そのような事は、ある意味差別にもなります。彼女が、そういう事を知らなかったというのであれば、そのとおりにしなければなりませんよ。誰かが教えなければ、彼女は永久に立ち直れません。」
水穂さんは静かにそういったのであった。
「今まで知らなかっただけです。それを知ることができたら、あなたも生活できるようになります。それだけでも、あなたは変わることが可能です。」
「本当に優しいんですね。水穂さんは。」
別の利用者が呆れた顔で言った。
「しょうがないじゃないですか。知らないものは知らないんです。だったら誰かが教えるしか無いでしょう。それに抵抗感を持っていたら彼女は立ち直れませんよ。」
水穂さんがそう言っている間に、床の水拭きは終了した。水穂さんはすぐに、
「じゃあ雑巾を洗って、もとの掃除用具入れに戻してください。雑巾は、石鹸で擦って洗ってください。そして先程見せたように絞って、水気を切ってしまって下さい。」
と指示を出した。
「わかりました。」
と、ゴンベエさんは言って、一生懸命雑巾を洗った。そしてぎこちない手付きで雑巾を絞って、掃除用具入れにしまった。
「そうですね。よくできました。お疲れ様です。」
水穂さんがにこやかに笑うと、ゴンベエさんは
「ありがとうございます。」
と言った。とても疲れているような顔をしたゴンベエさんに、杉ちゃんが
「よし、これでお昼にしよう。そばを作ったからたっぷり食べてくれ。」
と言って、食堂のテーブルの上にザルに乗った蕎麦をおいた。ジョチさんもすぐに蕎麦のつゆを小鉢に用意した。そこで全員で、食事にすることにした。全員の前に蕎麦のつゆと割り箸を行き渡らせると、
「いただきまあす!」
と杉ちゃんの合図で、みんな蕎麦を食べ始めた。ゴンベエさんは結構な大食漢で、美味しそうに蕎麦を食べた。流石に箸の持ち方はちゃんと知っていた。それと同時に利用者の一人のスマートフォンが鳴った。なんだろうと思って彼女がスマートフォンを見ると、
「あら!高林プロダクションが、解散するんですって!」
と思わず言ってしまった。
「高林って最近できた芸能事務所ですよね?」
ジョチさんが言うと、
「ええ、何でも、ヒロポン中毒者が出たみたい。ヒロポンって、覚醒剤でしょ。人の頭をおかしくするだけよね。最近芸能人で逮捕される人多いけどさあ。最近はクラシック音楽の歌手が捕まったりすることもあったわよねえ。」
と別の利用者が言った。
「ヒロポン中毒ですか、今は中学生までが、捕まる時代ですからね。でも、高林といえば、結構有名な女優を輩出して、それなりに功績もあるところですから、そこがヒロポン中毒者を出したとなれば、かなりの大問題になると思いますよ。」
ジョチさんがそう言うと、
「あたしたちには関係ないで終わらないかもしれないわね。だって芸能活動していた子が、ここを利用していたことも無いとは言えないでしょ?」
と、スマートフォンを持っている利用者が言った。
それと同時に、乱暴に引き戸を開ける音がした。
「失礼いたします!」
太い男性の声である。杉ちゃんがすぐに、
「はあ誰だよ!」
といいかえし、車椅子で玄関先に行った。
「なんだよ。勝手に開けられちゃ困るんだけど?」
「いえ、こちらに梅木華代という女性が来ていますよね?我々は、高林プロダクションのものです。彼女を連れて帰りますので、彼女を出してください。」
ということは、ゴンベエさんは梅木華代という名前だったのか。
「そうか、あいにくのところだが、彼女はもう梅木華代であることは覚えてないと思うよ。それに、もう芸能活動する気持ちは無いんだと思う。いいことじゃないか。彼女はこれから生きていくためにここで家事を習うのさ。そういうわけだから今日のところは帰ってくれるかな?」
杉ちゃんに言われて、玄関先の男性は、こういった。
「ええ、確かに梅木さんには、解離性障害の症状がありました。ですが、記憶喪失にはなっておりません。彼女は、うちでも大事な人材です。彼女を返してください。」
「はあ、それはどうして大事なのかな?だってお前さんところは、ヒロポンで逮捕者が出たんでしょ?そんなところへ戻すわけには行かないね。せっかく彼女は、すべての記憶をなくしてここへ来てくれたんだ。それを邪魔しちゃ可哀想でしょ。まあ、もうちょっとまって出直してくるんだな。治療とかならこっちでやるから。まあ、お前さんは来ないほうがいいよ。さ、帰った帰った!」
杉ちゃんに言われて、男性は困った顔をした。そして、しばらく製鉄所の中を眺めてみて、ここはどういうところなのか聞いた。
「まあとりあえず居場所の無いやつが、勉強とか仕事とかするために使っている、まあ貸部屋みたいなものかなあ?」
と杉ちゃんが言うと、
「そうですそうです。よくできましたね。洗剤は、環境汚染にも関わってきますから使いすぎはだめですよ。」
と、水穂さんが言っている声が聞こえてきた。多分、ゴンベエさんが、お皿を洗っているのだろう。
「多分芸能界はいって何も知らないで生活するより、こうしたほうが彼女にはいいんだと思うよ。さ、帰んな帰んな!」
杉ちゃんがもう一度いうと、男性はまた来ますとだけ言って、製鉄所をあとにしてしまった。多分また迎えに来るだろうなと杉ちゃんは思った。それでも、彼女が、梅木華代さんであることは黙っておくことにした。どうせ招待はすぐバレてしまうだろう。でも、こういう基本的な事を学ぶ機会は、彼女には、記憶をなくさない限りは無理だと思ったのだ。水穂さんと一緒に、勉強させる事を一日でも長く続けられたら、それでいいなと杉ちゃんは思ったのだった。迎えが来る前にどれだけ覚えてくれるか。それが、彼女を救う鍵だと思ったのであった。
かもとりゴンベエ 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます