#8 阪神淡路大震災 1995.1.17それは始まった 

 平成六年の冬は、和子が入社以来一番の暖冬だった。カイロの動きは止まり、工場を定時終了にしても倉庫には在庫が増え続け、このまま年が明けて問屋から、無理矢理押し込んだ商品が返品されて来たら、その保管スペースの確保も難しい状況になりつつあり、一時的に倉庫を借りる検討も始まっていた。


 さすがの狸も青ざめて、営業マンを𠮟る事にも疲れ、「なあに、一つ大寒波が来れば…」などと、天気頼みを口にするようになっている。

 このままいけば決算後、狸の責任問題に発展しそうな空気が社内に漂い始め、

 泥鰌部長やオヤマ専務は奇妙な上機嫌、社員にとっては、ボーナスを削られただけで済むのか、この先給与カットや人員整理に進むのかという不安もある一方、例年と比べて過重労働のない穏やかな年末でもあったのだった。

が、年が明けて そんな空気は一変する。


 平成七年一月十七日午前五時四十六分。

和子はまだ眠っていた。冬の朝が明ける前の真っ暗な部屋にそれは突然やってきた。布団に長く伸びた体がそのまま何度も胴上げされたように宙を舞った。起き上がろうと寝返りをうち、四つん這いになったがそれが限界だった。何も見えない真っ暗な世界は激しく揺れ動き、とても立つ事はできなかった。

記憶の引き出しにある地震とは全く違う、違い過ぎて地震との認識がすぐにはできなかった。部屋の電灯をつけようとしたが、停電。あかりを求めて這ってカーテンを開けに行っても、街の灯りはすべて消えていて外もまた漆黒の闇。

その暗黒の空に雷とは違う火花が何度も光るのを見た。

必死に子供の名を呼んだが、子供たちは和子が無事を確認したら再び眠ってしまった。恐ろしいというより眠気が勝っていたようだ。

 実際、本当に起こった事が分かるまでは、これ程の異常に直面してもなぜか誰もが事態をそこまで深刻にとらえてはいなかった。


 石油ストーブをつけ、浴槽に水を張る。このまま電気が復旧しなければ、マンション上部に水を運ぶモーターも動かない。上部タンクに水のあるうちに水を確保する必要があった。トイレも水があれば使えるし、いざとなったら飲んでもいい。とまで思ったのだが電気は数時間で復旧し和子の不安はとりあえず杞憂に終わった。

この時、実はすべてが幸運に恵まれていた事に和子は後々気付く事になる。


 和子の部屋は、家具の配置がたまたま揺れに平行であったため落下物を片付けるだけで済んだが、同じマンションでも家具の置き方によっては横転したり、中の食器が観音開きの戸を押し開いて飛び出し、割れ、足の踏み場もなくなった部屋もあった。エアコン、ガスファンヒーターは電気が止まっている間は動かせず、一月早朝の寒さに震えていたという。隣のマンションでは落下物で水道用のモーターが破壊され、住居内では全く水が出なくなった。地上までは来ている水道本管から水を汲み、エレベーターは使用できない為、階段で十数階まで水を運んでいる人たちの姿を忘れられず、その後、和子は何度も引越したが二度と高層階を選ぶ事はなくなった。


テレビは地震一色だが、どこもまだ情報は僅かでしかも錯綜していて

起こっている事はよく理解できなかった。建物が無事であったので、子供たちを部屋に残し、和子は歩いて会社まで行ってみる事にした。

いつも通勤に使っていた裏路地は、鉄柱を通していないブロック塀が粉々に崩壊していて通れない。表通りを行くと、塀越しに見えていた近隣の工場の屋根が建物の崩壊で消えていた。何本かの電線が異様に地上近くまでたれ下がり、古い建物が崩れた土ぼこりとその匂いを風が運び空を濁らせ、視野を曇らせた。


和子の会社の建物は外から見た様子には変化なく、横の工場にはすでに何人かが来ていて片付けを始めている。彼らに声をかけ、とりあえず建物の中に入ってみる。エレベーターは止まっていて、階段は壁のパネルが落下して塞がっていた。二階に人の気配がするので落下物を跨いだり潜り抜けたりして上がっていく。

室内には、すでに数人の社員が来ていて営業マンのポケベルを鳴らしたり、片付けをはじめたりしている。

スケジュール管理のホワイトボードに並ぶ名前の横に安否確認済みの赤丸が並んでいる。その数を見ながら進むと、酒の匂いが鼻をつく。稲荷からのおさがりの一升瓶が三本給湯室から飛び出してすべて割れているのを営業事務の子が片付けている。通勤途中で電車が止まり、線路を歩いて来たのだと笑う。「帰ればよかったのに」と言うと「戻る方が遠いし戻っても一人だから、誰かといる方が安心だったんです」と、

そんな会話の間にも余震が何度もやってくる、気持ちは分かるけど、帰りは大丈夫なのだろうか…

お母さんには連絡したのね、と確認して、奥の総務席にたどり着く、まだ誰も来ていない。

フロアに並ぶ机から鍵をかけていなかった引き出しがことごとく飛び出している。

長引いた揺れの為、床に落ちてからもさらに移動しているので、どの引き出しを誰の机に納めたらいいのか全く分からない。書庫ロッカーは詰め込まれた書類の重さで転倒こそしていなかったが、前に出たり横に移動したりしていて、それは男三人がかりでも押して戻す事は全く出来ず、地震のパワーのすごさを思い知らされた。


そんな時、下の工場から着払いの荷物が来たので確認して受け入れたと連絡が来た。運転手に代金を払うのは総務の仕事だが、小口現金用金庫のしまわれた大金庫の鍵を持つ泥鰌部長はまだ来ていない。既に運転手は荷受印の押された伝票を持って2階まで上がってきている。

和子は自分の財布から支払った。それが部長到着後悶着の原因になった。

「なんで個人で払う! 金庫が開いてないからもう一度来いと運転手に言ったらいいだろう! 勝手な事をするなっ!」

「こんなに道が壊れて車が渋滞している中を届けてくれた運転手さんにもう一度出直して来いなんて、言えるわけがありません! 」

 かけっぱなしのラジオから次々告げられる異常な状況、時間と共に通じなくなる電話、何度も襲う余震。誰もが普通ではいられなかった。


 この日、和子はこの異常事態を前にしても建前規則ばかりの泥鰌と何度も衝突し、昼過ぎにはこれ以上子供だけで置いておけないと帰宅した。もちろん

「仕事を放りだして帰るなんてそんな無責任な事、許さん! 」

「子供が二人だけで家にいるんです。電話も通じないし商品も動かせないのではどうせ仕事になりません。子供の方が大事です! 今日は欠勤にして、給料から引いて頂いて結構ですっ! 」

「どうしても帰る言うんやったら、もう辞めてんかっ! 」

「社長に言われたら辞めます。私、部長には雇われていませんからっ! 」

 と衝突して。


 やがて和子は、世の中にはこんな緊急事態にも商機を見てすぐに動く人間がいると知る。

何軒かの問屋からはその日のうちに追加注文が入った。真冬の一月、電気もガスも絶たれた地域で、火を使わずに暖を取れるカイロは何よりも必要な品になる。絶対に売れる。あればあるだけ売れる。確かに…

日を追って、今まで取引のなかった会社からもカイロを求めて電話が入りだす。それはまだ買おうという話なのだが、さらに、怪しげな団体名を名乗って、脅しまがいにカイロの無償提供を迫る電話が次々とかかり始める。

「困っている人がいるんだぞっ! さっさと寄付をしろ! お前たちは人の不幸で金儲けしようというのか! 」

と怒鳴り続けるのはただで品物を手に入れて転売しようとしている輩。通常一パック三百円程度で販売されていた商品が「千円で売られている。お前らはどういうつもりだっ! 」と怒鳴り込んできた電話もあった。もちろん、製造側のあずかり知らない事である。


 上からは「寄付はすべて赤十字社にさせてもらっている」と言うように指示が出ていた。しかし、本当に寄付などできたのかは疑問だ。

 すぐに国が動いたからだ。近隣のトラック会社のトラックはすべて支援物資や再建資材輸送に押さえられて使えなくなった。カイロ自体も国からの買い上げ要請が最優先となり、暖冬で満杯だった倉庫ごと、変形カイロや一年前のものまで全てそのまま援助物資となった。


 神戸市の北東、三田市にあった工場は無事で、被災した社員はいたがケガ人や死亡者はなく、それまで暖冬で生産調製していたため原料も潤沢にあり生産は可能だったのだが、トラックがない。

 神戸につながる国道は日と指定時間帯を明記した救援物資運搬車のシールを貼ったトラック以外は例外なく通行禁止になっていて、輸送手段が全くなくなっていた。

 狸はトラック会社に「シールを貼ったトラックに帰りに工場に寄ってちょっと荷物積んで来てもらえないか」と身勝手な相談をしたようだが、運転手三交代で終日トラックを走らせ続ける運送会社に、そんな話を聞く余裕などあるはずもない。

商品は作られていて、需要もあるのに動かせない。大阪まで運べば運んだだけ全部売れるのに… 

狸はやがて、とんでもない事を思いつく。

 

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