◆最終話◆
◆ ◆ ◆
夜職の女とすれ違うと振り向いてしまう事がある。ムスクの香水を嗅いだときや、ハスキーな声が聞こえたときに。
俺は今もアンクにいる。
役職は変わった。事業拡大で忙しくなった阿久津に代わり事務作業をするようになったからだ。フロアに出ているよりパソコンと向かい合う時間の方が長くなってしまい、名前ばかりの店長の立場はトラに譲った。俺は支配人になったわけだが要はただのマネージャーだ。夜職は何かにつけて大袈裟にしたがる。
最近ようやく元通りの生活を送れるようになった。
エマの事があってすぐは電話が鳴れば飛び上がり、グラスが割れればトラブルだと思い込んだ。キャストが遅刻すれば永遠に電話を鳴らし、無断欠勤しようもんなら黒服にタクシー代を押し付け家まで見に行かせたくらいだ。アゲハに「ちょっと病的よ」と言われる始末だった。今は自分でもそう思う。
このまま何事もない日々をやり過ごしたい。キャストが笑顔で仕事できればそれ以上は何も望まない。フロアから楽しそうな声が聞こえる。状況に満足してパソコンを見た。
新着一件、阿久津から。
幸福に水を差され未読で消してやろうかと思ったが腐っても上司だ。メールを開くと長期で出張するとある。売上の入金頻度など細かい指示があり帰還が未定であることが読み取れた。まあそんなに困らないだろう。何かあれば電話すればいいだけの話だ。むしろ平和かもしれない。
返信を済ませると時計を見た。そろそろ営業終了だ。
送りの車を手配し、レジを締め、黒服を帰したら誰もいないフロアを掃除をしよう。
良い事も悪い事もない最高の一日を噛みしめながら。
◆ ◆ ◆
<一年後>
「新店を出す。店の名前考えろ」
少し痩せたのだろうか。若干凄味の増した阿久津は連絡もせず店に現れるとノックもせず事務所に入ってきた。突然すぎて何一つ頭に入らない。
「店長やれ。おい聞いてんのか」
「いや、俺はここにいる。トラを連れてけよ」
「アンクは潰す。多摩から撤退だ」
ここまで育てた店なのにという思いと阿久津なら躊躇わずやるだろうなという諦めが渦巻き溜息になった。
「キャストはどうする」
「そういや昔ここで同じやり取りしたよな。対応も変わらない。基本は他店に当てがう。新店が複数あるから多少は引き抜くかもな。山下を手放すつもりはない」
「誰も死なすな」
俺はどこで何をさせられようがどうだっていい。本当だ。店長として店を守る。それだけだ。
そして従業員が全員無事という当たり前を積み重ねて毎夜祝おう。
くだらないだろうか。無意味だろうか。イブへの弔いにはならないだろうか。分からない。けれどエマだけは「素敵じゃない」と言って笑ってくれるような気がした。
◆ 完 ◆
【伏線を調べるタイプの方へ】
https://kakuyomu.jp/works/16818023213930258791/episodes/16818023213952660138
ANARCHY 水野いつき @projectamy
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