◆第51話◆

 隣室の玄関は鍵が掛かっている。傘立てもない。インターホンは虚しく響いた。


 篠田が使えれば鍵師を呼べただろうか。阿久津に奴を貸してくれと頼むわけにもいかない。ならば最終手段だ。


 エマの部屋に戻り、押し入れから音楽機器のメンテナンスセットを取り出した。目当ての道具をポケットに入れると隣のベランダに再度侵入した。


 ガラスと窓枠の隙間にドライバーを差し込む。息を深く吸って吐く。頭の中で三つ数える。一、二、三。懐かしい手応え。


 窓ガラスを三角形にくり抜いた。手を入れて鍵を開ける。悲しいかな、二度とするまいと誓ったが体は覚えていた。


 香水の匂いはしないが間取りは一緒だった。日が落ちたので同じ位置にあるスイッチを入れ電気を点けると、飛び込んできた光景にぐらりと目眩がして壁に手を付いた。



 信じられない。居間とキッチンの間に、あのビーズのカーテンが掛かっている。



 バスルームに飛び込むと便器を抱え込んで吐いた。はね除けたビーズのチャラチャラした音が追い打ちをかけてくる。何も出なくなった後も胃が痙攣して苦しかった。


 息を落ち着けると便座の裏に光が反射しているのが見えた。グラスかと思い手に取ると鏡の破片だった。


 口をゆすごうと立ちあがる。エマの部屋のバスルームには洗面台に鏡が付いているがここにはない。あるのは鏡の枠だけだ。じゃあこの破片は何だ。せっかく落ち着いたのにまた吐き気が込み上げる。


 これは現実だと自分に言い聞かせ冷静さを取り戻した。正確には取り繕った。そうでもしないと叫びだしてしまいそうだった。


 俯瞰してみる。シャワーカーテンの掛かっていないユニットバスは二四時間モードで換気扇が回り続けていた。ひやりと乾いた鏡のない個室は何も教えてくれない。


 キッチンには当たり前のようにエマのお気に入りのコーヒー豆がある。何より驚いたのはあのカーテンだ。こんなに悪趣味な物が近距離に二つもあるなんて不気味すぎる。家主が別なら逆に怖い。


 居間に戻る。さっきは気付かなかったがこの部屋には生活感がない。室内のコンテナボックスには緩衝材に包まれた割れていないグラスが隙間なく入っていた。業務用の大きな酒は箱買いされ積み重ねられている。荷物を運ぶ台車もあり倉庫的な使われ方をされていた事が分かる。


 無機質なスチールテーブルには書類が散乱していた。アナーキーの電気代や酒代の領収書だ。スタッフの給与明細もある。仕事関係ばかりだが一枚ずつ内容を確認しているとある封筒で手が止まった。住所がここじゃない。保険関係の手紙だが新宿じゃない上に建物名も部屋番号もない。一軒家だ。どうやらエマの本宅を突きとめたらしい。


 最後に押し入れに手を付けた。クラブのオーナーらしく古い型のDJ機材やコード類が入っている。

 音響機器に紛れる男物の鞄を見付けた。旦那の遺品にしてはデザインが若い。半ば諦めて中身を調べる。剥き出しの現金とパケに入った見覚えのある薬物。田代の持ち物だ。


 エマ、俺は信じたくなかった。


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