◆第50話◆
◆ ◆ ◆
傘立ての下に隠されている鍵で部屋に入ると窓を開け放った。香水の匂いが籠もっていたからだ。
ここはエマがいくつか持つ部屋の一つ。この場所で少年院行きを止められたときがエマに会った最後だ。
音を立てないようにビーズのカーテンをくぐり居間に入る。あの日向かい合ってコーヒーを飲んだテーブルには灰皿以外何も置かれていない。
アナーキーはシャッターが閉まりビル自体に入れないようになっていた。分かってはいたが手持ち無沙汰になりその足でここに来た。
改めて部屋を見回す。そもそもここはエマの本宅ではなく家主の居場所を示す手掛かりはない。
エマがここ以外にどんな部屋をいくつ借りているのか分からない。阿久津なら調べられるだろうか。どの道調べられてバレるような場所に留まっているわけがない。それでも心当たりを探すのは俺の気休めだ。
居間の押し入れ、キッチンの収納、ユニットバスの浴槽の中。狭いワンルームを一回りするには一分もあれば十分だ。
これ以上ここにいる意味はない。窓を閉めようとベランダに近付いた。ついでに外の様子を見る。角部屋だから隣室は左側にある。ベランダとは緊急時ぶち破って避難できる薄い板で仕切られているだけだ。そういえば隣人には会った事がない。
仕切り板は数センチ浮いていて這いつくばればのぞき込める事に気が付いた。少し悩んだが沈み始めた太陽に急かされコンクリートに頬をつけると、サンダルと青いコンテナボックスが見えた。中身が気になり、手すりから身を乗り出して隣を覗き込んだ。はたから見れば完全に不審者だ。
コンテナは三段重なっていて一番上は口が開いていた。中には馴染み深すぎるものが入っていて一瞬思考が停止した。
大量のガラス片。
割れたグラスの残骸。
俺は夜職だ。毎晩グラスを見て触れて、割れればああやって搔き集める。一目見て分かった。あれは粉々に砕けたショットグラスだ。
西日がガラスに反射して窓に虹色の光を映し出す。黒色の遮光カーテンは隙間なく閉ざされていて部屋の中の様子は一切分からない。だが一つだけはっきりした。
隣人は飲食店関係者だ。それ以外あの大量のグラスを説明出来ない。
仕切り板を蹴り破るまでもなく侵入できた。ベランダの手すりには足を乗せられる幅があり近所の目だけ気にして素早く飛び移った。
中段のコンテナボックスにはシャンパン用のフルートグラスが入っていた。こっちも割れている。脚が細く薄い分ショットグラスより数が多い。
恐らくネットで大量注文して届いたグラスだろう。梱包や運び方によるだろうがいくつか割れて届くのは仕方がない。
下段。最後のコンテナを見る。箱を開けると記憶の蓋も開いた。心臓が痛む。
例によって粉々だが間違いなくゲストグラス。俺が田代の部屋で割ったグラスと同じものだ。
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