◇第49話◇
◇ ◇ ◇
耳鳴りの向こうでザク、と音がする。
オレは穴に入っているらしい。もしくはこれから入るのか。
頬に何か触れる。ムスクの匂い。エマちゃんの手。少し震えてるのはなぜだろう――
オレは今朝死んだ。昨日与えられた食事に何か入ってた。
遅効性らしい毒が回り、出しっぱなしのシャワーと換気扇の音が耳鳴りの一部になった頃、苦しみの向こう側に行った。
そしてエマちゃんがオレの身体を拭きながら独り言のように昔話をしてくれた。
俺と出会った夜の事だ。旦那を事故で亡くした絶望がエマちゃんをビルの屋上に立たせた。
考え、心が決まったとき、ふらりとオレが現れた。自分以上に死にそうな様子にうっかり声を掛けてしまったと自嘲した。
全然知らなかった。エマちゃんも死のうとしてたなんて。
あの夜の事はよく覚えている。黙って話を聞いてくれるエマちゃんが女神に見えた。
仕事をミスしたオレの必死すぎる言い訳や篠田への恨みつらみが、どういうわけかエマちゃんに生きる力を与えたらしいのだ。とどめは母への気持ちだった。
「母さんに会いたい。たったひとりの家族だから」
泣き崩れるオレを自宅に連れ帰り飯を食わせると「ここにいて」と言い残しイブの元へ向かった。その頃には夜が明けていた。
イブの母親は風俗嬢でアカリと名乗っていた。元々アカリと仲の良かったエマちゃんは生まれる前からイブを知っている。父はいないが母が二人いるような環境になった。
イブが大きくなるにつれアカリは子供を放って男と遊ぶようになる。イブは特に気にしなかった。アカリは必ず食費を置いて出掛けたし、様子を見に来るエマちゃんがいたからだ。
アカリが死んだのはイブが十三歳の時。元客のストーカーに刺されて死んだ。
世間から見ればネグレクトと言えるだろう。だが愛されていなかったわけじゃない。突然の母の死は多感な少女を屋上の柵の向こう側に誘ったが、アナーキーのビルを選んだのだからイブなりのSOSだったはずだ。当然エマちゃんに見付かり速やかにこの世に戻された。
慰めの言葉はなく、ただ香典として二十歳までの家賃とエマちゃん名義のクレジットカードを与えた。
イブが女だからこそ世話を焼かず、必要以上に手を貸さなかったと言う。強くあれと。エマちゃんらしい。
きちんと訪れた思春期は大人しかったイブを夜の街へ向かわせた。家に引きこもってしまうくらいなら夜中でも外に出た方がマシだと黙認していたから、あの朝も始発帰りのイブを簡単に捕まえる事が出来たらしい。
「えまこちゃん? どうしたの急に」
「ねえ、あたしと暮らしたい?」
「うん」
「じゃあ今夜迎えに行くから。荷物まとめて」
「わかった」
昼過ぎにひとりで自宅に帰ってきたエマちゃんは札束の入った封筒を投げてくれた。部屋を片付けるからそれ持ってさっさと消えろと言った。嬉しそうな顔を覚えている。
引き取ると言ってもイブに戸籍はない。アカリのアパートを引き払い、エマちゃんの持ち家を一部屋を与えただけだ。そうしてアンク在籍まで二人は共に暮らしていた。
「もう親子だね」
「やめてよ」
「えっなんで?」
「あんたの母親はアカリ」
「うち、えまこちゃんに育てられた時間の方が長いと思うけど。じゃあ姉さんは?」
「それなら悪くないわ」
イブが引っ越してきた初日、出前の寿司とピザを食べながらよく似た二人はいつまでも笑い合っていた。
イブの本当の名前は宮田ヒカリ。水商売を始めてから、源氏名はいつもイブだった。
◇ ◇ ◇
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