◇第44話◇

 ◇ ◇ ◇


 本当に死にたいなら手首は縦に切った方が良い。昔付き合ってたメンヘラ女がそう言ってた。


 鏡の破片を皮膚に押し当てる。痛みはない。思い切って引く。力を入れたつもりだったのに、かすり傷すら付かなかった。ギロみたいな元カノの腕を思い出す。あの女、ガリガリの泣き虫だったくせに意外と根性あったんだな。


 三角定規を思い出す形の鏡面がオレの半顔を写す。多少痩せたが、普段のオレだ。定期的に食事して水を十分飲んでるからだろうか。体感としてはそろそろエマちゃんが餌付けに来る頃だけど、あんまり健康的だと反省してないように見えてしまうから損だ。


 篠田の事を考える。薬物売買が組長にバレて消されてるといいな。後は阿久津って奴。オレがまだ生きてるという事は未だに捜されてるらしい。もしも対面したらイブをやったのはオレじゃないって伝えたい。どっち道殺されるだろうけど、絶対に篠田を差し出してやる。この前エマちゃんが言ってたクロって奴はいまいちピンと来ない。阿久津の仲間だから、やっぱ怖いのかな。イブはどうしてこいつに助けを求めたんだろう。喧嘩が強いのかもしれない。


 この部屋が誰かに知られてるなら別の場所に監禁されてるはずだから、ある意味ここが一番安全ではある。まあ家主に殺される予定だけど、文句は言えない。オレを殺す権利があるのはエマちゃんだけだから。


 手の中の鏡が温かくなった。宝物を埋めるように便器の裏に隠す。ガラクタだが取り上げられるのは嫌だ。これを失ったら自分の命まで取られるような気がした。


 結局の所、オレは死にたくない。


 もしもここから逃げ出せたら、まずは実家に逃げよう。ヤクの在庫はこの部屋の押し入れに突っ込んだまま監禁生活に突入した。エマちゃんがとっくに処理したはずだ。現金も期待出来ない。


 行けるところまで電車で行って、東京から十分に離れたら公衆電話を探そう。母親が出ればすぐに迎えに来てくれる。田舎で体制を立て直して、親に金借りてパスポートを持って海外に飛ぼう。二年か三年か、五年でも十年でも。キツかろうが汚かろうがどんな仕事でもして熱りが冷めるのを待とう。

 帰国したら貯めた金で整形する。二度と関東には近付かない。沖縄か、北海道か、とにかく誰もオレを知らない土地で人生をやり直すんだ。


 少なくともオレは人殺しじゃない。神様がいるのならチャンスはきっと来るはずだ。


 蛇口をひねり水を飲んだ。

 玄関の鍵が開く音が響いた。


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