◇第30話◇

 ◇ ◇ ◇


 玄関のドアが開いた。ビニール袋のガサガサした音と足音が近付いて、遠ざかる。


 チャラ


 ビーズのカーテンの音が聞こえたという事はバスルームを素通りして居間に入ったという事になる。

 オレは居間とキッチンの間にある狭い個室に閉じ込められている。


 口に詰め込まれたタオルは水分を吸いきりガムテープの粘着を弱めてくれた。声を出すことは可能だったけど怖かったから黙って様子を見た。


 またカーテンが音を立てたのでバスルームに入ってくるかと思ったら今度は電子レンジの音がする。後ろ手に洗面台の蛇口が捻れたから水はいくらでも飲めたけど、空腹はもう誤魔化しようがなかった。


 チンと小気味良い音が響き、少しの無音の後おもむろにバスルームのドアが開いた。


「あっ起きてたの」

「エマちゃん」


 分かってはいたけどやっぱりと思ってしまった。


「麻婆豆腐食べる?」

「あ、うん」


 何でオレは普通に会話してんだ。後ろを向かされ、手の拘束を解かれた。関節がバキバキに固まっていて腕を動かすと肩が強く痛んだ。


「ラー油かける?」

「エマちゃん」


 目で返事するようにゆっくり瞬きされた。言葉を選んでいるとエマちゃんが口を開いた。


「何でこんな事するの、かな?」

「うん」


 とりあえず食べてと麻婆豆腐を押し付けられ、口の中を火傷しながら飲み込むように食べた。味は分からなかった。


「ヒカリ」


 光?


「あんた自分が殺した女の本名くらい知っておきなさいよ」


 麻婆豆腐が戻ってきそうになって喉元を拳で叩いた。週刊誌はイブは"飲食店勤務の女性"だった。まさかそんな……。


「やってくれたわね」


 怖い。その先を聞きたくない。


「あの子あたしの妹なの。本入店しても続かないから登録制のキャバクラ派遣で働かせてた。新店に引き抜かれたって聞いたときは心配だったけど、調べてみたら阿久津君の店じゃない。それで子守としてアナーキーのバイトを貸す事にしたの。無気力なくせに情に厚いのが一人いるのよ。実際、黒服が足りてないって言ってたしね。ヒカリはその事知らないわよ。あたしとの繋がりが知れたら贔屓されるとか一丁前な事抜かしてたくらいだもん。指名が付かなくて悩み始めた所にあんたが現れたってわけ」


 気が遠くなった。


「偶然だ。本当だ」

「知っててやったんならとっくにミンチにしてるわよ」


 冗談と思わせない響きがあり生唾飲み込んだ。


「新百合ヶ丘で一人暮らしさせてたの。あたしは新宿に出やすいし、あの子も多摩線に乗れるでしょ。しょっちゅう泊まってたから薬物使用はすぐに気付いてたけどあえて咎めなかった。寝てる間に鞄漁ったらガキの遊びみたいな薬が出てきただけだったし。あの子は言っても聞かないから未成年のうちに一回痛い目見た方がいいと思ったのよ」


 エマちゃんは蓋をした便座に座りパーライトを取り出した。一本オレの口に押し込み火を付けてくれた。


「それが間違いだったの。泊まりを断られる事が増えて呑気に枕営業でもしだしたかな、なんて思ったらあんたが転がり込んできた。イブが、なんて騒ぐから嫌な予感がしたわ。あんな源氏名珍しくもなんともないけど、ヒカリに電話しても繋がらないし店も飛んだって知って絶望した。後から見付かった未成年死体の身元を調べてるときはほとんど諦めてた」


 咥えたパーライトを奪われ耳の裏に押し当てられた。


「自分の性分を恨んだわ」


 捨て猫を拾うようにオレを助けてくれた。そして同じように救われた人間が沢山いる事を知っている。けど、恩を仇で返したのは、多分オレ一人だけだ。涙が止まらない。


 火傷のじくじくした痛みは心臓の痛みを和らげるかのように熱を持って留まった。痛めば痛むほど罪が軽くなるような気がする。この期に及んで都合の良い罰を欲した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る