第二市 わんこそば

「そういえばお腹空いたなあ」


 思わず声が出た。岩手県に入ってまだ食事をしていないことを思い出す。


 盛岡もりおかの街を歩いていた。山の中だった花巻はなまきとは一転し、ビルがまばらにあり、ちょっとした田舎の地方都市といった趣である。

 その先には雄大な岩手山の山容が目に入る。切り立ったような火口が特徴的であり、その美しさは感動的だった。


「盛岡だと、ひっつみっていう煮込み料理が郷土料理の代表格のようですね。手で延ばした小麦粉の生地のほか、鶏肉や根菜、キノコ類を醤油ベースで煮込んだものです」


 モモちゃんが全国観光ガイドブックを眺めながら提案する。

 だが、それに対し、別の意見も上がった。


「それよりも、盛岡に来たのなら、わんこそばに挑戦してはいかがですか」


 そう発言したのは宮沢みやざわ賢治けんじだ。

 なるほど、ひっつみは知らなかったが、わんこそばなら東京都民の間でも知られた料理だ。確か、少量のそばを何杯も食べるやつだったかな。


「そうです。椀に盛った少量のそばを食べる端から継ぎ足されるという変わった形式のおそばです。量を食べるお蕎麦だからか、薬味が豊富なことでも有名なんだとか」


 モモちゃんが全国観光ガイドブックを読み上げた。

 あれ? 宮沢賢治がいるのか。前回、死者であることが判明し、銀河鉄道でこの世を去ったんじゃなかったのか。


「いえ、私はずっといましたよ」


 黒い山高帽の陰から、柔和な笑みを絶やさずに、宮沢賢治が飄々ひょうひょうのたまう。


「何を言っている? 別に別れてなんていなかっただろう」


 イチロー兄さんも平然と言う。

 なんだと……。絶対にそのまま別れる流れだったじゃないか。


「細かいことは気にしない。ゴロちゃん、わんこそば食べに行くよ」


 モモちゃんに促され、俺はほかの三人の後を追って、わんこそばの店へと向かっていった。


   ◇   ◇   ◇


「どうだろう、たまには身内同士で勝負といかないか。どれだけ食べたかを競うのだ」


 出た、イチロー兄さんの勝負宣言。とはいえ、確かにこの三人で勝負したことは今までなかった。

 あくまでお遊びの勝負ということだったら、面白いかもしれない。


「いいですね、この辺りで三人の序列を決めておくのもいいかもしれません」


 モモちゃんがイチロー兄さんに同調する。いや、なんだよ、序列って。そんなの決めなくていいだろ。面倒くさいばかりだよ。


「面白そうですね。私も参加させていただいても?」


 宮沢賢治はニコニコしたまま、尋ねる。


「望むところだ。雌雄を決しようではないか」


 パチンっ


 そう言うと、イチロー兄さんが指を弾く。その合図に従い、お店の仲居さんたちがそばを持ってくる。


 俺たちの前にはお椀と豊富な薬味が置かれた。

 お椀の蓋を開けると、そばとつゆが入っている。蕎麦の豊かな香りとつゆの鮮烈な匂いが食欲をそそる。


 ズルルっ


 そばを啜る。一口で食べ終わる。蕎麦は美味しくコシがあって歯ごたえもいい。醤油ベースでかつお出汁の利いたおつゆもスタンダードながら実に美味しい。食材がいいのだろう。

 けれど、そんな感傷に浸っている暇はなかった。仲居さんがおかわりを即座に持ってくる。俺はお椀を上げて、それを受け入れた。


「はい、じゃんじゃん」「はい、よいしょ」「はい、どんどん」「はい、まだまだ」


 仲居さんの掛け声が響いた。ほかの三人もおかわりをしているようだ。

 まあ、これは当然。わんこそばは食の細い人でも何十杯も食べるものであるのだから。


 十杯くらいは食べただろうか。私の平らげたお椀が目の前に山となって置かれている。これはどうだ。優勢なのか。

 目見当ではわからないくらい拮抗している。まだ、勝負の行方はわからない。


 ここで薬味を食べよう。そばだけを食べるのに口が慣れ過ぎた。味変が必要だ。


 まずはなめこおろし。なめこのコリコリした食感、大根の爽やかでツーンとした味わいが新鮮な美味しさを提供してくれる。

 そばを食べるのも俄然楽しくなるというものだ。


 イクラを入れるのもいいだろう。プチプチした食感から、その弾けるような旨味と塩味がそばに彩りを加える。あるいは山菜と食べる蕎麦というのも乙なものだった。

 マグロの刺身なんてものもある。マグロの柔らかさと絶妙な旨味と海鮮の味わい、これが蕎麦と合うとは思わなかった。


「ねぎやとろろもあるぞ。これは東京都でも食べられているものだがな」


 イチロー兄さんはその辺りを中心に食べているようだ。


「お漬物や紅しょうが、かつお節も美味しい。でも、お刺身も美味しいよね。私のはアジとイワシ。これも合うんだから」


 モモちゃんもまったく引けを取らずに食べ進めていた。

 負けてはいられない。俺は食べるスピードを速めた。


 どれだけ、そばを啜っただろうか。俺の前にはお椀の山が何十個も置かれている。ひょっとしたら百に届くかもしれない。

 だが、俺の腹はもう限界を迎えていた。これ以上食べることはできない。


「ゴロちゃん、ミスってたね。そばをよく噛んで食べてたでしょ。それじゃ、満腹中枢が刺激されてたくさん食べられないの。わんこそばはよく噛まず飲み込む。これが正解よ」


 なんだか健康に悪そうな食べ方を力説された。

 しかし、俺はもう降参だった。仲居さんが来たタイミングでお椀の蓋を閉める。すると、仲居さんの手が止まり、それ以上は蕎麦を入れなくなった。

 俺の大会なつは終わった。あとは三人の勝負を見守るだけだ。


 戦いは思いの外、長引いていた。

 一体、どれだけの椀を干したのだろうか。すでに百を超える、いや二百を超える椀が三人の前にそれぞれ並んでいる。


 パチンっ


 イチロー兄さんが指を鳴らした。

 勝負が膠着している。その状況を打開すべく、状況を変えるために動いたのだ。

 それを受けて、仲居さんが持ってきたのはわんこそばではなかった。それは深皿に盛られたラーメンのように見えた。だが、ラーメンにしては冷たいようだ。


「これは盛岡冷麺! 朝鮮半島の伝統料理を岩手県民が改良して生み出したといわれる変形ラーメンのひとつ。

 これは確か……」


 モモちゃんが戦慄したようにその麺を啜る。そして、撃沈した。


「なに、この麺!? 硬くて食べられないよ」


 一説によると、盛岡冷麺の麺はゴムタイヤと同じくらいの硬度を持っているという。さすがにモモちゃんもこれを食べ進めることはできなかった。

 だが、イチロー兄さんと宮沢賢治はこれを難なく食べ進めている。両者は互角の力量を持っているということか。


 パチンっ


 さらに、イチロー兄さんの指が鳴る。

 仲居さんはまた別の麺料理を持ってきた。白い麺――うどんだろうか――にキュウリが山盛りにされ、さらにその上に肉味噌がどっさりと乗せられている。


「これは、じゃじゃ麺! 盛岡の三番目の麺料理。肉味噌やきゅうり、ネギを麺と絡めてたべる一品ですね」


 これまで涼しい顔で麺を啜っていた宮沢賢治の表情が強張った。そして、その箸を下ろす。


「これは食べられません。肉が入っているじゃないですか」


 そうか。宮沢賢治は菜食主義者。じゃじゃ麺を食べることはできない。それを見越した上でのイチロー兄さんの作戦であった。

 いや、そこまでして勝たなきゃいけない勝負だったっけ。


 かくして、わんこそば勝負はイチロー兄さんの勝利で幕を閉じた。

 しかし、ちょうどその頃、店の外でざわざわとした喧騒が聞こえ始めた。それは外だけのものではなかった。


 俺の目の前にあるお椀がカタカタと震え始める。そして、蓋が飛び、水飛沫が舞う。小さなお椀だというのに、その中から人間ほどの大きさの岩手県民が現れた。

 頭の頭頂部が禿げ上がり、皿のようになっている。背中には甲羅を背負っていた。全身は赤みがかかっており、口があるべき箇所に嘴が生えていた。手には水掻きがある。

 小柄ではあるが、筋骨隆々とした引き締まった肉体をしていた。


 これは河童かっぱか?

 もしや、盛岡中に河童のような妖怪変化が現れているというのか。

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