第十二県 魍魎たる秘境、岩手

第一市 イーハトーブ

「ようこそ、イーハトーブへ。東京都民の方々」


 秋田県の巨大建造兵器の燃料が尽きたころ、ちょうど岩手県へと辿りついた。建物から降りると、そこには黒いコートに黒い背広、黒い山高帽に身を包んだ、柔和な笑顔の男が出迎えてくる。

 イーハトーブ? なんのことだ?


「イーハトーブとは童話作家あるいは詩人の宮沢みやざわ賢治けんじが思い描いた理想郷のことです。その語源は岩手いはてとされ、岩手県の理想的な側面を指す言葉でもあります」


 全国観光ガイドブックを読み解きつつ、モモちゃんが解説してくれた。

 ということは、まさかこの目の前の岩手県民は……。


「これは申し遅れました。私がその宮沢賢治ですよ」


 岩手県民宮沢賢治が柔らかな口調のまま名前を名乗った。

 それに対して、イチロー兄さんが反応する。


「ほう、宮沢賢治といえば岩手県の首魁しゅかいとでもいうべき存在。わざわざ出迎えてくるというのはどういう了見だ?」


 確かにその通りだ。いきなりの大物の登場は不可解なことであった。

 けれど、宮沢賢治は動じた様子を見せず、ただ「ふっ」とした笑みを漏らす。


「私はそのような大物ではありません。ただ、農業をし、詩を詠んで暮らしているだけのものです。

 どうでしょう、私に岩手県を案内させてもらえませんか。なに、でくのぼうが一人ついてきている。そう思っていただければ結構ですよ」


 その言葉にイチロー兄さんは眉をひそめる。


「あなたの目論見がわからない。どうした目的での行動なのだ? 単に私たちに尽くしたいということだけではないだろう」


 大物相手にも偉そうな口調が変わっていない。

 俺はいつ宮沢賢治の不興を買うか、気が気でなかった。


「ははっ、そうですね。私の思惑を話しましょう。

 東京都には田畑もなく、ただビル群だけがあると聞きます。これはいけません。農業こそが国の支えですよ。

 私はあなた方にイーハトーブを案内することで、農業の素晴らしさを教え、東京都を農業王国にしてもらいたいのです」


 それは壮大というか、なんだかよくわからない計画だった。しかし、東京都は日本の中心としてビルを建築することで成り立っている。農業などはほかの場所でやらせればいいのではないだろうか。

 しかし、この言葉にイチロー兄さんは納得したようだった。


「そういうことか。ならば、存分に案内してもらおうじゃないか」


 その尊大な言葉に、宮沢賢治は柔らかな笑みを浮かべたままだった。


   ◇   ◇   ◇


 山に分け入っていた。先導するのは宮沢賢治だ。ここは花巻はなまきという場所らしい。

 途中で、何やら岩手県民たちが言い争いをしている場面に出くわした。岩手県民がどんな存在なのかと観察すると、なんと木の下に落ちているドングリが口喧嘩しているのである。思っていた以上に岩手県民というのは奇怪な存在らしい。


 さらに山道を歩く。すると、ぽつんと一軒の屋敷が見えてきた。随分と大きな屋敷のようにも見えるが、なぜだか森と一体化しているようにも見える。

 その屋敷には看板がかかっていて、「山猫軒」と書かれている。何かのお店だろうか。

 ちょうど、二人組の紳士がその店に入ってくるところだった。猟銃を持っており、狩りに来ているようだ。


「ここは料理店です。ふふ、どんな料理のお店なのか、少し見てみましょうか」


 宮沢賢治はそう言いながらも、料理店を遠巻きに見ているだけで、中に入ろうとはしなかった。

 しばし時が流れる。ハッハッと犬の吐息が聞こえてきた。やがて、犬はこちらに向かって走ってくると、料理店に向かって吠え始めた。


――キャンキャンキャン


 すると、料理店の姿がぐにゃりと歪む。屋敷から猫へと姿が変わった。まさに山猫である。

 山猫は犬の鳴き声に驚いて逃げ去り、後にはなぜか真っ裸になって油まみれになった二人組の紳士だけが残されていた。


「あの二人はどうやら助かったようですね。彼らは狩りをするために山に入りました。それが逆に狩られる側になったのです。皮肉なことですね」


 宮沢賢治の言葉にイチロー兄さんが訝し気に反応した。


「それは何が言いたいのだ。生物であるなら生きるために食べることは当たり前のこと。それが罰を受けるべきことだとあなたは言いたいのかな」


 宮沢賢治は涼しい微笑みを浮かべたまま言葉を返す。


「動物の肉など、わざわざ食べる必要はないのです。私たちには大地の恵みがあるのですから。

 文明社会は農業を発展させた社会です。それは苦しみを生まないためのもの。肉食から離れた暮らしもいいものですよ」


 しかし、その言葉にはどこか棘を感じさせた。

 イチロー兄さんは納得がいかないように呟く。


「酪農だって農業のうちだろう。誰かが生きるためには誰かが死ぬ。それこそが自然なことだ」


   ◇   ◇   ◇


 ふと気づくと、俺たちは汽車に乗っていた。

 いつの間にか夜になっていたのだろうか。窓を見ると真っ暗だったが、煌々とした星々の輝きが見て取れた。

 岩手というのは星がここまで綺麗に見えるものなんだな。


「ほら、ゴロちゃん、あれ天の川だよ。こんな近くに! すっごい綺麗だね」


 モモちゃんは窓にしがみつくような姿勢になりながら、夢中で外を眺めている。


「ねえ、この汽車っていつ乗ったんだっけ? どこに行くんだっけ?」


 俺が疑問を口にすると、モモちゃんがキョトンとした。


「あれ、知らなかったっけ。これは銀河鉄道。この汽車に乗って盛岡もりおかまで行くところよ。

 銀河鉄道は乗り込むものじゃないの。いつの間にか乗っているものなのよ」


 なんだそれ。意味がわからない。

 そう思っていた矢先、イチロー兄さんが口を開いた。


「ゴロー、これは東京都民であれば常識だぞ。

『銀河鉄道の夜』ではカンパネルラは死んだ友人の魂を見送るために銀河鉄道に乗る。その行為に始まりなどあるはずもない。銀河鉄道への乗車はいつの間にか行われているものなのだ」


 死者を見送る? どういうことだろう。俺たちの中に死んだものなんて……。


「いる。宮沢賢治よ、そうだろう?」


 その言葉に宮沢賢治は優しい微笑みを浮かべた。


「気づいていたのですね。その通り、私は生者ではありません。イーハトーブは心象の理想郷。この場所でなら、あなたたちに語り掛けることができるのです」


 それを聞いて、イチロー兄さんはフフンと鼻で笑う。


「だから、説教ばかりしていたんだな。死人になると説教が多くなる。気をつけた方がいいぞ」


 この物言いには少しだけ宮沢賢治の顔が曇った。


「そうかもしれませんね。ですが、私の言葉、気が向いた時は思い出してください」


 そんな話をしているうちに、汽車が止まった。盛岡についたのだ。

 俺たちは宮沢賢治に見送られて、その地に降り立つ。


 銀河鉄道は気づいたら消えていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る