第三市 腐敗

 不敵な笑みを見せるイチロー兄さんに対して、茨城県民たちはいきり立った。思い思いの罵声が浴びせられていく。

 それを止めたのは誰あろう水戸みとのご老公であった。


「やめるのだ。この者の言を聞こうではないか」


 さすがの貫禄である。だが、それに対して、イチロー兄さんは一貫してふてぶてしい。


「水戸の名物といえば納豆でしょう。ですが、東京にも東京納豆あり。水戸納豆に引けも取らない極上の風味ですぞ。

 どうでしょうか。ここはグルメ対決を行ってみては。あくまでも、これは茨城県民あなたたちにとって有利な勝負で、茨城県民あなたがたの土俵といっていい勝負。ですが、我々は東京都民です。ちょうどいいハンディキャップといえるかもしれません」


 なんという不遜な物言いか。案の定、茨城県民たちの空気が重い。明らかに不興を買っていた。

 しかし、その空気をまたしても水戸のご老公が打ち破る。ご老公は呵々かか笑った。


「カッカッカッカ、その恐れを知らぬ態度、嫌いではない。余興に過ぎぬ勝負だが、受けて立とう。

 だがな、その東京納豆とやらで、我らが水戸納豆を破れるなど思わないことだ」


 さすがは水戸のご老公だ。器の大きさを見せつけるとともに、茨城県民たちの溜飲も同時に下げる。この言葉によって茨城県民たちは大いに湧きたっていた。


「では、一週間後にここへ来てください。ご老公に『美味い』と言わせてみせますよ」


 さらなる挑発的な物言いにブーイングが巻き起こる。だが、それも勝利の確信があるためか、茨城県民の熱気に呑み込まれた。

 とりあえず、平穏に話が収まって、ホッとする。しかし、イチロー兄さんは東京納豆で勝てると本当に思っているのだろうか。


「もちろん、私には勝算がある。だが、そうだな。東京納豆の製法はモモが知っている。この場は二人に任せよう。

 私は海に行ってくる」


 水戸は海岸にほど近い都市である。まさか、海に来たから海に行こうなどという腹づもりなのか。

 その言葉通り、イチロー兄さんは海へと消えていった。


 呆れてものも言えない。勝負を捨てる気なのだろうか。俺はため息を漏らしながら、モモちゃんと目を合わせた。


    ◇   ◇   ◇


 俺は東京都から取り寄せた大豆をまず用意した。東京の流通はサブローさんが握っている。これまでの旅によって、他県の交通網も多少は発展してきており、サブローさんに向けて篝火かがりびを送ることで、大豆を送るよう連絡したのだった。


 その大豆をまずは浸漬しんせきする。一晩中、大鍋に入れて、水に浸すのだ。


「あのねえ、ゴロちゃん、東京納豆って、東京の納豆じゃないのよ。

 人づてに作り方は知ってるっちゃ知ってるんだけどね」


 はあ? 一体どういうことだ。


「東京納豆って三重県で作られている納豆なの。三重県民にとっては東京という響きに憧れてるんでしょうね。東方から伝わってきた食べ物には東京とつける習わしがあるみたいで」


 なんだってぇーっ!

 まさか、東京納豆が東京の納豆ではないなんて。だったら、水戸納豆に勝てる道理なんてないじゃないか。


「大丈夫。今回の東京納豆は東京の大豆で作るものなんだもん。ちゃんと東京納豆になるよ」


 そんなものだろうか。でも、やれるだけのことはやらなくてはならないだろう。

 それにしても、三重の納豆の製法なんて、どうやって知ったんだろうか。


「三重県民は忍者伊賀者だから」


 モモちゃんはなんだかよくわからないことを言った。

 まあ、納豆を作ることにしよう。


 大鍋を蒸し器にし、そのまま蒸煮じょうしゃする。大豆を蒸して、柔らかくするのだ。

 続いて、納豆菌を噴霧ふんむする。大豆に納豆菌を振り撒き、まんべんなくかき混ぜていった。

 そして、小分けにしてむろに入れる。温室のなかで納豆が発酵するのを待つ。これまた一晩かかる。


「大丈夫。美味しい納豆になるよ」


 不安そうにしているのが見て取れたのだろうか。モモちゃんが励ましてくれた。


    ◇   ◇   ◇


 デデーン


 銅鑼どらの音が鳴り響く。

 水戸城の前にはグルメ決闘場が出来上がっていた。真っ白な天幕が広がり、その周囲には侍たちが座している。まさに真剣勝負の場というほかない。

 こんな場所で自分たちの納豆を出すのだと思うと、場違いに思えてならなかった。俺は震えあがっている。


「イチロー殿は見えていないか。あれだけ大口を叩いたのだ。臆したのだろう」


 その言葉通り、イチロー兄さんはこの場にいなかった。

 一体、どうしたというんだろう。本当に逃げてしまったのだろうか。イチロー兄さんに限ってそんなはずはないとは思うが……。


「ならば、我々が先行させてもらう。料理勝負は先行が圧倒的に有利。知っておるよの」


 それはその通りだ。料理勝負は先行が有利。二番手以降のものは先行のインパクトを超えることができなければ、勝つことができないものだ。

 イチロー兄さんであれば、料理勝負は後攻が勝つのがセオリーだなどとうそぶいているだろうけど。


「助さん、格さん、やってしまいなさい」


「ハッ」と若い二人の侍が返事をすると、たすきで着物を縛り上げると、厨房へと入っていく。そして、次々と料理を出してきた。

 目の前にはまずご飯とみそ汁が置かれる。ご飯の香りが食欲をくすぐってきた。みそ汁には巻きと三つ葉が入っている。


「まずは、そぼろ納豆」


 その納豆の中には切り干し大根が混ぜ込まれていた。

 納豆の独特の香りと粘り気、その中にあって、切り干し大根のシャキシャキした食感と味わいが実に鮮烈だ。ご飯ともよく合う。


「日本酒と合わせるのもいいみたいよ」


 そう言いながら、モモちゃんはほんのりと頬を赤らめながら、茨城の地酒、大吟醸悪代官を煽っていた。すでに少し酔っていそうだ。


「続いて、湯葉巻き納豆」


 その名の通り、納豆を湯葉で巻いたものか。

 繊細な味わいの湯葉と納豆の組み合わせは面白い。湯葉の印象的な味わいが納豆によって増幅されているようだ。

 これこそ、日本酒に合う納豆料理だろう。


「包み揚げ」


 納豆が油揚げに包まれ、揚げられている。こんな納豆料理もあるのか。

 香ばしい味わい、油の満足感と旨味。その中で弾けるように納豆が飛び出て、インパクトのある美味しさを残している。


 どれも美味い。これはまずい。

 俺の額から油のような汗が流れてくる。


 断言していいだろう。これは勝てない。絶対負けだ。

 素人の一夜漬けのような東京納豆で、この素晴らしい水戸納豆料理の数々には勝てるはずがない。


――ハッハッハッハッハッ


 敗北感に打ちのめされた瞬間、高笑いが響いてきた。イチロー兄さんだ。

 けれど、こんな場面で現れて、何ができるというのか。


    ◇   ◇   ◇


「ほほう、これが水戸のご老公が用意された納豆料理か」


 イチロー兄さんは勝負の場にずけずけと入り込み、次々に納豆料理を食べていく。そして、例によって大笑いを始めた。


「フッ、ご老公ともあろう方が、こんな料理で勝負とは滑稽なものだ」


 言うに事欠いて、水戸のご老公を侮辱するような振る舞いと言動。侍たちが剣呑けんのんな殺気を放ち始める。


「何だと。では、お前は私たちの納豆以上のものが出せるというのか」


 さすがのご老公も苛立ちを隠しきれていない。

 しかし、その様子を眺めつつも、イチロー兄さんは不敵な笑みを浮かべたままだ。


「当然のこと。こんなものよりもはるかに美味いものを味合わせてやろう」


 そう言うと、パチっと指を鳴らす。その合図に従って、板前が料理を持って現れた。

 だが、その持ってきたものは――、


鮟鱇アンコウの肝」


 いわゆるあん肝だ。確かに茨城県の沖はアンコウの名産地。海に行くと言っていたが、これまでの間、海釣りでアンコウを獲っていたいたというのか。

 一口食べると、芳醇な味わいが口いっぱいに広がる。納豆にはない鮮烈さがあった。それでいて、生臭さもなく豊かな香り。


「美味しい!」


 モモちゃんが喝采を上げる。


「こってりとしているのに、純粋な味わいですな」

「納豆の王とうたわれる水戸納豆が……、あん肝の前では霞んでいる」


 ムリョーと芹沢鴨も絶賛した。

 いや、あん肝の前で納豆が霞むなんて当たり前のことだ。


「バカな! この勝負は納豆グルメ勝負ではなかったか。あん肝など出しおっても勝負は無効だ」


 水戸黄門の怒声が響いた。

 しかし、イチロー兄さんは涼やかな笑顔のまま、水戸黄門に近づいていく。


「水戸納豆と東京納豆の話はしましたが、納豆に限定したグルメ勝負だとは言わなかったはず。この勝負、無効にはなりません」


 そう言いつつ、水戸黄門にあん肝を食べさせる。


「美味いではないか」


 水戸黄門もその美味しさを認めた。

 その身体からはオーラが発せられ、茨城県から福島県への道筋を示した。次なる目的地は福島ということか。


 しかし、勝負の内容を誤解させるとは東京都民らしい戦略だけど、俺たちの作った納豆はどうするのよ。囮に過ぎなかったというのかい。


「なに、道中の携帯食として食べればよかろう。茨城県民にお裾分けしてもいい」

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