第三市 つる舞う形の群馬県

 気がつくと、見知らぬ場所に来ていた。

 周囲には駕籠の入った棚がそこかしこにある。また、扇風機が回り、体重計も置かれていた。

 どうやら温泉の脱衣所のようだ。


「さあ、ゴロー、とっとと服を脱げ。温泉に行くぞ」


 イチロー兄さんは突然のことだというのに、すでに状況を把握しているような口ぶりだ。

 まあ、せっかく温泉に来たんだ、温泉に入りたい。俺は服を脱ぎ、駕籠の中に入れる。


「じゃあ、行こう、兄さん。って、全裸じゃないのか?」


 イチロー兄さんはその筋肉美溢れる肉体をすでに晒していたが、ブーメラン型の水着を着ていた。プールに行くんじゃない。温泉じゃないのか。


「ここは混浴だ。この浴場では水着を着て入るのがマナーのようだぞ」


 イチロー兄さんが浴場の注意事項を眺めながら言った。


 なんと! いや、それは気まずい。ということは、モモちゃんも入ってくるということだよな。

 従兄妹同士だぞ。それはまずくないか。もっとも血縁はないんだけど。いや、余計に気まずい。


「何がまずいんだ? 家族だぞ」


 いつも通り、イチロー兄さんは堂々としている。しかし、俺にはそんな態度は取れそうになかった。どうにもドギマギしてしまう。

 それに、ほかに女性がいたらどうしたらいいんだ。モモちゃんの手前だ。平然としなくては。


 どうにか平常心を取り戻して、水着を着ると温泉に向かう。

 温泉には誰もいなかった。なーんだ。


 身体を洗い、温泉に入ろうとすると、女性用の脱衣所から温泉にやって来る人がいた。なんとなく視線を向ける。モモちゃんだった。

 競泳用のような水着を着ている。肌の露出はそこまでではないがぴっちりとした水着により、彼女のボディラインがしっかり見えていた。胸の膨らみが流線状になっており、そのまま細い腰回りが明らかになる。それに普段は隠れている太ももが露わになっている。

 もう一度、胸の膨らみに目が行く。昔会った時はまだ子供だったのに、いつの間にか大人になったんだなと実感した。


 プシュっ


 俺の眼に温泉の湯が飛び込んできた。不意に水が目に入る。

「痛い、痛い」

 思わず声を上げた。そんな俺にイチロー兄さんの言葉が刺さる。


「あまり女性をジロジロ見るんじゃない。失礼だ」


 すでにイチロー兄さんは温泉に浸かっており、指で作った水鉄砲で俺の目を的確に狙撃したようだ。

 俺は気恥ずかしくなり、そのまま温泉に入り、頭まで浸からせる。


 ぶくぶくぶくっ


 なんだか普段のお風呂より温まるというか、気持ちがいい。なんていうか、刺激があるというか。

 やはり、草津の湯は違う(ような気がする)。


「ぷはぁっ」と顔を出すと、いつの間にか隣にモモちゃんが来ていた。

 モモちゃんは俺に対して、いたずらっぽい目線を送る。


「ねえ、ゴロちゃん。私の体、もっと見てたかったんじゃないの?」


 その言葉に俺は慌てる。


「そ、そんなことは……。か、家族だし……」


 何も言い切ることができていなかった。俺は情けなくなり、ただモモちゃんから顔を背けることしかできない。

 そんな時、異変が起きた。何かが迫ってくる。


「危ない!」


 俺はモモちゃん突き飛ばし、その場から退がらせる。


 ブンブっ


 モモちゃんのいた場所に円盤状の何かが突き刺さっていた。これが群馬の恐怖の正体であろうか。


     ◇   ◇   ◇


 ついに現れた恐怖の正体……! 俺は戦慄する。

 円盤状の存在ということか。まさか群馬は宇宙からの……。


「いや、そんなものではない。ゴロー、よく見ろ」


 イチロー兄さんの叱責が響く。その声を聞き、俺は円盤の正体に目を向ける。


 円盤状のものはさらに回転を続け、温泉の岩盤から抜け出て、再び空中を旋回していた。これがUFO以外の何だというのか。

 だが、よく見ると、茶褐色でありながら金属質の光沢がある。ブツブツ状の模様があり、蓋と取っ手がいくつか見えた。


「これって、茶釜ですよね」


 先にモモちゃんに言われてしまう。そう、これは茶釜だ。しかし、なぜ茶釜なんてあるんだろう。


「これは分福茶釜ぶんぶくちゃがまのようです。分福茶釜というのは館林の茂林寺に出没した妖怪で、変化の術を覚えたタヌキが茶釜に化けて人を騙したとか」


 いまだ水着姿で温泉に浸ったままだというのに、モモちゃんは全国観光ガイドを手にしていた。一体、どこから出したというんだ。

 だが、それ以上に問題なのは分福茶釜に対抗する手段がないことである。温泉に入っている俺たちはまったくの丸腰で、なす術がなかった。


「俺が対処しよう」


 温泉の奥から声が響いた。そこに目を向けると、老人がいる。

 なんということだ。今まで、まるで気がついていなかった。気配がまったくなかったのである。

 この老人、只者ではないだろう。


「ご老人、お名前は?」


 イチロー兄さんが老人に問う。老人はふふっと笑いながら答えた。


上泉かみいずみ信綱のぶつな。ただの老人じじいよ」


 そう言うと、上泉信綱と名乗った老人は頭に乗せていた脇差を抜く。

 老人は全裸だった。だが、その筋肉という筋肉、血脈という血脈の全てに力が漲っているのがわかる。そして、その力が脇差に完全に伝わっていた。


 ブンブクっ


 茶釜が空中を旋回する音が鳴り、我々に向かい、突撃してくる。

 その前線に、上泉信綱が出ると、瞬間的に茶釜を切り裂いた。


 カツンっ


 分福茶釜が真っ二つに分かれ、地に落ちる。切断の音は聞こえず、ただ茶釜が落ちた音だけが響いていた。

 それと同時に、上泉信綱は脇差を鞘に戻している。

 なんという神業。一切の無駄のない動き。俺はその美技に見惚れていた。


     ◇   ◇   ◇


「俺を弟子にしてくれませんか!」


 思わず、そう口走っている。まだ温泉に浸かりにきた水着姿のままであり、それを申し出でた対象である上泉信綱もまた全裸のままだった。けれど、申し出でずにはいられなかった。それほどの剣技だったのだ。


「本来、刀など頼りにするものではないのだよ。だが、俺は未熟ゆえ脇差を携えておった。

 わかるか、俺はただの未熟者なのよ」


 それを聞いてわかる。この人は無刀の境地に到ろうとしている。いや、すでに達しているのかもしれない。


「俺も刀など必要としなくなりたいのです。ですが、どうしても、こいつは俺を追ってくる」


 俺が右手を前に差し出すと、それに反応して、将門公まさかどこう佩刀はいとうであった童子どうじりの太刀が右手に収まった。


「太刀に愛されているのか。それは厄介なことだ。ならば、我が秘術、教えねばならぬな」


 上泉信綱の反応が初めてかんばしくなる。そして、全裸のまま、脇差を抜いた。そして、下段に構える。防御に徹底した構えであり、現代ではこのような構えを行うものはいない。


「舐めているのですか? 俺の攻めが生ぬるいとでも?」


 疑問を口にするが、上泉信綱は「ふふっ」と笑った。


「お前さんを信じているからこその構えなのだ。遠慮せずに打ち込んでこい」


 その言葉に俺は少しだが「むっ」となった。俺の技とて二十年磨いてきたものなのだ。受け切れるものならば受け切ってみろ。

 そんな思いのままに、上段に剣を構えると、上泉信綱の準備ができていないタイミングで撃ち込んだ。


 スパンっ


 俺の頭が脇差の腹で叩かれていた。何をされたのかわからない。


「これぞ我が極意、活人刀かつにんとう。後の先にて、勝ちを得る妙技よ。

 今のがわからぬなら、何があったのか考えられよ」


 それを言われて、俺は何も言えなくなる。俺はなぜ負けたのか。なぜ打ち込まれたのか。

 答えはあるはずだが、まるで理解できなかった。


「気が済んだか、ゴロー。行くぞ、群馬を離れる時だ」


 イチロー兄さんが語り掛けてくる。いまいち飲み切れないものの、その言葉に反応した。


「群馬県が俺たちに反応したみたいだ。この形は……鶴なのか」


 鶴の形をした巨大な鳥が私たちの周りを旋回する。これは、まさか「鶴舞う形の群馬県」なのか。

 飛び交う鳥こそが群馬県の正体なのだ。


「だけど、おかしいよ。まだ、群馬を制したとは言えないんじゃないか。群馬の底知れない恐怖の正体も掴めていない。

 だというのに、群馬県が俺たちを認めてくれたというのかい?」


 俺の言葉に「ふふっ」とイチロー兄さんが笑う。


「気づいていないのか。群馬の恐怖の正体はお前自身にあったんだ。東京都民のお前は群馬を得体の知れない『グンマー』として恐れていた。それ自体が群馬の恐怖の正体だ。

 お前はそれを克服した。だから鶴たる群馬県もお前を認めたんだろう。これは東京都民が群馬を制したと言っていい」


 そう言うと、兄さんは鶴の背に飛び乗った。


「乗れ!」


 イチロー兄さんの掛け声が響く。それに従い、俺は鶴の大地へと飛び乗った。イチロー兄さんもモモちゃんも同じように鶴に乗っている。そして、俺も彼らの乗る鶴に飛び乗った。


「鶴舞う姿の群馬県。この鶴は俺たちをどこに運ぶんだろうな」

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