第四県 次元の狭間、埼玉

第一市 浦和無限回廊

 とうとう埼玉県へと降り立った。

 海洋が延々と続く千葉県とは打って変わり、埼玉県は市街地のようだった。まるで、東京都のようだ。


「埼玉県民の中には自らを東京都民と擬態するものもあるようです。その習性から、まるで東京のような都市を造ったのでしょう。しかし、所詮は擬態です。どこかに綻びがあるはず」


 モモちゃんが全国観光ガイドを読みながら、そう言った。それに反応するのはイチロー兄さんだ。


「それは穏やかじゃないな。東京都民に成り済ますものなど、あってはならない。この埼玉県も我々の手によって制覇しなければならないようだ」


 あれ? 「も」って言ったか。神奈川県や千葉県はすでに制覇した気なのだろうか。

 神奈川では横浜横須賀の戦争を止め、大仏を自爆させた。あの自爆で神奈川は大きな打撃を受けたはずだが、それを以って、神奈川を制したと思っているのだろうか。

 千葉県ではB級グルメグランプリに出場し、千葉県民マイルドヤンキーたちを圧倒した。だが、それだけで千葉県を制したと思っているのだろうか。


「その通りだ、ゴロー。何を臆している? 我々はその二県を制した。

 あとは44道府県だ。まだ、先は長いぞ。油断をするなよ」


 そんなことと言われてもなあ。俺には兄さんについていくことはできないよ。


「とはいってもな、ここはまだ埼玉県の玄関口、浦和。ここには東京の残照が残されているだろう? だから、問題ない。君は大船に乗ったつもりでいてくれ」


 油断しちゃダメじゃなかったのか。まあ、いいか。


 俺たちは浦和の街を進み始める。看板には東浦和と書かれていた。

 市街地を進んでいく。そして、どれだけの時間が経っただろうか。地名を表す看板が目に入った。


「お、おい、なんだこれは!?」


 さすがのイチロー兄さんもこれには度肝を抜かれる。モモちゃんもまた、絶望的な表情をした。俺も二人と同じ気持ちだ。


「南浦和? 私たちが来た場所はどこだ? 浦和だっただろう? まだ、浦和だ。これはどうしたことなんだ?」


 まるで先へ進んでいない。そんな焦燥に駆られた。

 モモちゃんがイチロー兄さんを宥めるように言葉を紡ぐ。


「方向が間違っていたのではないですか? 今度は北に進んでみてはどうでしょう?」


 その言葉を受けて、俺たちは北へと進んだ。今度こそ、別の場所に続くはずだ。

 そんな俺たちの前に新たな地名が表示される。


「中浦和」


 おいおい、これはどうなっているんだ。一体、浦和からはどうやって出ればいいというのか。

 しかし、浦和の呪縛は俺たちを解き放ちそうにはなかったんだ。


     ◇   ◇   ◇


 さらに先へ進んだ私たちを待ち受けていたのは、さらなる絶望であった。


「武蔵浦和」


 まただ。俺たちは浦和のなかをただ足踏みしているだけなのだろうか。一歩も進んだ気がしない。


「くそっ、なんなんだ! モモ、全国観光ガイドに何か記述はないのか? 浦和は一体どんな場所なんだ?」


 それを受けて、モモちゃんは何度も全国観光ガイドのページをめくり、何度も埼玉県の項目を凝視する。しかし、答えは出ないようだ。


「ダメです。浦和について書かれていることを読み上げます。

 浦和は東京の北に位置し、住みやすいエリア。歴史的な名所や公園、ショッピングエリアがあり、サッカースタジアムもある人気の地域である、と」


 何ら建設的なアイデアの出るものではなかった。全国観光ガイドをもってしても、事体を改善する情報が得られない。

 これにはイチロー兄さんも苛立ったようだ。


「そんなことではないんだ。どうしたら、この地から先へ進めるのか、何か情報はないのか」


 その言葉を受け、モモちゃんもまた苛立ちを隠せない。


「わたしは情報を読み上げているだけです。実際に知っているわけないでしょ。

 それでも、全国観光ガイドの情報で得られるものがあったはず。それを分析するのがあなたの役割では?」


 俺は二人をどうにか宥めることにした。たぶん腹が減っているのだろう。腹が減っているから、つまらないことで腹が立つのだ。

 私は周囲を見渡し、食べ物の売ってそうな店を見つけると、そこへ入っていく。


 そこは和菓子屋だった。めぼしい菓子を選ぶ。そして、周囲を見渡した。店員はいないだろうか。

 いた。菓子を買う。金を払った。


「毎度あり」


 店を出る。

 あれ? 何かがおかしい。俺は誰から菓子を買ったのだろうか。俺は埼玉県人と会ったのか?

 いや、今はそんなことを考えている場合ではない。俺はバリバリと菓子の包み紙を破き、二人に菓子を差し出した。


「二人とも、落ち着きなよ。まずは食べて落ち着いてくれ。

 浦和で人気の『招きうさぎ』だってさ。可愛いだろう。それに食べると、すんごい甘いんだよ。まだ食べてないから知らんけど」


 しかし、二人の鬱憤は晴れないようだ。それぞれの怒りが俺に向き、両者の武器が俺に向かった。

 完全におかしくなっている。浦和が延々と続くことで、二人の精神に異常が来たしたのだ。いや、それは俺もか。俺にも二人への敵意が、憎しみの感情が満たされていく。

 そして、そのことに対して、もう一つの感情があった。


 こ、怖い……。俺はまだ死にたくはない。それに殺したくもないんだ。


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁあっ」


 悲鳴を上げながら、俺は二人の元から逃げ出していた。


 俺は走った。

 イチロー兄さんとモモちゃん、二人の争いが怖ろしかったからだ。その暴力性は俺にも向かってきそうだった。

 けれど、それ以上に二人を傷つけてしまうことも恐ろしい。


「はあはあはあ」


 肩で息を吐く。そして、その場所がどこであるか確認する。


「西浦和」


 やはり浦和であった。どこまで行っても浦和だ。俺たちは浦和からは逃れられないのか。

 それでも走った。そして、やはり肩で息を吐き、呼吸を整える。


「南与野」


 あれ? いつの間にか浦和から抜け出ていた。そして、この「南与野」という地名を見て、ピンと来た。


 そうか、そうだったんだ!


 もはや、イチロー兄さんとモモちゃんが争っている理由もない。二人を説得し、またこの場所に来なくては。俺は武蔵浦和へと急いだ。


     ◇   ◇   ◇


「二人ともやめるんだ!」


 走って、走って、走って。

 何度も立ち止まり、何度も肩で息を吐いた。そして、ようやく武蔵浦和に戻ってきた。


 その場ではいまだイチロー兄さんとモモちゃんが争っている。

 両者の実力が拮抗しているゆえか。あるいは、どちらかに理性が残っているのか。


 イチロー兄さんのネクタイが鞭のようにしなる。それに対し、モモちゃんはナイフにふだを刺したものを手にし、タイミングを見計らっていた。やがてそのナイフを投げると、しなるネクタイへと刺さる。


「ネクタイを禁ずるは即ち締まることを禁ず。禁っ!」


 モモちゃんの得意とする仙術の一つ、禁呪だ。言葉に応じてふだが効力を発した。

 ネクタイはその統一された動きを失い、へなへなと力を失う。だらーんと地面にしなだれた。ネクタイの持つ本質を禁呪により封じたのだ。

 だが、その瞬間にイチロー兄さんは胸元から拳銃を出し、抜きざまに撃ち放つ。


「危ないっ!」


 迷っている暇はない。俺は地面に落ちていた石を拾うと、イチロー兄さんの撃った銃弾とモモちゃんの間を狙って放り投げる。


 ダァカァンっ


 目論見どおり、弾丸は石にぶつかり、明後日の方向へと飛び散った。

 俺はそのまま走り、二人の間に立つ。


「やめてくれ。もう二人が争う理由なんてない。わかったんだ。浦和無限回廊の秘密が」


 この言葉に狂気に歪んだイチロー兄さんとモモちゃんの目が揺らいだ。少しだが、正気に戻りつつあるようだ。


「よく聞いてくれ。埼玉の地名は北に行けば北と付き、東に行けば東と付く。

 東京であればそんな法則はない。万華鏡のような軌道を用いて命名される。例えば、品川の南に行けば北品川があるようにね。

 どの地名も斑らになっているから、自分たちがどれだけ進んだのかよくわかる。けど、埼玉は違うんだ」


 どうやら、二人はおとなしくなってくれたようだ。俺の話に聞き入っている。


「だから、南浦和についた時、北へ向かい続ければ、北浦和についたんだ。さらに北へ行けば別の地域へ進めるはず。東京都の常識からすれば、ありえないことだけどね。

 どうだい? 正気になったかい」


 すでに、イチロー兄さんもモモちゃんも、元に戻っていた。

 イチロー兄さんはいつものように笑い声を上げる。


「ハッハッハッハ、よくぞ謎を解き明かした。まさかそのような絡繰カラクリとは、我ら東京都民には到達できる答えではなかったな。島暮らしの長いゴローならではの解答だ」


 賞賛の声が心地よい。確かに、この感覚は島での生活で培ったものかもしれない。


「すごい、ゴロちゃん! おかげで命拾いしちゃったね」


 モモちゃんもニコニコしている。いや、あんた、もうちょっとで死ぬとこだったんだぞ。

 しかし、すでに二人とも次の目的地について考えている。


「ここまで来て、まだ埼玉県民に会っていないな。一体、どのような存在だというのだ」


 イチロー兄さんが疑問を口にする。俺には少しだけ心当たりがあった。


「俺、埼玉県人に会った気がするんだ。でも、どんな姿だったかわからない。姿が見えないのに存在しているというか」


 それを聞いて、イチロー兄さんは少し考える。そして、胸元のうちポケットをパンパンと叩いた。


「それは幽霊か。幽霊であれば、脳天を銃弾で撃ち抜けばいい」


 物騒なことを言う。しかし、イチロー兄さんといれば、どんな怪異が相手であってもどうにかなる。そんな気分が湧いてきていた。

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