第三県 深遠なる海底王国、千葉

第一市 ねずみの王国

「太平洋は気持ちのいい晴天だな。けれども、波が高いか」


 太陽が洋上で照りかかる。見渡す限り、青い海が広がっていた。

 イチロー兄さんは上機嫌で船から外海を見渡している。


「でも、この場所も本来、東京湾に含まれていたようですね。かつては千葉が地上にあったことがあったみたい。房総半島が入江を形作って、内海を作り出していたようです」


 モモちゃんが全国観光ガイドブックを読みながら、そう言った。

 まさか、一つの県が海底に沈むなんてことがあるのだろうか。最初から海底に沈んだ県だとばかり思っていた。


「ハッハッハッ、ここも東京湾だったのか。これはいい。なかなか痛快なことだな。

 それで千葉というのはこの辺りでいいのか?」


 その言葉にモモちゃんが答える。


「この辺りは幕張でしょうか。GPSの反応だと」


 その言葉をわかっているのかいないのか、イチロー兄さんは大笑いした。


「ハッハァー、まあ、何があるか潜ってみようじゃないか」


 テンションの高いまま、イチロー兄さんは潜水服を身に纏っていた。そして、ヘルメットを被ると、水圧やボンベの最終確認をして、海の中に潜っていく。


 時間が過ぎる。イチロー兄さんが潜ってどれぐらい経っただろうか。

 もうボンベの酸素はなくなりつつあるはずだった。このまま、海の中で力尽きたりしないか不安になる。そうヤキモキしたタイミングで、ようやくイチロー兄さんが顔を出した。

 イチロー兄さんはヘルメットを外すと、開口一番こう言った。


「ねずみの王国があったぞ! みんなで向かおう」


     ◇   ◇   ◇


 俺とモモちゃんが潜水服を着込んだ。だが、不安がある。イチロー兄さんほどのものでも上がってくるのがギリギリだったんだ。俺の潜水能力でどれだけ進めるだろうか。


「大丈夫だ、ゴロー。お前ならできる」


 イチロー兄さんはそんなことを言う。できない人間のことをわかっていない。

 海を見つめると、その深さが実感された。俺は膝がガタガタと震えるのを感じる。海に潜るのが怖かった。


「ゴロちゃん、その物言い、場合によっては嫌味になるって理解したほうがいいよ」


 モモちゃんの言葉はどうも理解できないものだ。俺、何か言ったかな。

 よくはわからないが、責めてられているようにも、期待されているようにも思える。


 ええい、しょうがない。もう進むしかないのだ。

 私は追い詰められた気分で率先して海底へと進んだ。暗闇の海をヘッドライトで照らし、底へと向かっていく。

 すると、あろうことか、海底に光り輝く街があった。なんだあれは。


 まさか、あれがイチロー兄さんの言うねずみの王国だというのか。

 私たちは光に吸い込まれるように、その王国の中へと入り込んでいった。


 そこでは、ねずみの王国の貴族たちがパレードを行っていた。

 華やかな明かりが周囲の城から照らされている。陽気な音楽とともに、周囲の木々にも幻想的な明かりが灯り始めた。その明かりの中にいるのは妖精だ。妖精は弾ける光とともに周囲に飛び交う。

 城からは色とりどりに輝く馬車や機関車が現れていた。それに乗っているのはねずみの王とねずみの王妃。それに、貴族と思しきガチョウだかアヒルだかもいる。犬の召使いも偉そうに、けれども、雅な雰囲気を放ちながら周囲を歩いていた。

 輝く兵隊たちがその後に続き、パレードの豪華さを担保している。


「なんだこれは」


 俺は思わず呟いた。実に洗練された上手なパレードだ。綺麗で、煌びやか。心地よく、うっとりとした気持ちにさせてくれる。


「これこそが芸術だな。素晴らしい。高貴なる東京都以外で、このような素晴らしいものに会えるとは。どうだ、旅に出て良かっただろう」


 俺の圧倒される気持ちをイチロー兄さんが代弁してくれる。


「ほんと、素敵。見て、あの馬車、あんなまばゆい光を放って。

 私、ゴロちゃんと千葉に来れてよかったな」


 そう言うと、モモちゃんはトロンとした目で、俺の肩に寄りかかる。

 え、そんなことが。ドキッとする。モモちゃんは俺のことをそんな風に思ってくれていたのか。

 とはいえ、それ以上のことなんて、するわけにもいかず、ただ困惑していた。なんとなく息苦しくなる。


 俺がそんなドギマギした気持ちを抱いていると、遠くから「ワンッ」という犬の鳴き声が聞こえた。一瞬、ビクッとなる。でも、犬はパレードにもいたしなと納得する。


 こんな夢みたいな世界から出たくはない。


「はっ!」


 自分の考えたことを反芻し、違和感を抱いた。ここは夢みたいな世界だというのか。夢とは幻想だ。


「ワンッ」


 再び犬の鳴き声が聞こえる。覚醒する感覚があった。

 まどろみとともに、再び夢の世界に戻りそうになる。


「ワンッ」


 目が冴えてきた。そうだ、ここは夢の世界だったんだ。目覚めてみる景色は深海の暗闇にほかならなかった。


     ◇   ◇   ◇


「ここは深海。はっ、空気は……」


 そう思うと、息苦しさを感じた。思わず、空気をハーハーと吸い込んだ。

 もうボンベの酸素は残り少なくなっている。


 夢の中では息苦しさも自然に受け入れていたが、現実だとわかると慌ててしまう。すぐに海上に逃れなくては。

 俺はどうにか水上に出ようと足掻いた。


 足掻きながらも周囲を見渡した。

 イチロー兄さんもモモちゃんも意識を失いながら、周囲に漂っている。起きてくれればいいが、最悪、海上へ連れ出さなくてはいけない。

 そう思いながら、二人に近づくと、俺よりも先に二人を抱え上げるものがいた。


「南総へようこそ。君たちは私たちが守るよ」


 それは犬だった。姿は見えないが、俺はそう感じる。その犬はイチロー兄さんとモモちゃんの身体を持ち上げたまま、海上へと進んでいく。どこかおぼろげなものを犬に感じていた。


「プハァァツ」


 海上に出る。ヘルメットを外し、ようやくまともに呼吸できた。

 周りを見ると、会場に浮かびかながらも、ぐでぇーっとした様子のイチロー兄さんとモモちゃんが浮かんでいる。俺は二人に近づくと、ヘルメットを取り、呼吸をさせた。


「ふはっ! 夢の国と思いきや、まさか夢落ちとはな! 禁じ手とされるオチではあるが、かのルイス・キャロルも採用しているしな。由緒ある手法だ」


 イチロー兄さんはよくわからないことをぼやきつつ、海上で得意げに笑った。


「えっ、夢!? なぁんだ。でも、あんな楽しいこと、実際にあるわけないか」


 モモちゃんは目を覚ましながらも、落ち込んでいる。。

 でも、まあ、三人とも無事なのだ。それで良しとしよう。


「おうおうおう、千葉に来た船ってのはあれかよ」


 急に話し声が聞こえてきた。猛スピードでこちらに近づいてきているものがある。

 それは魚のようであり、暴走族のようだった。それらが混ざり合った奇妙のもののように感じる。


「へっ、軍艦のようだが、乗組員は少ないようだな。他県人からは恐喝して金を奪い、乗船は解体して金に換えよう」


 物騒な物言いである。あんな奴らには捕まりたくない。


「あれは新たな千葉県民、半グレ半魚だな。すぐに船にも戻れ。とっとと逃げるぞ」


 イチロー兄さんが指令を発する。それを受けて、俺とモモちゃんは船へと急いで戻った。

 本来は半人半魚というべきだが、出現した千葉県民は半分ほども人間ではなかった。半グレだ。だから、半グレ半魚というのだろう。

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